雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

実用車のカワサキ 昔話ー3

2006-11-18 09:18:18 | カワサキ単車の昔話
「実用車のカワサキ」  カワサキにもそんな時代もあった。

1960年代の前半、まだアメリカ市場の開拓時代で、国内市場中心のころである。
当時の国内市場はカブ全盛期、モペット中心であった。
カワサキもモペットはあるにはあったが、もう一つぱっとしなかった。

125ccのB8,B1が主力で、製品(当時はまだ商品というよりは製品という感じが強かったが)の特徴は、抜群の登坂力など、山坂につよく耐久性があることなどが、セールスポイントの時代であった。市場の中心は山坂の多い九州や東北だった。

単車事業は何度も撤退の危機があったが、62年に発売したB8が予想以上に堅調で、更に63年には青野ヶ原のレースで運よく圧勝しムードも上がり、日本能率協会の大掛かりな調査も、幾つかの条件はあったが「再建可能」の結論を出したのである。

そして、64年1月、単車再建が全社的に決定され、それこそ再スタートが切られた。

日本能率協会の出した条件の中に、広告宣伝の専門部門設置の条件があり、本社は年1億円もの予算を開発費としてセットしてくれた。
広告宣伝部門ができ、何の知識もないまま、その担当をすることになった。

初年度は確か、1億2千万の予算だったが、私の年収が50万円に届かない時代だったから、一生懸命使った積りだがウロウロしているうちに、7千万円ぐらいしか使いきれず、本社の長久さんに「君らは金をやってもよう使わん。」と怒られた。
レースの運営費、ライダー契約費などもこの中から支出されていた。

翌年は予算1億円に減らされたが、まだまだ使いではあった。

65年のはじめ、新聞の全頁広告掲載を企画した。
東京、大阪などの大都会は出来るだけ避けて、地方に集中して広告する必要があった。実用車の主力の市場は地方であった。

朝日、毎日、読売などの全国紙はどうしても大都会中心である。これを避けて、地方紙に集中した。

世の中の広告は、全国紙の広告を中心に、幾らかを地方紙で補足するのが常識である。
全国の地方紙、殆ど全てに全頁広告を展開し、東京、大阪などは避けるという広告は例がなく、当時の広告業界で話題となった。

地方紙を全て使うのは、費用的にも全国紙を使うよりだいぶ高くつくのである。
高城丈二を使っての広告だったが、記憶が正しければ、600万円位掛かったと思う。

こんな実用車中心の時代は、アメリカ市場でA1やマッハが売れ出す、60年後半まで続いた。


「実用車のカワサキ」 の時代の 「ウソみたいな、本当の話」である。




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新人営業マン 昔話ー2

2006-11-17 09:48:38 | カワサキ単車の昔話
1962年1月営業の単車係に配属された。30才まだ、独身の頃である。

単車のスタート以来の総生産台数が1万台に達するかどうかという、まさに創生期のころである。

配属された営業で、単車を担当していたのは、次長小野助さん、壱岐係長、女子も入れて全部で5人しかいなかった。

「君、物品税を担当してくれ。」小野さんに最初に言われた。

物品税は今はもうないが、贅沢品に掛けられる税金である。
何のことか始めは解らなかったが、毎日、毎日物品税との格闘が始まった。

税金を払うのは簡単だが、戻してもらうのは大変なのである。
物品税の戻入手続きをするのが、私の仕事であった。

ニューエースという、名前はすごくいいB-7の前に出した車のフレームの欠陥で、毎日、毎日返品が続いていた。

1月16日にあった、単車連絡会議で議長の土崎専務が前月の生産台数がマイナスになっているのを見て、「君らは、1ヶ月かかって単車を壊したのか?」
本気か冗談か解らなかったが、生産台数より返却台数のほうが多かったのである。

そんな状況であったから、私の仕事も無茶苦茶忙しかった。生産サイドの秋原君と毎日、税務署の人の立会い検査に付き合った。


加えて、1月13日から国税局の物品税の監査があり、ここでも悪戦苦闘した。
管理が悪く台数が合わないのである。

更に、物品税は、売上時点の計上ではなく、工場を出荷した時点、工場に戻った時点での計上が正しいのだが、当時売上先のカワサキ自販の事務所が工場内にあったことも原因して、一部は売上時点での間違った計上になっており、ひどく怒られた。

着任2週間目の新人には説明のしようもなく、ウロがくる始末で、「知りませんでした。」と言ったら「君が知らなくても、会社が知らんと言うことは通らない.申告税だから罰則はきつい。体刑もある。」とおどかされた。


新人営業マンの営業とは程遠い1ヶ月目の経験であった。




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昔話のコンセプト 昔話ー1

2006-11-16 09:47:28 | カワサキ単車の昔話
つい2~3日前,カワサキワールドを訪ねたら、田中さんや吉田君など懐かしい昔話に熱中して、肝心の展示も観ずに帰ってしまったことは、ブログにも書いた。

昔話は、その輪に入れる人たちにとっては、時間も忘れる楽しさがあるものだ。

ブログを始めて2ヶ月、約70通の発信となっているが、読者の中心はどうもモーターサイクルに関心のある方が多く、カワサキと関係のあった人もいらっしゃるようなので、気楽な昔話でも始められたらいいなと思った。

