★ 鈴鹿サーキットには幾つものカーブがあって
それぞれいろんな名前が付けられているのだが、
その8番目と9番目は『デグナーカーブ』と名付けられている。
その命名の由来は、
1962年11月に竣工したばかりの鈴鹿サーキットで行われた
全日本選手権ロードレースで、
トップを走っていたスズキの契約ライダー・エルンスト・デグナーが転倒したことから
「デグナーカーブ」と名付けられたのである。
1962年シーズンには、デグナーはこの年から始まった50ccクラスで、
スズキにグランプリ初タイトルをもたらした名ライダーなのである。
★カワサキが初めてGPレースに参入したのは1966年のことで、
その年の日本GPには藤井敏雄・安良岡健・シモンズ等のライダーでの参加を目論んでいたのだが、
マン島のプラクテイスで藤井敏雄が事故死したため、
急遽、デグナーとの契約を行うことになったのである。
契約交渉は当時の技術部長の山田熙明さんが行われたが、
その契約書を私に作れという指示が出たのが9月の初めであった。
日本人ライダーとの契約は何度も行ってきたのだが、
外人契約は初めてで、具体的にどのような契約内容にするのかもう一つよく解らない。
こんなレースライダーの契約などについて社内には聞く人もいないので、
9月10日のことだが、ホンダのレース担当の前川さんに電話して『教えて欲しい』と頼んだのである。
前川さんとはMFJのレース運営委員会でご一緒しているだけの関係だったのだが、
電話をしたら快く引き受けて頂いたのである。
その日の2時に鈴鹿までお伺いして、具体的に教えてもらったのだが、
契約書の最後の『疑義を生じた場合は甲乙円満に話し合い・・』という日本式はダメだよ、
『疑義を生じた場合は甲の判断による』などと教えて貰ったのである。
契約書は当然英文なのだが、私が作ったのは日本文で、
その英訳は山田熙明さんに引き受けて頂いた。
山田熙明さんは神戸一中の私の先輩なのだが、
一中・一高・東大航空機の秀才は英訳などは至極簡単なようだった。
★そんなことで契約したエルンスト・デグナーだが、
彼がサーキットでカワサキに乗って走る姿は見られなかったのである。
9月29日のFISCOでの練習走行で転倒し頭部を打って、
御殿場の中央病院に入院するのだが、すぐに意識は回復して、
10月1日には明石市民病院に移して、完全回復することになったのだが、
それが突然意識がおかしくなってしまうのである。
それまでは英語を喋っていたのだが、そこからは突然ドイツ語になってしまって明石病院のお医者さんも困ってしまうのだが、
その通訳をされたのが、ドイツ留学を終えたばかりの大槻幸雄さんで、
明石病院のお医者さんもドイツ語を喋る大槻さんにビックリしてしまうのである。
当時は『脳外科のお医者さん』は非常に少なくて明石病院でも専門医はいなかったので、
急遽、神戸医大に移送したのが10月4日で、この1週間はデグナーのことで大変だったのだが、
神戸医大に移ってからは順調に回復して10月21日に無事退院するのである。
★この年の日本GPは初めて10月14日にFISUCOで開催され
カワサキはまだグリーンではないこんな赤タンクの時代だが、
GP125は安良岡健が7位に入るのである。
『カワサキのデグナー』はこんなことで見ることは出来なかったのである。
デグナーとは約2か月間いろいろとあったのだが、
彼はサーキットで、赤タンクのGPマシンに乗ることはなかったのである。
そんことでカワサキのデグナーは実現しなかったし、
カワサキがデグナーと契約したことなど、
殆どの方はご存じないのである。
★デグナーとの契約では、さらに後日談があって
契約金を日本円で渡したので、デグナーが海外に持ち出すことが出来ないというのである。
当時はまだそんな時代で、その後処理にも私は走り回ったのである。
いずれにしてもこの2か月間は私にとっては忘れられない大変な2ヶ月だったのである。
若し、カワサキのデグナーが実現していたら
ひょとして、もう少しいい線まで行ってたかも知れない。
そんなカワサキ単車の昔話である。
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