雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

紅葉・黄葉そして落葉の季節

2020-12-17 07:45:01 | 発想$感想

★長く人生を生きてきたが、
 今年ほど自然の移り変わりを、
 直接この目で確かめながら過ごした年は、初めてだろうと思う。

 これは、『コロナ』のお陰である。
 春先からジムも閉鎖されたし、
 毎日公園をスロージョッギングする日が続いた。
 その頃は、梅が咲いていた。

 公園というのは1年中何かの花が咲くように、
 計画的に植樹されていることもよく解った。
 春から今まで、花が絶えたことがない。


★そして今は、紅葉から黄そして落ち葉の季節となっている。
 ごく最近まで黄葉だった並木道も12月も半ばになると、こんなになった。

 


 
でも、もみじ谷の中腹は未だ紅葉の季節でもある。
 手前は池なのだが、全く水面は見えず、落ち葉で埋まっている。




 
 この森は未だ、葉は散ってはいない。まさに『黄葉の季節』なのである。
 渡り鳥は今年もこの池にやってきた。




 
 これらは、いつになればホントに葉を落としてしまうのか?

 そうなれば、どんな景観になるのか?

 その辺りの興味を持ったのも、今年が初めてである。



 葉は落ちてしまったが、
 赤い実がいっぱいの樹もあるし、

  



 山茶花は冬の花である。
 


 こぶしは既に蕾を持っている。

 こぶしの花が開くのは、いつだったかな?
 『こぶし咲く春』というから、2月頃だったのかも知れない。




 あと15日で、いろいろあった2020年も終わりである。

 来年は1月から、改めて公園の樹々の変化や
 花をもう一度、確かめてみたいと思っている。

 

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米寿を迎えて   

2020-12-16 07:41:02 | 発想$感想

★ 来年の3月にならないと88歳にはならないのだが、
今年4月から始まった『今期内に米寿を迎える人』を対象にしているのだろう。

 今年は市役所をはじめあちこちから『米寿のお祝い』を頂いたりした。

 これは私の母校・明石高校から
 『米寿を迎えて』という小冊子が届いたのである。

 


 
 この冊子の『あとがき』にあるように、
 『明中1回生』から20年以上も続いていた
 『米寿を祝う会』が今年はコロナで開催出来なかったので、

 今年『米寿を迎える人たち』の文集を企画したのである。

  


  沢山の方々が寄稿されているのだが、やはり圧倒的に女性が多い。
  女性は苗字が変わっている方が多いので、どなたなのかよく解らないし、
  男性でも思い出させない方も多いのである。

  
  これが私の文章が載っているページなのだが、
  不思議なことにこのページは男性ばかりで、
  こんなページはこのページ以外は見当たらないのである。

   


  さらに言うと、
  このページの『堀晋』・『溝畑圭一郎』くんは野球部の同期だったし、
  『三河敏明』くんもよく覚えている。

  最近は全くのご無沙汰だが、みなさん元気だったのだ。


★ 特に溝畑圭一郎はどうしてるのかな?
 とずっと思っていたのである。
 
 高校時代は完全試合をやったり、
 神戸製鋼でもエースだったし、
 都市対抗にはどこが出ても補強選手で選ばれるので、常連だった。

 もうだいぶ前にはなるのだが、
 突然『溝から、電話があった』のである。
 調べてみたら2011年7月だから、もう10年近く経っている。

 その時のブログにこのように書いている。

 
昨日突然、『溝』から電話があった
久しぶり、昔の仲間、球友『溝畑圭一郎くん』からである。 
『 日経新聞電子版 の中の「ライフ 暮らしの知恵」と言うサイトがあって・・・・』と話しだしたのである。
 同期の野球仲間だが、何故か野球だけは抜群に上手いのである。
運動神経があるのだから、ゴルフも上手いのかと思ったら、ゴルフは下手くそなので、『野球だけは』と言っているのだが、聞いてみると、
要は、日経新聞の電子版に、『78歳「イチロー」白球に懸ける想い』 と言う溝畑圭一郎の特集記事が出ているので、『それを広報しろ』と言うことなのである。
ゴルフもダメだが、パソコンもダメらしいのである。
私が何となく、ブログなどやっているのは知っていて、それで電話してきたのである。


 当時は78歳ぐらいだったが、
 4割も打っていたらしい。
 背もそんなに大きくはないのだが、ホントに『野球だけは上手かった

   