おそるおそる始めたブログだが、ようやくどのようなものか、解りかけてきた。

トラックバックやコメントも実際に、どんなものか実感できた。
双方向の情報発信であるから、やろうと思えば昔の仲間を中心に、昔話を展開することも出来るのである。

今まで約70通のブログを書いたが、テーマを決めて一つ一つを書いているので、どうしてもまとも過ぎる文章にもなるし、書いている本人も気楽さがない。
私の本性とは若干ズレテいる。

今までのようなブログとともに「カワサキ昔話」というカテゴリーを新設し、「カワサキ単車の昔話」と銘打って、NOを付しスタートすることにする。



「カワサキ単車の昔話」のおおまかなコンセプトを次のようなものにした。

1.面白かった、苦しかった、喜んだなど、とにかく、雑談に類する気楽なものとする。
2.時系列に並べることにはこだわらないが、出来るかぎり年月日が解れば、明示する。
3.読者の対象はカワサキに関係のあった人たちと意識して記述する。
4.従って、登場人物も読んだ人は当然分かる昔話なので、詳しい紹介は敢えてしない。
5.カワサキに関係のあった人、ブログなどへのコメント参加など、大歓迎とする。
6.一般の人も、少しは興味が湧くような配慮も当然する。


それでは、スタートする。

何故、「単車の」としたか。
一番事業が苦しかった時代、懐かしい時代の事業部の呼び名は「単車事業部」だった。
その後、ジェットスキーやATVが入って単車が合わなくなり、コンシューマー、プロダクトの「C,P事業本部」とか、エンジンも入って「汎用機事業本部」などと変遷を重ねているが、一番想い出のある昔話に似合うのは「単車」という言葉だと思うのである。

私の記憶が正しければ、1960年ごろ「単車準備室」なるものが造られ、単車事業への本格参入が検討されはじめたと思う。三浪さんなどがおられた。

私が単車に関係したのは、1962年1月,営業部の単車係である。
この頃から、単車に関係した人は、意外に少ないはずである。まだイセキのモペットもあり、所謂単車はカワサキ自販の元メイハツやメグロの人が営業全般をやってくれていた。輸出など多分なかったから、国内が全事業であった。

その当時、「単車」という名称が使われていた。

「単車」とはオートバイ、二輪車のことだが、何故単車と言ったのか、そもそも「単車」とはなぜ「二輪車」を単車と呼ぶのか。
長い間、私の疑問であったが、あるとき「それはな。側車に対して単車、側車免許に対するものだ。」
私の中学の先輩で、山田さんとも同期の岡田さんに、教えて頂いたが、本当にそうなのか確かめたことはない。

岡田さんは、技術屋さんには、めちゃめちゃ厳しかった。特に説明での言葉の使い方には、少しの間違いも許されない厳しさがあった。
反面、事務屋にはやさしかったような気がする。

そんな岡田さんの説明だったので、信じきって確かめる気にもならなかった。

そんな懐かしい昔話もあって、「カワサキ単車の昔話」とした。
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服部謙治君のこと

2006-11-15 16:11:46 | M/Cレース
http://www.hattori-kawasaki.shop-web.org/

レースの担当の後、仙台で東北6県の営業をはじめて担当した。

1967年、私がまだ35才の頃で若かったし、勇ましかった時代のことである。


服部謙治君。
当時、宮城カワサキの工場長で技術のウデは確かであった。
それ以上に、趣味のモトクロスには熱心であった。はじめて会ったころからそこそこ早かった。

当時の東北はモトクロスが日本で一番盛んであったと言ってよく、その開催頻度も群を抜いて多かった。

カワサキの当時のファクトリーの主力は山本、歳森、岡部、星野の時代で、若手としては
清原明彦や従野孝司がまだモトクロスライダーとして走っていた。
マシンはF21Mの全盛期であった。

顔なじみの私がいて気楽だったのか、ライダーたちは競って東北のレースに出場したがった。

服部謙治君も、数多く訪れるライダーたちと一緒に走り、またマシンのチューンを受けたりして、どんどん早くなった。

確か当時の東北のジュニアでは、1~2を争う実力であったと思う。
東北の山本隆と言われたか、自分で言ったか。言ったとしてもおかしくない実力であったと思う。


レースだけでなく、仕事の上でも毎日のように関係があった。

私の東北時代の最後の頃だが(この記述の日時が違っている、これより7年後のことである)、服部君が故郷岩手に帰っての、独立開業を目指した。
相談を受けたが、私は絶対仙台でするべきと主張した。
昨日のことのようによく覚えている。

今、彼は仙台の服部カワサキの社長である。
仙台や近県はもとより、遠く関西からも客を集める有力店で、誰もが認める成功を納めている。

彼のモトクロスでの知名度もあったかと思うが、基本的には彼のサービスのウデの確かさと真面目さが、顧客の信頼を克ちとったと言うべきであろう。

その後、全国いたるところで、販売店とはいろいろと関係し沢山の想い出もあり、このブログにも登場させたいのだが、何をさておいても、服部君のことを最初に採り上げたいと思うのである。

私にとっても、想い出深い最初の経験であった。



全然違う話だが、1970年頃、当時仙台で東北のMFJの担当もしていた佐藤さんが、村田町に立派なモトクロスコースを造った。
当時としては、びっくりするほどの規模だった。

