雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

二輪車の世界と私     雑感

2022-02-09 06:34:52 | カワサキワールド

★私は現役時代には二輪の世界に40年ほどいたのだが、
 個人的には二輪車も持っていないし、乗れるけどそんなに乗ったりもしない。
 技術的には全然ダメなので、その性能やメカについては全く駄目である。
 でも二輪車の世界には魅せられて、ハマってしまったところもある。
 
 引退した今でも、二輪関係の方とはいろんなところでお付き合いがあるし、
 そんな一つが未だに「二輪車新聞」や「カワサキバイクマガジン」が送られてくるので、
 二輪業界のことなど何となく解っているのである。


★その二輪車新聞の最新号に「小型二輪30年連続増175万台」とあった。
 750cc以上の所謂大型車の分野だが、30年も連続して増え続けているというのである。
 
 販売台数ではなくて「保有台数」なので、それだけの数のバイクが今日本にあるということである。
 この分野はカワサキの主力分野だから、
 銘柄別のシェアはひょっとしたらカワサキがトップかも知れない。


 こんな記事で、
小型二輪は175万台に
軽二輪は初の200万台越え」とある。
 
 
 

 二輪の分類は原付1種・原付2種・軽2輪・小型2輪に分かれていて、
 これは排気量50cc以下・50cc以上・250cc・750以上なのである


★ 日本の二輪車市場は、戦後100社を超えるメーカーが存在したのだが、
 ホンダ・スズキ・ヤマハ浜松勢に席巻されて、
 かっては三菱富士重BSもいたのだが、
 唯一大きなメーカーで残ったのはカワサキだけなのである。

 さらに特徴的なのはホンダスーパーカブヤマハメイトに代表される
 50㏄の原付1種がメイン市場という世界でも珍しい市場だったのである。

 下図をご覧になればお解りのように、
 国内の出荷台数は昨今激減しているのだが、
 それは原付1種の50㏄モペットが減ってしまったので、
 逆に250cc以上の中・大型車市場は堅調に推移しているのである。
 

 私が現役時代はこの図表以前の40年間なので、
 50㏄モペットはあの「HY戦争」の時代がその頂点だったし、
 逆に250cc以上の中大型スポーツ車の分野は微々たるものだった。

 4社の中で独りカワサキだけが、その中・大型スポーツ車を中心に、
 業界の中でも独自の販売戦略を展開していたし、
 私自身はその中心にいて、結構面白かったのである。

 当時の業界の主力機種50㏄の分野では、カワサキは全く駄目だったが、
 「中・大型スポーツ車」の世界では機種でも販売網政策でも、 
 業界を一歩リードして走っていたのである。
 保有台数の分野だが30年連続して増え続けているということは
 個人的にも本当に「嬉しい限り」なのである。


★ そんなカワサキの二輪事業の中で、いろんな機種にいろんな想い出があるのだが、

 まずはこの250A1、カワサキが世に出した初のスポーツ車だと言っていい。
 これがその時のカタログだが、これは私の広告宣伝課時代の作なのである。
 
 



 この車の開発時代は、まだ名神がガラ空きの時代で
 名神高速でその走行テストなどやったりしたのだが、
 あの金谷秀夫歳森康師など、レースライダーたちが手伝ったりしているのである。

 デザインの分野にもアメリカ人たちのアイデイアがいっぱい入っていて、
 「タンクはメッキ」が定番だったのに、それがカラーになったのはA1が最初なのである。

 いまでこそカワサキのイメージカラーはグリーンなのだが、
 A1の時代はまだレーサーなども「赤タンクのカワサキ時代」なのである。


 A1の後に続いたのが、マッハⅢで、
 この車からはタンクマークとニーグリップが消えて
 所謂「カラータンク」となったのだが、これも業界初だったのである。
  



    これは1970年のバイソンだが、
 この時期からカワサキのイメージカラーが、
 アメリカのレースでの影響を受けて「ライムグリーン」が使われるようになるのである。



★ これが当時の「ライムグリーン」のレーサーだが


 「赤タンク」もそうだが、この「ライムグリーン」も別に社内の正規の規定などで決まったのではなくて、
 社内の誰かが勝手に決めてしまったのである。

 二輪事業という末端民需大量生産販売事業は当時の川崎航空機にとって全く初めての事業であったし、
 やることなすこと、みんな初めての経験ということばかりだったので、
 社内には極端に言えば何の規定もなかったことが多かったし、
 当時の上司の方よりは、市場に近いところにいる若手のほうが、
 業界での知識などに詳しかったという、オモシロイ時代だったのである。


★ 1960年代後半からスタートしたカワサキのレース界での活躍は、
 世の脚光もあびる実績を積んだのだが、
 国内レースはモトクロスからのスタートで「赤タンク」だったのだが、
 これを決めたのはデザインルームなどではなくて、
 青野ヶ原のモトクロスに出場したレーサーを造った製造部の人たちなのである。

 そんなことからモトクロスからスタートしたファクトリーマシンのタンクも
赤で「赤タンクのカワサキ」と呼ばれていた。
 ロードレスに参戦してみると、ホンダのレーサーが赤タンクなので、
 レース担当だった私は内心「これは困ったな」と思っていたのである。
 
 カワサキの初のGP参戦は1966年のFISCOなのだが、
 この時のカワサキのGPマシンのタンクも赤なのだが、
 幸いにしてこの年はホンダが参戦しなかったので、赤タンクが重なることはなかったのである。
 
 この年が私のレース担当最後の年だったのだが、
 その後、アメリカでのレースで「ライムグリーン」が登場してほっとしたのを覚えている。

 そんなこともあって、アメリカでライムグリーンに決めた経緯を知りたかったのだが、
 現役時代には聞く機会もなくて、退職してZ40周年記念をアメリカで開催した時に
 当時のKMCのR&D 責任者だった斎藤定一さんに会って、直接聞いてみたのだが、
 「ライムグリーン」を決めたのはR&Gで、
 選んだ色の『ライムグリーン』は、それなりに勇気の要った選択だったのだが、そんなことはあまり気にせずに決めた様である。 


 
★いろんな想い出も多い二輪の世界なのだが、
 いまもなお、Facebook などで繋がっているトモダチも
 二輪関係の方や二輪ファンが圧倒的なので、
 二輪と一緒に生きてきたなと思っている。
 

 
 
コメント
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