  
  私なども、『当時は明石も強かった』と威張れるのは、
 ピッチャーに溝がいたからなのである。
 その溝も、84歳で病気して『人並に老化を重ねている』と書いている。

 でも、どうしてるのかな? とホントに気になっていたのだが、安心した。
 堀も元気でいたのは知らなかった。

 ほかの同期の連中はみんな逝ってしまったのである。
そういう意味では『米寿』まで生きることが出来て、よかったなと思っている。

 

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本の著者と 直接お話するという機会   雑感

2020-12-15 07:07:44 | 私の生き方、考え方&意見

★ 私自身は特に読書家でもない。
  どちらかというと『本は読まない』ほうである。
 
  そんな私がいま仲俊二郎さんの書かれた
 『そうか、そんな生き方もあったのか!
  という本の『仲俊二郎 読書友の会』の管理者をやることになっている。

  

 
  


  仲さんとは『親友』と仰る
  兵庫県立大学名誉教授小西一彦先生にひょんなことで頼まれて、
  お引き受けした結果なのである。

 
  小西先生がFacebook の中に立ち上げられた
  仲俊二郎 読書友の会 は予想以上に活況で既に70名ものメンバーが
  参加されて、いろいろ投稿やコメントなど頂いているし、
  既に、何人かの方は本を購入されたりもしているのである。


  


★ こんな展開になるとは予想もしていなかったので、
  私も、ちょっとビックリなのである。

  そんな中のお一人に『向笠暁彦』さんがおられて、
  こんな記事をアップしておられるのである。

  大槻幸雄さんはバイクのユーザーならご存じの
  『カワサキZ1の開発責任者』なのだが、
  こんなガスタービン開発の本も書かれている著者でもある。
 

   




 実は昨日、『向笠暁彦』さんとご一緒に大槻幸雄さんとお会いしたのだが、
 大槻さんの本を読まれたばかりの向笠さんと大槻さんの会話を
 横で聞いていたのだが、これはなかなかオモシロかったのである。

 これは大槻さんと向笠さんの対談の一場面である。

 

 
 読者と著者が直接話などする機会は少ないはずだが、
 この仲俊二郎さんとも、
直接の会話』が出来る舞台だけは出来上がりつつあるのである。



★ 仲さん、Facebook は初めてのようだが、
 既に登録されていて、トモダチは『私1人』だったはずだが、
 いつの間にか、39人もの方と繋がっているのである。

  



 これはその一部だが、こんな方たちが友達になっておられる。
 自由に本の著者との直接の会話ができる舞台が整いつつあると言っていい。

 
  

 ひょっとすると、
 これは 『本の著者と読者を直接つなぐ新しいシステム』
 になる可能性もある。

 電子書籍などの出現で、本の売れ行きがもう一つの現代社会のようだが、
 Facebookなどと言う、ネットシステムを使っての
 新しい『本の読み方』というか、
 著者と読者の繋がりが出来ればいいなと思ったりしている。

  
 Facebook をおやりの方なら、
 『仲俊二郎読書友の会 』 『仲俊二郎』と検索したら
 簡単に繋がることが出来ると思います。


 



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カワサキZ1 と 大槻幸雄さん

2020-12-14 07:30:00 | カワサキワールド

★ カワサキZ1開発の功績で
 大槻幸雄さんが日本自動車殿堂入りをされたのは
 昨年の11月末のことだった。

 

Z1が発売されてから、もう50年近くにもなるのに
Zを愛する人たちで構成される二輪倶楽部は全国にいっぱいあって、
その一つでもある KAWASAKI Z1 FAN CLUB の方たちが
大槻さんの故郷でもある京都府の綾部で今年の4月18日に
盛大に『お祝いの会』を開こうと計画をスタートしたのは
昨年の12月初めのことだった。

それが『コロナ騒ぎ』で、一度は9月に延期はしたのだが、
それもダメになってしまったのである。


そんな大変な1年ではあったのだが、
この1年『大槻幸雄さんの殿堂入り』に関する事柄が
私の周りの大きな出来事であったような気もする。



★実は昨日の日曜日、
 KAWASAKI Z1 FAN CLUB事務局長の登山道夫さんとメンバーと
 大槻幸雄さんのお宅にお邪魔してきたのである。

 大槻さんの前に並んでいるのが
 右から 日本自動車殿堂入りの記念楯
 左が 大槻さんが創られて配られた殿堂入り記念グラス
 真ん中はそのグラスを頂いたKAWASAKI Z1 FAN CLUB のメンバーたちが
 お礼に大槻さんに差し上げた Z1シリンダーヘッドのカットモデル