仙台テクニカルハイランドと称したと記憶する。

このコースが立派に育つように、佐藤さんに頼まれて、服部君などとよく練習など、行ったものである。


70年の後半、私は大阪に転勤になったので経緯は確かでないが、このコースで71年6月モトクロスGPが開催されたはずである。

今の、ヤマハのSUGOの前身と言うか、スタートとなった場所だった気がする。

もう30年も前の話である。



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今朝のメール

2006-11-15 09:36:53 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram
毎朝沢山のメールが入る。

情報収集が主たる目的であるため、発信元は、行政の政府、市町村、などのメールマガジンをはじめいろいろある。個人からのメールはめったに入らない。

今朝、珍しく2通の個人からのメールが入った。私にとって、嬉しいメールだったのと、「雑感日記」にも関係があるのでご紹介する。


一つは今アメリカのロスの近く、アーバインにいる娘婿からである。

彼は今、ノーリツのアメリカ進出のために新しく設立された現地法人に出向して、頑張っている。
カワサキも30年ぐらい前に、そんな時代があった。

私ももう73歳になり、自分が生きてきた経験や出合った出来事、仲間のことなど誰かに伝えておきたいというのは、正直な感想である。

誰かは、いろいろある。その中の一つに身内も入る。
つい先日、同じ日に娘婿と息子に「雑感日記」のことを伝えた。
二人とも今40台の前半で、会社の仕事は一番忙しい頃であると思うが、まだまだ人生はこれからである。
何かの参考にでもなればと思った。

娘婿からは今朝、長いメールが入った。全部読んだとか。日記とストレッチ始めてみようかと思っている、などと書いている。
幾らかお世辞もあるだろうが、おおむね気に入ってくれたようなので何よりである。

息子からは当然のことながら、何の連絡もない。想定の範囲内である。


もう一つは、三木市市長室広報、広聴課で、三木市のホームページを担当している中尾君からである。メールを貰ったのは,はじめてである。

市役所の職員の方だが、あえて「君」と書きたくなる。この数ヶ月ではあるがそんな付き合い方をした。

私と同じ野球部の出身で、まだ「さん」とよぶには若すぎる。
頑丈な身体だが頭はスマートである。気さくで前向きなところがいい。

三木市との関係を先日、ブログで少し触れたが、今までに88通出した市長メールの1通目にホームページのことに触れた。

「ホームページは三木市の顔です。こんなホームページでは、三木市のイメージ向上に役立っているとは思えません。」
「札幌や大分などのホームページを一度見て下さい。」
「今のホームページでは、いつまで経っても三木市のイメージは上がりません。有名になったりはしません。」
と書いた。

4月17日のことだから、あれから7ヶ月の月日が流れた。

中尾君からのメール
TOPページのデザイン変更と、フラッシュサイトを新設しました。
「美しいホームページ」をコンセプトにしました。
詳しいことは、またお邪魔してお話します。
というものだった。

相当のレベルになった。ホームページのコンクールでベスト10に入った、大分や高槻、長崎、京都に十分匹敵する出来ばえである。

このブログをお読みになる皆さんにとっては、余り関心のない事柄でしょうが、是非一度、三木市のホームページも開いて見て下さい。


いずれにしても、私にとって嬉しいメールであった。

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カワサキワールドでであった仲間

2006-11-14 16:34:47 | カワサキ単車の昔話
今朝、神戸のメリケンパークに今年の5月にオープンした「カワサキワールド」を訪ねた。

カワサキワールドは、Kawasaki Good Times World として、神戸市の関連団体が既に開設していた海洋博物館の中に併設された。

神戸港とともに歩んできた川崎重工業の創業以来の歴史から、製品紹介まで、見て、聞いて、体験する、大人から子供までが楽しめる企業博物館である。

約600坪の展示場には、新幹線やヘリコプター、モーターサイクルの実物が展示されていて、開館以来、関西のマスコミにもしきりに採り上げられた、神戸の新しい人気スポットである。

10月4日には10万人目の入場者を記録した。
海洋博物館との相乗効果だと思う。このような「神戸」をKEYにしたヨコの連携や広がりは、今後の方向を示しているのだろう。

実は、私は今日がはじめての訪問である。
現役の一時期、広報を担当した、関心もある、一番先に行くのが当然なのに、何となく行く機会を失っていた。

つい先日、田崎さん(現川重会長)と電話で話した時も、是非一度と言われていたので、今朝出かけた次第である。


ほんのちょっとしか見れなかったが、想像した以上に立派な展示であったような気がする。?


入り口で、案内のお嬢さんから、「緑のジャンパーを着ている方は、ボランテアで説明員をしている川重OBの人です。」という説明を受けて中に入った。

入った途端に、お客さんに説明している途中の田中さんに会った。「今、オートバイのところに吉田義正君がいます。」
お客で来ているのだと思って、急いで行ってみると、彼もまた説明員の緑色のジャンパーを着ていた。

彼は私がレース担当時代のモトクロスチームのメカニックである。久しぶりだった。

彼は直ぐ私を、カワサキが始めてモトクロスに出場し、優勝はもとより上位を独占した青野ヶ原のレースの記念写真が、大きく飾られているところに案内してくれた。

このブログでも何度か触れたが、青野ヶ原のレースがカワサキの二輪事業への再スタートを切らしたきっかけと言っていい。

その写真には、懐かしい顔がいっぱいあった。

私は青野ヶ原には直接関係していないが、当時の上司の営業部長小野助治さんに言われて、こっそりほんの少しではあったが、このチームに資金提供だけはした。

写真には、中村治道、高橋鉄郎,川合寿一さんをはじめ、メカニックに多賀井、藤井、藤森君。ライダーは秋原、加藤、飯原、えびす谷の4人。B-8のモトクロスレーサーとともに写っていた。

