★カワサキのレースチームに最初に契約をしたのは歳森康師なのだが、
そのあとすぐに契約を結んだのが山本隆で、 それは1963年のことだと思う。
当時の契約ライダーはカワサキコンバットが三橋実・梅津次郎・岡部能夫、
神戸木の実クラブが歳森康師・山本隆の5人で
主として地方の草レースに出場していたので、どこでも連戦連勝だった。
私は当時広告宣伝課担当だったのでそのニュースを全国の販売店に流していたのだが、
『兎に角、強いのだ』と思っていたのである。
ところがMFJの第1回モトクロス日本グランプリが相馬が原で開催されたのは、
その翌年の1964年の春だったのだが、他メーカーのファクトリーチームが集まる全日本では確か山本隆だったと思うが7位ぐらいに入ったのが最高で、最初の全日本は歯が立たなかったのである。
★カワサキが初めて全日本で優勝したのは、
同じ年の春だが富士の裾野でMCFAJの全日本が開催されて、その時初めて山本隆がオープンで優勝したのである。
当時のスズキの城北ライダースの久保和夫やヤマハのスポーツライダースの荒井市次など当時の第一人者の実力は群を抜いていて、
なかなかそれに勝つことはムツカシカッタのである。
その年の秋、東京オリンピックの開催された年だが、同じ時期に
伊豆の丸の山高原で行なわれたMCFAJの全日本で
カワサキは4種目中3種目、90cc三橋実・オープンが梅津次郎
そして日本選手権の250㏄に山本隆が久保・荒井の両雄を抑えて
見事優勝を飾ったのである。
その時の表彰式の写真だが
TOPが山本隆、2位荒井市次、3位が久保和夫で、
この表彰台の写真はなかなかカッコいい。
山本隆も20歳ちょっとの頃である。
一番右は梅津次郎で、この大会でカワサキのモトクロスの地位が確固たるものとなったのである。
★ 明けて1965年は年初から『山本・歳森のBS仮契約』問題から幕を開けるのだが、
この年の5月に開催された鈴鹿サーキットのジュニア・ロードレースに
山本隆がどうしても出たいというのである。
まだ会社ではモトクロスは認められていたが、ロードレースはまだ許可されていない頃だったのだが、
山本隆は「自費で車を買ってでも出たい」と言うものだから。
モトクロス職場の松尾勇さんに『ロードレーサーを造れるか』と聞いたら、
「大丈夫」と言う返事なので、出てみるかと言うことになったのである。
車は当時製造部にいた田崎雅元さん(後・川重社長)が都合してくれて、
レースの費用は『鈴鹿のモトクロスに行った』ことにしようと言うことでスタートしたのである。
順位などは誰も期待などしていなかったのである。
★ 当時北陸カワサキにいた内田道雄さんが山本はロードは初めてだからと、北陸のロードに経験のある塩本を貸してくれたので、
2台のロードレーサーを準備して、
松尾勇さん以下数人のメカニックを付けての出場だった。
現場から来た連絡でもなかなかタイムが出ないというので、誰も期待などしていなかったのだが、
レース当日は鈴鹿は雨になったのである。
5月の連休で休んでいた自宅に現場の川合さんから
『ヤマ3、シオ8、セイコウ,カワ』の電報が入った。
喜ぶより、びっくりしたのをよく覚えている。
喜ぶより、びっくりしたのをよく覚えている。
その時代、電話もなくて、電報の時代なのである。
それもホンダの神谷・鈴木が1,2位だったのだが、
ずっと3位を走っていたBSの滋野の後を『スリップ・ストリーム』でついていって
最終コーナーの下り坂のところで滋野をかわしての3位入賞だったのである。
そのゴール寸前の写真でTOPを走っているのが山本隆である。
★ この話は『カワサキが初めて鈴鹿を走った日』と言う題目で
2009年11月にブログをアップしているが、
カワサキが初めて鈴鹿を走ったのはこの日だったのである。
会社には内緒で出たレースだったのだが、
思わぬ3位入賞、それもホンダに次いでカワサキと言うことで、
社内も盛り上がって、モトクロスだけでなくロードレースもやろうという機運になったのである。
その翌月の6月に鈴鹿サーキットで初めての
『アマチュア6時間耐久レース』が行われたのだが、
このレースに3台のマシンを用意し
カワサキコンバット・神戸木の実と社内のテストライダーチーム
が出場することになったのだが、
山本隆は『ジュニア・ロードレース』に出場したので出場できないので、
歳森康師が相棒として急遽呼んできたのがあの金谷秀夫なのである。
★ カワサキも山本も、なかなかの幸運を持っていると思う。
モトクロスの青野ヶ原では走ったライダーはテストライダーなど素人ばかりだったのだが、
結果の1位から6位まで独占の完全優勝も、
当日は雨でいたるところに水溜りが出来て、みんなマシンが止まってしまった結果なのである。
当日山本隆も自分のヤマハで出ていたらしいが、マシンが止まってしまったのだという。
その山本隆が初めて走った鈴鹿だが、若し天候が良かったら
多分3位入賞など考えられなかったと思う。
いずれのレースも。雨がカワサキを援けてくれたのである。
そんな結果なのだが、
この山本隆の鈴鹿での入賞で、カワサキもレースに本格的に取り組むことになり、
1か月後のアマチュア6時間耐久レースで初めてレース監督なるものが実現したのである。
レース監督は後あのZの開発責任者となった大槻幸雄さん、
助監督が田崎雅元さん、レースマネージメントが私だったのである。
そんなことで山本隆は『私がカワサキのロードレースの道を拓いた』と大威張りなのだが、確かに間違いないのである。
後、『ミスターカワサキ』と言われる山本隆だが
若いころからそんな華を持っていたような気がする。