 
 大槻さんが手に持っておられるのは
 大槻さんから記念のグラスを頂いた人たちからのお礼状なのである。

 
★ 世界の名車Z1が世に出たのは1972年なのだが、
 その開発総責任者が大槻幸雄さんなのである。

 50年近く経った今も、世界中にZのファンは健在で
 マシンも街を走り続けている。

 


 今年はZ1をこよなく愛するZ1ファンたちの要望に応えて
 川崎重工業はそのシリンダーヘッドを世に出されたりもしたのだが、
 この要望を川重に申し入れられたのも、実は大槻幸雄さんなのである。
 5年前のことだが、私も稲村暁一さんとご一緒にお伴したので、よく覚えてる。
 難しいプロジェクトだったと思うが、メーカーはよく実現されたと思う。

 そんなシリンダーヘッドのカットモデルを
 KAWASAKI Z1 FAN CLUB のメンバーたちから
 大槻幸雄さんに記念グラスを頂いたお礼にと贈られたのである。

 

 

★ 大槻さんは日本殿堂入りの栄誉を記念して『記念グラス』を創られるというので、7月以降そのお手伝いをさせて頂いたのである。
こんな素晴らしいチタンガラスのグラスに仕上がっている。

 

 
 
大槻幸雄さんからの感謝の言葉が添えられている。

   
 


川重関係者やZ1のファンたち、
 大槻さんが会長を務められるZ1会のメンバーたちに配られたのである。
 
これはその11月に開催されたZ1会に参加された
KAWASAKI Z1 FAN CLUB 事務局長登山道夫さんのFB記事である。
  
 



★そして昨日の日曜日、
記念グラス』を頂いたKAWASAKI Z1 FAN CLUBのメンバーたちが、
そのお礼にと、Z1シリンダーヘッドのカットモデル』を
大槻幸雄さん宅にお持ちしたのである。

みんなZ仲間、いい歓談のひとときを過ごせたのである。
二輪雑誌の記事のお手伝いをされている 向笠 暁彦 さんの取材もあったので、
年明けにはバイク雑誌に記事が出るかも知れない。





★ 大槻幸雄さん、既に90歳になっておられるのだが、
 まだまだ、お元気である。

 今月12月4日、私は参加できなかったのだが、
 『川郎会』という高齢者ばかりのコンペだが、優勝されたとか。

 Zの50周年は2022年だが、
 是非『Z50周年記念行事』をKAWASAKI Z1FAN CLUB主催
 開催しようという計画もあるのだが、
 是非、大槻幸雄さんも、私も、かってのカワサキの当時の現役たちも、
 参加出来ればいいな、と思っているのである。


 
 
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隔世遺伝? 孫・門野真也

2020-12-13 07:23:28 | 発想$感想

★この世の中に私と家内の血を引き継いでくれてる人が6人いる。
 息子と娘、それに4人の孫たちである。
血の繋がり』などと言うが、みんなそれぞれ何となく似てるものを持っているからオモシロい。

 『隔世遺伝』などと言う言葉があるが、
 4人の孫たちを見ていると、夫々『私に似た』ところを持っている。
 そんな4人の孫たちの中で、
 今アメリカにいる孫・門野真也が『一番似ている』というか
 私自身の『生き方』に通じるところがあって、
 ホントに小さい子供の頃から、『虫取り』や『魚取り』など付き合ってやったのである。

 その門野真也は、物事の取り組み方が私によく似たところがあって、
 ●何事にも『熱心でハマってしまうし
 ●『継続性がある
 ●『個人情報の開示』というか『ネットで発進』などを憚らない。

 この『個人情報の開示』については家内は正反対で、
 一切ネットなどには発信しないのである。
 これは、息子がそうだし、娘の長男の力也がよく似ている。
 

★ 昨日の朝、その門野真也からLineで連絡があった。






 いま、彼は動画に凝っていて、『自分の人生の紹介動画』を創ったから、
 『私にネットで広報して欲しい』というのである。

 彼の短い人生のメインは『サッカー』で、
 そのサッカーでの歩みを『You Tube』に纏めているのである。
  


  3分ほどの短い動画だから、是非観てやって下さい。



  