実は、青野ヶ原を走ったライダーが誰だったのか知らなかった。
この写真の中の、人たちはえびす谷くん以外は、本当によく知っている仲間である。その後もいろんなところで関係があった。

私にとって、この写真が見れただけでも訪れた価値は充分あった。


案内をしてくれた吉田君とは、昔話がはずんだ。
事務所でコーヒーでもと中に入った。

「責任者の三浪を紹介します。」出てきた三浪さんを一目みて私は「三浪正さんの息子さん?」
私がお世話になった、おやじさんに生き写しである。
まだ小学生の頃、お宅で何度も見ている。

「田中さんも呼びましょうか。」
田中さんは川重の労組中央執行委員長を務めた人である。
単車工場の労組の出身でもあり、私や田崎さんが、労組の明石工場常任幹事であった時代からのお付き合いで、よく知っている仲である。


思いもかけず,旧い話の通じる仲間に会ったお陰で、昼過ぎまで尽きぬ昔話に熱中した。

お陰で、展示物のほうは、青野ヶ原の写真以外は見なかった。
展示の感想など言えるレベルでないので、もう一度機会を見つけて訪ねてみたい。

ボランテアのOBは、今45名いて田中さんが纏めているそうである。
月に2~3回のことのようだが、こんなに私がよく知っている人2名の担当の日に当たったのも、何かの縁である。


吉田君からは帰りに「また、レースのOB会やりましょう。」と言われて別れた。



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Good or Exellent

2006-11-14 09:07:37 | 発想$感想
世の中、いろんなことで騒がしい。あまりいい二ュースがないのである。
目指してきた方向が、少しだけ間違っていたのではないか、と思ったりする。


GoodもExellentも、辞書でその意味を引いてみると、二つともいい意味を有している。

Exellentは素晴らしい、卓越した、優秀な、と記されている。

Goodという単語の意味をじっくりと見たのは、今回がはじめてと思うが、こんなに沢山の意味を持っているのかと、改めて自分で感じいった。

曰く、良い、満足する、優れた、立派な、楽しい、幸福な、善良な,信心深い、親切な、品行の良い、有能な、健全な、真の、本物の、新鮮な、ためになる、などである。


世の中の企業や団体、学校など日本の社会全体の風潮として、Exellentを求め過ぎたのではないか。
それも自分の実力以上に。

Exellent を目指す企業は数多くあるのだが。
Good Companyや好感企業を目指せと言われた時期もあるが、本流にはならなかった。

人間、生まれたときから、それぞれその人が持っている才能はある程度、決まっているものである。
努力することによってその才能は伸ばせるとは思うが、Exellentになるのは大変なことである。
ある意味では無謀な挑戦なのかも知れない。

それに対して、人間ひとりひとりがいい人になることは,それを目標に努力することで、可能ではないかと思う。

子供たちへの期待も、卓越した、優れて素晴らしい人になる前に、いい子になることを目指すべきではないだろうか。

日本人は元来、数値目標などの高い目標値への挑戦を好み、それを達成することがExellentに繋がるのである。
然し、それは単なる数値目標の達成であって、ビジョンとか理念というにはほど遠く、次元が低すぎるのではないか。

Good Companyや好感企業のほうが、コンセプトとしては上位に位置する。

ちなみに、コンセプトは方針や戦略よりもずっと上位の概念なのだが、それを意識する人は、意外に少ない。
コンセプトのない単なる数値目標が堂々とまかり通っている。

然し、Goodにはたくさんの意味があり過ぎて、目指す目標に掲げた場合、具体的に解らないという、批判が直ぐ出そうである。

安倍さんが「美しい国」と言ったら、そのような批判をした人が多かった。

美しいという言葉は、Goodと同じく沢山の意味を持っている。非常に日本的なよさを持っていると私は思っている。。一度辞書をひいてじっくり見て下さい。

そんな意味で、同じ方向でもExellentよりは、Goodの方向を目指すほうが世の中がゆったりとスムースに流れるのではないか。

Goodはその意味が沢山あって、具体的ではないかも知れぬが、基本コンセプトになり得る高い次元の言葉だと思う。


みんなが、いい子、いい人、いい家庭、いいまち、いい職場、いい企業などを目指したら、いい国になり「美しい国」になると思うのだが。


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安全運転とレーステクニック

2006-11-13 08:52:57 | M/Cレース
私が免許取得したのは、1965年6月である。
カワサキがはじめて鈴鹿でロードレースに挑戦した年であった。

免許取立ての私に、手取り足取り4輪の運転テクニックを教えたくれたのは、ライダー達だった。
とりわけ、理論家で講釈師とみんなに言われていた山本隆君が先生であったと言っていい。

私のおぼろげな記憶では、当時まだ4輪免許を持っていなかった星野一義君も生徒側であったと思う。

運転の理屈、理論はいろんなところで教えて貰ったが、実技講習はスズカサーキットのコース上だった。

「まじかよ」と思う人が殆どと思うが、当時のスズカは、一般の人でも、サーキットが提供するホンダのS600かS800?のスポーツカーで、1周幾らだったか忘れたが金を払えば走れたのである。

