★ 私のカワサキでの現役時代は「単車事業」のスタートの時期からずっと単車事業とともに歩んできたのだが、
その現役時代は「カワサキアーカイブス & 私のアーカイブス」と題して10回の連載で纏めている。
カワサキを引退したのは64歳の時だったのだが、
まずは80歳までの約15年間がどんなものだったのか?
日記を読み返しながら、「私のアーカイブス・定年後」と題して、
何回かに分けて纏めてみたいと思っていて、まずはその第1回目である。
★ まだ川重籍だった1997年のある日の夜、高橋鐵郎さんから家に電話があって、
「突然だが北海道に行ってくれないか」と仰るのである。
当時は高橋さんは川重副社長で単車と建機を担当されていたのだが、北海道は単車ではなくて建機のことなのである。
現在は建機事業そのものを日立に移管したので社名も「北海道川崎建機」と変わっているが、当時は「北海道川重建機」という社名だったのである。
「北海道川重建機」という名前から川重の子会社のように思われるかも知れぬが、実はそうではなくて自前資本の優良会社なのである。
たまたま社長が亡くなられたことから、川重に社長派遣依頼があったようなのである。
私は単車一筋で建機など全く経験もないのだが、若いころに東北で自前の代理店を担当した経験があったので、
「自前の代理店」のことは解るだろうということでのご指名だったようである。
確かに自前の代理店は伝統もあるし、独特の経営スタイルもあって、
メーカーの系列代理店や販社とは全く異なった、歴然とした「独立経営企業」なのである。
単車事業なども世界に販売会社があってそれぞれ独立経営をしてはいるが、
所詮はメーカー系列企業であって、独立した自前企業とは根本的に異なるのである。
単車とは全く違う商品だし、単車の経験など殆ど役に立たないので、
もし役立つものがあるとしたら、若い時に東北6県の代理店を担当した時の
「代理店経営」なるものを横からだが見ていてな何となく「解っている」ことだったのである。
「北海道川重建機」という名前の通り、二輪車とは全く異なる商品だし、
こんなに沢山の支店・営業所もある企業で、従業員の数も多いしなかなか大変だとは思ったが、
高橋鐵郎さんからの指名なので断るわけにはいかないのである。
そんなことで「2年間」という期間を設けて、札幌に「単身赴任」したのである。
優良企業であることから役員の給料水準は高くて、専務よりちょとだけ高くして頂いたら、川重当時より高くなったりしたのである。
先方からの「社長派遣依頼」であったので、非常に気を遣って頂いて
「社用車に運転手をつけましょうか」という申し出だったのだが、
それをお断りして、2800㏄の4駆のトヨタクラウンの新車を用意して頂いたのである。
★今更、建機車両の営業や商品のことなど覚えてみても仕方がないと思ったので、 営業内容や商品のことなどは一切覚えたりせずに、
私自身の独特の経営ノウハウや経営管理システムを導入したのと、
役員に比べて低かった一般従業員の給料水準を上げたりしたぐらいのことしかやらなかったのである。
北海道各地にある支店・営業所を自分で車を運転してよく回ったので、ある意味北海道旅行をしたような2年間だった。
お陰様で北海道の道は殆ど知っていると言ってもいいのである。
営業所では会食などもあって、従業員諸君とは面識もできたし、すぐ親しくなっていいお付き合いが出来たのである。
この点は二輪時代の販売店とのお付き合いのノウハウが役に立ったと思っている。
北海道は4月の後半から10月までの約半年しかゴルフはできないのだが、
期間が短いだけに、ゴルフにかけては熱心でその回数も多いのである。
私の歓迎会も送別会もゴルフだったし、取引先とのゴルフの回数は多くてこの2年間に100回ぐらいのゴルフをしているのである。
北海道独特のゴルフでアウト・インを通してやるので午前中はゴルフ場、午後からは会社で土日にゴルフなどはしなかった。
会社に定時までいたら「社長なのになぜ定時までおられるのか」と仰るのでである。
そのあたりが自前の会社の社長の違うところで、以前の社長は幾つもの会社を兼務されていたので、実務は専務が取り仕切っていたようである。
そんなことで私もウイークデーでも午前中はゴルフということも多かったので、
「私のゴルフ人生」でもこの期間が一番充実していて、30台後半は珍しくはなかったし80台がほとんどというゴルフだったのである。
★そんな2年間だったのだが、北海道を離れてからもいろんな方たちとのお付き合いは続いたし、
会社側からも非常によくして頂いて、たった2年間の務めだったのに、更に2年間の顧問期間も設けて頂いたりしたので、
社長を離れてからの顧問時代も何度も北海道に行っている。
定年後のスタートはこんな北海道時代からスタートしたのである。
そんな4年間だったので、私の仕事を離れた定年後は自分では何となく「68歳から」だと思っているのである。