 実は、既にツイッターでは『リツイート』してやったのだが、
 わざわざLine で言ってきたのは、
 『Facebookにもっと詳しくアップして欲しい』というので
 こんなブログをアップしているのである。


 今年の2月から毎日続いている『毎日てっちゃん』のモデルの
 末弟・門野哲也も出てきた。


 
 
 その『毎日てっちゃんのファン』が300人になったと
 喜んでいるのである。
 
絵の才能』は誰に似たのだろう。
 私の父は日本画だが、橋本関雪に習って結構本格的な絵を画いていた。

 



  何でもやりかけると、凝るところがあって
いまハマっている動画作りのための撮影用のカメラも
『Go Pro』などと言う専門的なカメラを買ったらしい。






★ところで、門野真也の今までのサッカー人生だが、

 サッカーを始めたころは、こんなデブで、
 Strikers FCには『デブはダメ』と断られて、
 3年も減量してやっとは入れたのだが、

      



 こんなに様変わりして、
 当時のお師匠さんは息子だった。
 
 


 これは未だ小学生時代だったかも・・




 この頃から『プロを目指す』などと言ってたが、

 ホントにひょっとしてと思い出したのは
Berkeleyに入って日本人ながらキャプテンを務めたりしてからなのである。





 プロなどホントかなと思ったが、
 ホントに『プロ選手』にはなったから大したものだと言っておこう。
 さらに充実した『プロ人生』を送って欲しいものである。




★ 冒頭に『隔世遺伝』などと書いたのだが、

 先祖には、なかなかの人もいて
 曾祖父の古谷萬平は、明石松平藩の剣道指南番だったと言うし、
 私の母の兄 楠見幸信は昭和の初めベーブルースが来たころの
 全日本チームのセンター1番だったり、
 国鉄スワローズの初代総監督などを務めている名手だったようである。

 まあ、そんな血筋だから、門野真也・哲也兄弟も是非名選手になって欲しい。
 二人の『トレーニング』など観ていたら
 あの一途な熱心さは、誰に似てるのだろう?
 と思ってしまうのである。

 門野真也は、確かに私に似てるところはいっぱい持ってるのだが、
 その熱心さのレベルは全く異なるのである。

 まあ、これくらい詳しく紹介したら、多分真也も満足してくれるだろう。


 
 

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65歳からの3年間 北海道川重建機時代    自分史

2020-12-12 06:41:35 | 自分史

★1988年から担当していた国内販社関係も1996年10月で後輩に引き継ぐことになって、
それ以降は自動車工業会関係など業界団体の仕事ぐらいになって、
サラリーマン生活も最後の段階となっていた。
 
そんな97年3月19日に家に突然重副社長の髙橋鐵郎さんから電話が入ったのである。
札幌の川重建機の社長を2年間ほどやってくれないか?』と仰るのである。
 あまりにも突然だったのでその日は返事を保留したのだが、
結局は『お引き受けする』ことに決めたのである。

北海道川重建機』という社名からは川重の子会社のように思われると思うが、
 確かに川重の建機事業部の製品の販売を扱ってはいるのだが、
 川重の資本も入ってはいるが、子会社ではなくて自前の代理店なのである。
 
 建機事業部としても子会社ではないので、地元資金だし当然ながら地元の人たちで経営もされていたようなのだが、
社長が亡くなられて地元の方が社長をおやりだったのだが、
何かいろいろあったようで『川重に社長を出してくれるように依頼があった』ようである。
 
その候補に私が指名されたのは、かって若い頃に東北で『自前の代理店』を扱っていた経験があったからだろうと推測する。
確かに直営の販社は部下みたいなものだから、そんなに問題もないのだが、
自前の地元資本の会社』となるとなかなかムツカシイ面もあるのはよく解る。


★ 実は高橋さんから電話があった当日、東京本社で高橋さん以下当時の建機事業本部の幹部メンバーが何か人事をやってるところに私が顔を出したのだが、
なかなかムツカシクて困っている』というようなことだったのである。

私自身は『単車一筋』で建機事業部など何の関係もなかったから、
そんな社長候補に挙がることなどないはずなのに、
そんな検討会議の場面に顔を出したものだから、
そうだ、アイツがいる』ということになったような気がするのである。