マシンテストの合間に行われる、この走行時間に免許取立ての身ではあったが、隣に山本や星野を乗せてコースをよく走った。

そのとき教えて貰った走行テクニックの、アウト,イン、アウトとかスローイン、ファーストアウトなどは4輪の運転テクニックとして、完全に身についている。

ダブルクラッチ、ヒール&トウなどの高度なテクニックも、何とか出来るぐらいまでにはなったが、今はオートマチックの時代になったので使う機会がなくなった。

カーブに入る前のブレーキングは直線で、カーブに入ったらアクセルとやかましく言われた。

余談だが、サーキットのカーブは素人の想像をはるかに超えるものである。
最初に走ったときは完全に舞い上がっていて、S字がヘアピンだと思った。ヘアピンは曲がりきれずにコースアウトした。
スプーンはどのように走ったのか記憶すらない。

一般道路の交差点で、ブレーキを踏むときは必ずバックミラーをみて、後ろの状況を見ながらブレーキング。「おかまをほられるのは、ほられるほうも悪い。」山本隆君のこの教えは、免許を取った息子と娘に伝授した。

これらのテクニックは、レース担当の後、東北での雪道の走行に大いに役立った。

そして、レーステクニックは一般道路の安全運転にも100%通用するのである。

レースに出場したことはないが、一斉にスタートし速さを競っているが、一方で安全にぶつからずに、コースアウトを避けて、転倒せずにという安全運転も無意識のうちに心掛けているのだと思っている。

後年、安全運転活動にも深く関与したが、私が教えて貰ったような、レーステクニックに類する知識も実戦的だと思っている。
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三木市

2006-11-12 17:25:01 | みっきぃふるさとふれあい公園
ブログを9月9日にはじめたきっかけは、三木市にも深く関係がある。

世の中の事柄は、ひょんなことでひょんなことになるものだ。

三木にきて33年、市政など何の関心も持たなかった。

今年のはじめ、永年努めた前市長に代わって、新しく47歳の若い市長が当選した。
市長が若くなったのだな位のことは解っていたが、その程度の関心であった。

4月になって、市長の市政方針を読む機会があった。
その骨子の一つに、「夢。ビジョン。三木のイメージ向上。」があった。
「イメージ向上」という言葉が私の関心事であった。

永年、二輪車の業界やカワサキのイメージ向上について、本気で取り組んできた。

イメージの向上がどれ位難しいものか、身に沁みて解っていた。
また、夢、ビジョン、これを本気に基本方針に揚げるTOPは,日本では珍しい。
これは、基本コンセプトの問題である。


「三木市のイメージ向上について」というテーマに絞り、提言、提案を始めた。

4月中旬からスタートし、今まで88通の市長メールを出した。
半端な数ではない。内容も会社の企画書レベルのもので続けた。

市の情報開示も徹底していて、一般の人でも,市が進もうとしている方向や具体的な内容、市長の思いなど、意外に解る。
詳細に見ると、全体の動きは、タテ割組織の市役所の人より詳しくなったりする。
企画書レベルの提言や提案が出来る所以である。

三木市の庁内会議の議題に正規に採り上げられたりもした。
基本コンセプト、差別化、ネットワーク、トータルシステムなどのマーケッテング用語が議事録に載るようにもなった。

全国の各市の動きも調べたりした。高槻市は今年の行政ホームページコンクールで日本一に輝いた、動きの面白い市である。
その高槻市がブログを始めた。

ブログについても、市長メールで少し触れた。
双方向の情報発信に魅力を感じた。
自分でもよく解らなかったので、自分の勉強のために9月9日から、ブログを始めた次第である。

少々、はまってしまったきらいがある。


ちなみに、三木市が今、掲げている目標
「日本一美しいまち三木をめざそう」である。
そして、「スローライフなまちづくり」を五つの視点から進めようとしている。

市のホームページも内容も、よくなりつつある。

85000人の市だが、年にその50倍の人たちが三木を訪れる。

「みっきい」という愛称もあるし、「FMみっきい」という放送局もある。そこにボランテイヤする人たちのことを放送で「みっきいず」とよんだりして、なかな格好いいんだが。

利用できるツールがいっぱいある。
ヨコ型のネットワークの発想が、今後の行政の展開にも有用と思っている。


二輪業界にも、カワサキにもお世話になったし、今は三木市にもお世話になっている。

幾らかでも「雑感日記」がイメージ向上にお役にたてばと思っている。



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小野田滋郎さんのこと

2006-11-12 11:23:34 | カワサキ単車の昔話

小野田滋郎さん。
カワサキのレースの創生期にライダー関係で三橋実を引っ張り、カワサキコンバットを事実上作った人だと、私は思っている。

あのフィリッピンから帰国した小野田寛郎中尉の弟さんである。

ブログを書く資料として日記をめくっていたら、1972年10月22日の日記にこんなことを書いている。

(私が39歳、もうレースを離れ、東北での始めての営業経験をして後、大阪にいて、近畿、中部、と東京都という大市場を担当していた。
張り切ってはいたが、背伸びもしていた時代のことである。)

原文のまま、ご紹介する。



「フィリッピンのルパング島で、生き残りの日本兵が島民と銃撃戦、一人が死亡した。一人はジャングルに逃亡。その生き延びた一人は小野田寛郎、和歌山出身、その母の書いた文章をみて、ひょっとしたら小野田滋郎さんのーーと思った。テレビを見ていると小野田さんが出てきた。」