そんなことでその年の5月末から札幌に単身赴任で勤務することになったのである。




★まずこの会社でのスタートはゴルフ会から始まった。
 その辺が自前の会社らしい。
 そして直ぐ取締役会があったが、会社のメンバーの他に株主たちが出席されていて
 議題は『前社長の退職金の額』というようなことなのだが、
 その議論がなかなか『厳しい意見続出』で大変なのである。
 初めての取締役会がこんなことだったのだが、
 こんな場面の処理はどちらかというと『得意分野』で、
 そんな対応からスタートした新会社の社長業だった。

 自前の代理店は、メーカーの子会社と全然違うのである。
 社長には当然車が付くし、『運転手をつけましょうか?』と仰るのだが、
 運転手は断ったら、『車は4駆のクラウンの新車』が用意されたのである。

 札幌は所謂大会社の『支店長文化』みたいなのがあって、
 宿舎もそんな支店長がいっぱいのホテルのような立派なところだったし、
 大体、二輪業界はあまり『社用族』のような風潮はないのだが、
 業界が異なって、建機業界の交際費などはちょっと桁違いなのである。
 これにはちょっとビックリした。
  会社幹部の定時後の定位置は毎晩のように『すすきの」だったのである。
 
 車のチケットなどは、何枚ではなくて『一冊』渡されたし、
 毎日定時まで社長室にいたら、『なぜそんな時間までおられるのか?』
 というのである。
 かっての社長さんは、幾つもの会社の兼任だったようで、
 ひとつの会社に定時までいることなど、むしろ出来なくて、
 幾つもの会社に顔を出していたようである。


★ 会社の性格もあるのだろうが、札幌は5月からのゴルフシーズンは
 札幌の支店長などばかりが集まるコンペがいっぱいあって、
 5月から10月までの短いシーズンに50回以上のゴルフで、
 それも土日を除いたウイークデイばかりの開催なのである。
 
 北海道のゴルフはアウト・インがアメリカなどのように連続なので、
 朝スタートすると2時ごろには出社できるのである。
 所謂支店長たちは朝はゴルフ、昼から出社という人も多かったようである。

 当時は私もゴルフのスコアは30代の後半から40代前半ぐらいでは回れていたので、
 ゴルフは結構楽しませて頂いたし、『いい賞品』など沢山頂いたのである。


★ このように書くと、ずっと『遊んでいたのか?』と思われるかも知れぬが、社長としての仕事はちゃんとしたと思っている。
 この会社は道内に10以上の支店があってそこに顔を出すだけでも結構大変なのである。
 私は車の運転は好きなので、すべて自分で運転したのだが、
 前社長などは運転をされなかったようで、
 広い北海道だから、支店の方たちはその送迎に大変だったようである。
 そういう意味でも、支店の人たちから『私は好評』だったと思っている。

 二輪車とはその販売方法も全く異なるし、
 今更商品の特徴など覚えてみても仕方がないので、
 商売の方は専務以下に任して、
 『建機の販売のシステム』などは全く覚えたりはせずに、
 会社の『経営システム』や『管理システム』など経営本体の分野は、
 遅れていたので『その分野』については改善できたと思っている。

 当時の従業員の方にも、ちゃんと受け入れて頂いて、今でも年賀状が届いいたりする。
 

★ 私は子供の頃は、今のソウルにいて、寒さには強いほうだったので、
 北海道の寒さにもあまり困ることはなかった。
 
 車は『4駆のクラウン』だったが、『4駆』は雪道を走るには最適である。
 若い頃、二輪で東北・北海道を担当したこともあるので、
 雪道走行は解っているのだが、『4駆』はその安全性というか、桁違いなのである。
 
 それにしても、北海道は車で走るのは最高である。
 北海道各地に10以上の支店があって、それを殆ど車で走ったので、
 北海道の道は殆ど知っていると言ってもいい。
 そういう意味では、まさに『いい3年』だったのである。
 有名な観光地も、一度ならず何回も行ったことがある。
 
   


  北海道の地図を見ると懐かしい。
 襟裳も網走も稚内も国道は殆ど走ったと言っていい。


★ そんな懐かしい北海道なのだが、
 2年目の98年3月14日に、突然『くも膜下出血』で倒れたのである。
 駐車違反で車をレッカーで持っていかれてしまったのである。
 
 札幌の冬は『駐車違反』には非常に厳しいのである。
 川重建機も除雪機が主要製品だったのでその辺の事情はよく解っていて、
 駐車違反は除雪に困るので厳しいことはよく解っていた。
 だから、確かに『駐車違反』ではあったのだが、『除雪』の邪魔にならないところに止めたのに、
 『レッカー』で車を移動されてしまったので、
 そのことを警察の本庁で文句を言ってたら、
 タマに血が上って、『くも膜下出血』に突如なったのである。

 倒れた場所が警察だったから、救急車はすぐ来て15分後には、
 こんな立派な『脳外科専門病院』に担ぎ込まれたのである。


         

  この病院は『脳外科専門』で
 脳外科の専門医が30人近くもいる、文字通りの専門病院なのである。

 非常にムツカシイところからの出血だったので
 『手術』などせずに、ただ『安静』にしていたら
 10日ほどで『集中治療室』から個室に移って
 入院期間1ヶ月ちょっとで退院できたのである。

 68歳の時の春だから、もう20年程前のことなのである。

 いろいろあった北海道時代だが、現役時代の最後を、
 ちょっと今までとは違った仕事を経験できたのはよかったと思っている。

 
 

  
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三木の新しいまちを歩いてきた

2020-12-11 07:09:42 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 1週間の内3日ばかりは、
  三木山総合公園内にある三木総合体育館のジムでトレーニングしているが、
  そのあと隣の三木山森林公園か、体育館の周りを
  スロージョッギングしている。

  こんな自然いっぱいのいい環境なのである。
  つい先日は隣接する『さつき台』の住宅街の中を通ってみた。


 この辺り一帯はかっての『三木山地帯』で
 『三木城址』よりも高い位置にある。
 三木市役所、三木山森林公園、三木総合公園などこの一帯が
 開拓されたのは1992年から1993年だから30年も前のことである。

  

  
 この公園に隣接する『さつき台』が出来たのは1999年だというから、
 多分三木市で一番新しい新興住宅地だと思う。
 そんな『さつき台』の方向をスロー・ジョッギングしてきた。

 野球場横はこんな紅葉が綺麗だった。

 



 

 
  

 三木市で一番新しい住宅街であるだけに、なかなかカッコいい。
  


 道も綺麗だし環境もいい。



 隣接する公園の横にはこんな大きな池がある。




 こんな道が残っているが、かっては山だったのがお解り頂けるだろう。






上の道から眺めた三木山総合公園、手前の庭は、プールに隣接していて、
プールからそのまま庭の散策が出来る。
 


 右の建物がジムのある体育館である。
 三木はどこに行っても駐車場が広い。



 ざっと一周して駐車場に戻ってきた。
 30分ちょっと5キロほどの行程である。




 隣の三木山森林公園もあるし、
 スロー・ジョッギングする環境は整っている。
 
 

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そうか、そんな生き方もあったのか?    2

2020-12-10 07:22:59 | 私の生き方、考え方&意見

★『そうか、そんな生き方もあったのか?』第2弾です。

 我が家には小西先生が本を送って下さいましたので、
 少しだけですが、読んでみました。

 こんな10人の偉人たちの人生が描かれているのだが、
 私もお名前だけはよく知っている偉人たちの人生は、
 結構な波があって大変だったようである。
 そんな人生の大波・小波を乗り切ったからこそ、
 世に名を遺す偉人となられたのだろうかなと思ったりしている。

 




★ 先日、この本のご紹介をしたのだが、
 Facebook で毎日のように出会っている『青木隆』さんからメッセージを頂いた。

   


Amazonで、注文しました。 はい、糧にしたいと思います。
古谷さんの人生も、十分楽しそうで、本の題目と似てると思っています。
 寒くなりました、公園の散策もいいですが、お身体ご自愛ください。』

 早速このような反響があることは嬉しい。


★ 小西一彦先生はFacebook に
  早速、こんな『仲俊二郎読書友の会』を立ち上げられている。

  その仕組みがよく解ってはいないのだが、
  私のFacebook のトモダチを招待したら、 
  早速、20人ぐらいの方が参加されている。
 


 今週の新メンバーとあるのは、既に参加された方だし、
 招待済みの方が84人もいらっしゃる。



 ただ、つい先ほどまではこんな表示が出て、
 『現在友達を招待することが出来ません』などと言う表示が出てたのだが、
 もう今は解除されたのだろうか?

 ネットのシステムは、どうもこの辺りがよく解らないのである。



★ 『松田真弥』さんなどはこんな表示が現れるし、



  
  

こんな画面が現れる方もおられる。



 
   


  


 これらの方は、間違いなく私がご招待したのだが、
 この『仲俊二郎読書友の会』には招待なしに独自で加入は出来ないのだろうか?