とここまで書いて、あと補遺とある。

小野田さんは、もうその時はカワサキには居なかった。
補遺も少し長いが、原文のままご紹介する。



「小野田滋郎。この人が自分に与えた影響は大きい。

思想的にも、今仕事をしている実務的なやり方も、それに対する態度も。小野田さんは自分がサラリーマン社会に入って以来、この人にはとてもかなわぬと思った数少ない人の一人である。

陸士出身、文学を愛し、酒を好み、人間味あふれる人柄、わるく言う人もいるが、自分は小野田滋郎の物事に向かうときの純朴さと一徹さを見習いたい。

小野田さんの兄さんなら、最も親しかったという兄さんなら、一徹にただ一筋にこの27年,銃を磨き,弾の手入れをし、最後の一人になっても戦う気持ちを失わなかったであろう、と思う。

陸軍中野学校出身のこの秀才の生き方は、その思想の善悪はともかくとして、一筋にひたむきなところに共感を覚える。

箸袋 寛郎と今も 還らぬ子 

小野田さんのおふくろさんが、正月に詠んだという句。このお母さんの話も、小野田さんの話によく出てきた。

その滋郎さんも10月24日、現地に調査と呼びかけに出発した。
新聞に笑う小野田さんの笑顔、人をひきつけずにおかぬ笑顔である。

人生には、いろいろ影響を受ける時期もあり、また人もいる。
自分の39年の人生を振り返ってみて、野球部の先輩の山本治さん、小野田滋郎さん、岩手の久保社長、宮川部長などは、現在の自分の生き方を支えている。

小野田滋郎さんが、あの温かみのある笑顔を更にくしゃくしゃにして、兄とともにタラップを降りて、日本の地を踏まれることを祈るものである。(10月24日夜)」



本当に、小野田さんには影響を受けた、戦略論の基本も教わった。
今も、お元気である。
毎年頂く年賀状の文章は、逆立ちしても真似の出来ない素晴らしいもので、いつも楽しみにしている。

いつまで経っても、そんな文学青年みたいな小野田さんが、また魅力である。

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私の自慢話と自慢の人生

2006-11-12 09:22:32 | M/Cレース
ブログのコメントがきっかけで、「仲間」の話をしたら、また、多分若い方から、そのコメントを頂いた。
また何か書こうという気持ちが湧く、応援歌のように思える。

この2,3日の私のブログを自分で読み返してみると、自慢話のようにみえる。
確かに、私の自慢話で、そんなことが書ける面白い人生が歩めたと思っている。

ただ、「私の仲間」に登場した、偉い人たちも、星野や金子など有名人も、私との付き合いのスタート時点は、決して偉くもなく普通の人だった。
星野や金子は名もない、若いライダーの一人でしかなかった。

この人は偉くなるからとか、将来有名になるであろうからなどという下心など、勿論なかった。

「タテ割り」が一般的な日本の社会のなかではあるが、間違いなく「ヨコの繋がり」のほうが面白く、大きな仕事が出来ると、私は確信している。
私の信念みたいなものになっている。

タテ割りの組織のなかだけの仕事など、それがどんなに大きな金額であっても,大きいだけで面白いものではないと思っている。

そして目線は常に末端、Consumerに置くべきと思っている。
そしてそれが実践できたことが、私の秘かな自慢である。

私の仲間たちのなかにも、出会ったはじめから有名人であった人もいるにはいる。
何人かの有名人、島田しんすけなどレースの関係でお会いした。
岩城洸一はある時期本当によくつきあった、「仲間」である。

彼は4輪や2輪のレースやジェットスキーの関係でカワサキに出入りしていた。

ビジネスとして彼を一日拘束したら多分何百万かの金が要るのであろうが、仲間としての付き合いだったから、レーサーに乗せたり、SPA直入を走らせたり、彼の乗るジェットスキーを提供するぐらいのことで、一銭の金も払わずに、いろんなことを手伝ってくれた。

しょっちゅう会社にも顔をみせたが、KAZEの機関紙にも、カワサキのデーラーミーテングにも、サーキットでのカワサキのイベント、JJSBAのジェットスキーの会場にも、大勢の彼の仲間とともに登場し手伝ってくれた。

2輪のレースに関しては、大阪のマフラー製作で有名な月木君のチームのメンバーとして活動した。
当時のことだが、岩城洸一が清原明彦君と直接話しが出来たと馬鹿みたいに喜んでいたのを想いだす。
彼のようなスターにとっても、また別の世界のスターがいるのである。

こんなことが私の自慢話の一つだが、すべてこれらはヨコの繋がりなのである。

ネットワークこそ、人生を面白く生きるKEYであると思っている。
そしてもう一つ、誰とでも本音で話し、同じスタンスで付き合うことである。

それが出来たことが私の特技であり、私の人生の自慢である。

これからも、そう生きたいと願っている。


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ブログが、暖めてくれた旧交

2006-11-11 16:54:17 | M/Cレース
この2,3日久しぶりに、よく電話をかけた。

「私の仲間たち」を発信して以来、昔のレース関係者の「仲間たち」ばかりへの電話だった。

会社関係は、山田さん、高橋さん、大槻さん、田崎さん。「レースの偉い仲間たち」で、既にご紹介をした。


今回は、何故そんなことになったのか、経緯も含めて、電話した仲間たちのことを簡単に、ご紹介したい。

ブログで、「モトクロスマシン F21M」 のことを書いたら,オトキチなる方から、「三木の方ですね。三木市のモトクロス場で、ビンテージバイクのレースをやってます。観にいらして下さい。」とのコメントが入った。