 スタートしたばかりで、その辺のところがよく解ってはいないのだが、
 よく解ってはいないのだが、

 著者の『仲俊二郎』さんは
 かって川崎重工業にお勤めだったようだし、
 最初の勤務は私の一番下の妹と同じ職場だったようなので、

 そんなご縁もあって、私も応援したいなと思っている。
 70歳になってから『若い頃からの夢だ った作家へ転身された』のは
 これは大変なことである。
 それ以降、既に10冊を世に出しておられるのである。

 このプロジェクトは、そんなに急いでみても仕方がないので、
 じっくりと腰を据えて、そのご紹介を続けていきたいなと思っている。

 『青木隆』さんのように実際に本をご購入された方は、
 その読書の感想なども頂けたら幸いだなと思っている。

 本のテーマは
 『そうか、そんな生き方もあったのか?』という
 どなたにも関係のある『人の生き方』がテーマなので、
 是非、皆様も関心を持って頂きたいなと思っている。

  

 
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定年後の生活が始まった    自分史

2020-12-09 06:35:59 | 自分史

★ 昭和32年(1957)4月川崎航空機に入社して始まった現役時代は、
 1999年5月末で北海道川重建機社長を退任することで幕を閉じた。
 
 42年間の現役生活は、オモシロかったと言っていい。
 それは一般のサラリーマンが経験するようなものではなくて、
 入社して退社するまで、『上司の指示』など全くなかったと言っていい。
 新入社員の時から一貫して『自分のやりたい』ようにやれたのがよかった。
 
 会社が再開したばかりで、新しく整備されていなかったこともあったし、
 上司が経験したことのない『IBMでの償却計算』などに取り組んだのが幸いしたのである。
 


★ そんな現役時代が終わって、
  定年から6年間は、このように纏められている。
  年齢でいえば67歳から73歳までだが、
  74歳以降の活動に比べたら、
  世間一般の定年後の生活に近いモノだっと言っていいだろう。

 


★札幌からの帰りは、飛行機ではなくて札幌から大阪まで
 『人気の22時間の汽車の旅』で戻ってきている。
 その少し前にはこれも家内と一緒に北海道全土を車で一周するなど、
 なかなかいい時間が過ごせたのである。 

 5月から始まった定年生活は、
 『庭の手入れ』から始まったと言っていい。
 札幌に行っていた2年間庭はほったらかしにしていたので、
 その剪定が大変だったのである。
 そしてその翌年からは『薔薇の栽培』をスタートしている。

 当時はまだ『コロ・ラブ』という2匹の犬がいたので、
 毎朝夕、犬の散歩は日課だった。
 札幌に行っていた2年間、面倒を見てやれなかったので、
 この時期は大いに『犬の時間』が多かったように思う。
 

    

 
 
★翌2001年7月、パソコン購入とあるが、
 別に自分で買った訳ではなくて、娘婿の門野匡秀に買わされたのである。
 日記に
 『門野くんがノーリツの社内販売の残りのパソコンを持って専門家と一緒に来てくれる。
 18万円の買い物である。
 インターネットもメールも出来るように午前中掛ってセットしてくれたが、
 果たして使えるようになるだろうか?…』
 などと書いていて、私のネット生活がスタートしているのである。


★ 2002年は特に何も書いていないが、日記を見ても特に何もない。
 薔薇に一生懸命である。
 まだ膝や腰が痛くて整形外科に通っている。
 ストレッチや水泳などやりかけたので年末には何とかよくなっている。
 永年のサラリーマン生活で運動不足だったので、体調だけでいうと今の方が
 よほど元気である。

 ストレッチに関して言えば、以来ずっと続いていて、
 これが私の体調を支えてくれていると言ってもいい。
 『筋肉は何歳になっても付く』と言った医師の言葉はホントだった。
 


★ 2002年5月に廣野ゴルフ倶楽部の理事長宛に『手紙』を出している。
 
 廣野ゴルフ場は、神戸・三木線の道路と長く接しているのだが、
 その部分が雑草が生え放題で汚いのである。
 いつもそこを通って通勤していたので
 ずっと何年間も気になっていたのだが、現役時代は言えなかったのである。

 この年、70歳にもなったので
 『道路に面した部分は社会と繋がっているのだから・・
 と思い切って書いてみたら、
 丁重なご返事を頂いて、それ以降本当に綺麗になったのである。