そのサーキットに電話して、話をしていたら、「山本隆さんにはお世話になっています。」という。
急に昔がなつかしくなり、「昔の仲間たち」のブログを発信するはめになり、どんどん広がっていったのである。


山本隆君

カワサキのモトクロスの一つの時代を築いた、元全日本チャンピオンで、星野と一緒にMFJからご褒美にヨーロッパ旅行をプレゼントされた。

「カワサキがはじめて鈴鹿を走った日」でご紹介したように、カワサキではじめて鈴鹿を走ったのは,意外にも、モトクロスライダーの山本隆なのである。

星野がカワサキ時代、兄貴のように慕っていた。
ちなみに、私は彼の仲人をやらさせた。はじめての仲人で、未だ私も若かった。


清原明彦君
カワサキのテストライダー出身で、改めて説明の要もない人気ライダーである。
神戸で立派なモーターサイクルショップを経営している。

先日の、大槻さんが会長のZ-1会のゴルフコンペでは、清原用の特別ハンデイではあったが、確か優勝した。流石に勝負強い。

久しぶりに、OB会やりましょうという話になりそうだ。




ミスターバイク&鈴鹿ツインサーキットの社長 斉藤さん

春日井スズキという、スタートしたばかりの小さなお店時代からの、おつきあいである。
久しぶりに声が聞けて懐かしかった。
鈴鹿ツインサーキットの開発には、やはり10年の永い年月を要したとか。

どのようなことでそうなったのか解らぬが、私とも特に関係の深い、大阪の3人との仲は親密極まりない。

その3人とは。
大阪の老舗ショップ、船場モータースの岡田博さんと、今はその息子さん。

堺の(株)忍者の伊藤さん。時々、酒場から自宅に電話がある。毎年必ず、水なすを送ってくれる。面白い、男である。

もう一人は、吉村太一君。あのモトクロスで有名な、星野と同期の「太一ちゃん」

このグループは、カワサキにいた竹内優さんも入れて、集まっているようだ。
出て来いとも言われているのだが、未だ行ったことはない。

来春、太一も呼んで久しぶりに、ゴルフをしようと誘われた。



星野インパルの金子豊君昨日、電話をしたが留守だった。今朝先方から電話があった。

カワサキコンバットのone of themだったが、当時のメンバーの星野とまた出会って、今はインパルの社長である。

私はレース担当のあと、東北6県の営業を仙台で担当したが、ご縁があって、仙台時代もよく一緒に、彼のトヨタの空冷のスポーツカーで走り回った。秋田の出身である。

「今、どこに住んで居られるのですか。」「三木。」「松尾さんの居た近くですね。松尾さんお元気ですか。」「福田さんは、大西健ちゃんは。」など、レース仲間にだけ解る会話が続いた。

彼もまた、いい男である。いろいろ、昔を懐かしんだ。

星野は居なかったが、「また電話をさせます。」ということで電話を切った。


ブログがきっかけで暖められた、私の旧交であった。



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片山義美君のこと

2006-11-11 09:39:25 | M/Cレース

昨日の夕方、高橋さんに電話した。
「レースの偉い仲間たち」に勝手に名前を出したので、了承を頂くためだった。

「聞いた、聞いた。今日、会合があって、大槻さんが会うなり話をしてくれた。」
私流の仲間の解釈を,海兵出身の高橋さんに120%の賛意を示して頂いた。
同志という言葉も出た。同志は仲間より一段上のランクか。

私が、「想い出を共有する人たちを仲間という。」とはっきり認識し、外に対して発言したのは、片山義美君の引退パーテイの時だった。

ご存知の方も多いと思うが、日本を代表する世界に名を馳せた、二輪、四輪の名ライダーである。

当時、スズキ、マツダの契約レーサーで、カワサキと直接の契約はなかったのだが、彼の主宰する神戸木の実クラブのメンバーであった山本,歳森、金谷,星野がカワサキの契約ライダーであったので、いろいろ接触はあった。

この引退パーテイで、予想もしなかった開幕の主賓の挨拶を、突然頼まれた。

断ったが、どうしてもと言われて、「スズキさん、マツダさんを差し置いて、ご挨拶をすることになったのは、多分、沢山の想い出を共有する仲間として、一言喋れということだと思う。」と前置きして、挨拶をした。

司会を務めていたのは、金谷だった。

事実、片山と金谷と私の間には、忘れることの出来ない、一つの共通の思い出があった。
その時はじめて、とっさに、この言葉が出てきたのである。

私流の「仲間」という解釈は、片山と金谷がくれた言葉だと思っている。

(このパーテイには岩崎茂樹君と2人で出席した。久しぶりに小島松久君とも会い旧交を温めた。確かヘリで来たなどと言っていた記憶があったが、先日片山義美君に会ったとき確かめたら、そうだった。)



つい先日、突然清原君から電話があり、「今、片山さんのところに来ている。飯でも食いませんか。」とわざわざ家まで迎えに来てくれて、ご馳走になった。

先ごろオートポリスで、往年の名ライダーが走った時、清原が片山にお世話になったお礼に来たのだという。

片山君は今、私も住んでいる三木市に店を持っていて、住まいも聞いてみると私と同じ町である。


たまに会っても、昨日のことのように思い出を語り合える仲間がいることは、本当に幸せである。

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「差別化」を考えよう

2006-11-10 15:12:35 | 発想$感想
差別化。 一般には聞きなれない言葉かも知れない。

差別ということで使いにくい言葉かも知れぬが、マーケッテング用語としては、基本的な言葉である。

私のすべての発想のベースになっている。

会社にいたころ、区別では駄目なのかと上司に言われたことがある。
差別化でなければ、駄目なのである。

最近、ブログを始めた。

私のブログのコンセプトは別にあるのだが、具体的なその内容など、他と差別化することを基本目標として取り組んでいる。

ほかのブログと区別できると同時に、その内容も質も、明らかに他と差があるものにしようと努力するというスタンスである。

自分のことだから、大人しく言っているが、若しこれがビジネスの場合だと、他の追随を許さない、圧倒的なレベルでの実行を目指すことを目標に掲げて、頑張るのである。
所謂、差別化戦略である。

そういう差別化を目指す基本姿勢は、ビジネスなど実戦には極めて有用である。
会社などで立案されるいろいろな施策も、「差別化されているかどうか」の一言のチェックで、そのレベルが図れる。

若し、差別化されていない施策は、ただ造った、計画したというレベルで、殆ど目指す効果は期待できないのが普通である。

ビジネスだけでなく、一般の物事であっても、差別化の意識はいろんなところで有用であると思う。

特徴がある。上手くできている。個性的である。目立つ。立派である。印象的である、等などいろんなことを、たった一つの言葉「差別化」で表わせていると思っている。

そんなに難しく考えず、「差別化を考える」ことは進歩に繋がると思っている。

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レースの偉い仲間たち

2006-11-10 09:48:26 | M/Cレース

昨日、私の仲間たちというブログを書いた。

カワサキでのレースで関係した仲間たちは、想像以上にそれぞれ偉くなっているのである。

そのうちの何人かを、「共有する思い出」の幾つかとともに、ご紹介したい。
今後も私のブログに何度も登場するはずである。


どういう順にと考えたが,歳の若い順番にさして頂いた。


1964年9月13日、山梨モトクロス。
これが私のはじめての現場でのレースマネージメントであった。
ライダーはともかく、技術オンチの私を心配して、メカニック連中のまとめ役として手伝ってくれたのが、田崎さんである。

現在の川崎重工業、田崎雅元会長である。
彼にとっても、多分はじめてのレース現場であったはずである。

田崎さんとは、レースだけでなくいろんなことで、深く関係した。

先日の「カワサキがはじめて鈴鹿を走った日」のなかで、2台のレーサーを造ったとあるが、あの2台をラインから抜き取って、都合してくれたのは彼だった。

あのときは、名前を出すのをためらって、名前は伏せておいた。
昨日、直接電話してブログに名前を出すことの了解を得たので、今書いている。

本当に久しぶりだったので、1時間ほど電話でお互いに雑談を楽しんだ。

電話を切って直ぐ、彼から電話が入った。
「雑感日記、見つけた。お気に入りにいれたから、見させてもらいます。」
一人の定期読者が確保できた。


大槻幸雄さん。カワサキの名車、Z-1の開発チーフリーダーである。

これも先日のブログで紹介したカワサキのはじめての公認ロードレース、6H耐久の監督であった。ちなみに、田崎さんが副監督だった。

大槻さんとの思い出も多いが、今でも年4回は間違いなく、会ってゴルフを楽しんでいる。
大槻さんが会長のゴルフコンペ Z-1会。50名のそれこそ本当に懐かしい仲間の集まりである。
レース関係者が非常に多い。ライダーでは、清原も塚本も的野もいる。歴代のレース監督、メカニックたちも多い。またの機会にくわしく。

大槻さんは、元川重常務である。


あとお二人、どうしても私の仲間としてご紹介したい大先輩は、高橋鉄郎さんと山田えん明さん。(本当はてるあきと読むのだと思うが、みんな えんめいさん とお呼びしていた。私のパソコン技術ではその字が探せない。大変失礼だが進めさせて頂く。)

お二人とも、元川重副社長である。

高橋さんは、レース以外でも私の50年の会社生活で、最も影響を受け、直接ご指導頂いた懐かしく、尊敬する先輩でもあり仲間である。
私の日記のなかの登場回数も、数えたことはないが、多分トップであると思う。

カワサキのはじめてのモトクロスレース、青野ヶ原出場に関しては、色濃く関係されたと記憶している。
(後日、電話で確かめた。中村治道さんが監督だったが、当日来られなくなって、事実上、高橋さんがレースの指揮をとられたそうである。)


山田さん。
カワサキがはじめて外人ライダーとの契約をしたのは、あの鈴鹿のデグナーカーブに名を残す、ドイツ人のデグナーであった。

この契約に直接携わったのが山田さんで、契約書を作ったりお手伝いをしたのが、私である。外人との契約の仕方が解らずに、当時MFJの運営委員をしておられて面識のあった、ホンダの前川さんに鈴鹿まで出向いて教えて頂いたのを思い出す。


こういう社会的にも、偉い人たちを仲間とよんで憚らないのは、本当にレースの仲間として、ともに苦労した実績があるからだと思う。
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