 昨今はネットで毎日のように自分の想いを書いたりしているが、
 この手紙が私にとっては『社会に物申した』最初のものだったのである。
 丁重なご返事も頂いたし『様変わり』したので、
 それが自信に繋がったと言っていいだろう。

 
★2004年にはデジカメを買っている。
 生涯で、初めてカメラを持ったのである。
 これもパソコンを持ったお蔭で、写真でも撮ろうかと
 最初に撮ったのが上記の『トム・ラブの写真』なのである。

 今も続いている『Z1会への入会』もしている。
 今はアメリカに移住してしまった娘一家が、
 ノーリツの転勤でアメリカに渡ったのがこの年の7月、
 もう15年にもなるのである。 孫たちも大きくなるはずである。
 

★ 2005年は特に何も書いていないが、確かに何もない。
 日記をめくってみても、確かに何もない。
 ただ、ゴルフは42~45で回っているし、
 パンダ碁も初段で打っているので、これは今よりもずっといい。
 体重も75kg前後で保てている。
 
 なぜかな?と思うが『気持ちの持ち方』かなと、思ったりしている。


 パソコンでブログをやりかけたのは、
 翌年2006年9月からで、それからは生活が一変した。
 今思うとこの数年間が
 人生で『一番落ち着いていた時期』だったのかも知れない。

 
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三木の旧いまちを歩いてきた

2020-12-08 06:48:57 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 昨日は三木の旧い街を久しぶりに歩いてみた。

 三木の旧市内は左上あたりで、
 その右手に拡がる広大な新興住宅街は、
 かっては高台というか山だったのである。
 
  


 ジムは三木山総合公園にあるのだが、
 この辺りもかっては山だった。
 そのすぐ下に三木市役所はある。

 


 
 結構、立派な市役所の建物である。
 この市役所は、かっての三木城よりは高いところに位置している。
 お城は高いところに建っているのが常識だが、
 最近の開拓技術のお陰でさらに高いところに市役所がある。
 昔のお城みたいだなと思ったりする。
 
 


 その駐車場に車を止めて、旧市内を歩いてきたのだが、
 多分、三木市役所の駐車場は日本で一番広いのではないかと思う。
 これが上の駐車場で、下の方にももう一つある。
 左手の建物は図書館。

 


 こんな桜並木の坂道を下った左手に、




 大宮八幡宮がある。
 お祭りの時は人や神輿で埋まるのだが、ひとは1人もいなかった。




  町からは、こんな急な階段を上がったところにある。
 お祭りの時は、神輿を担いでこの階段を駆け上がるのである。
 


  これは『三木城址』から三木の街を眺めたところだが、
 美嚢川をはさんで旧市内は広がっている。



 これが美嚢川。




 美嚢川の橋の上から眺めると、
 左の山あたりが『三木城址』、
 右の高い山の上に建っているのが、『三市役所』なのである。




 神戸電鉄の三木駅は先日火事で焼けてしまって、今は駅舎はない。
 近代的な駅になると言うので、どうなってるのかと思ったが、
 まだ、手は付けられていなかった。



 
 三木はかっては『城下町』である。
 城下町特有の曲がりくねった小さな道が続いている。
 これが昔々の道である。
 


 かっての繁華街『なめら商店街』は今はこんな状況で人はいない。
 でも、ここの主たちはお金持ちである。
 ここはこんな状態だが、新しい立地に新しい店など構えている方も多いようだ。
 




 この商店街ら右に階段を上ったところに『稲荷神社』がある。

 


 この階段を上ってきたが、95段あった。
 



 三木はホントに旧い歴史のある町で
 神社やお寺は幾つあるのか解らない。
 神社やお寺『だらけ』なのである。

 
 三木金物神社も『三木城』の直ぐ横にあった。
 


 ここが『三木城址』 お城は残っていない。



 別所長治公のこんな像が建っていた。



 『三木城址』からパノラマで撮るとこんな感じである。




★ 『三木城址』から少し上ると『三木市役所』に出る。
  さらに少し上ったところに
  三木山総合公園も、三木山森林公園もある。

  さらにそのずっと東側はかっては広大な山だったのだが、
  今は新興住宅で三木市の人口の半分以上がそこに住んでいる。
  私もその一人なのである。

       調べてみたら、
  三木の旧市内の標高は、20~40メートル
  三木城址や三木山あたりが114メートルなのに、
  廣野ゴルフ場150メートル
  わが町『緑が丘』はいろいろあるが120~140メートルと結構高い立地なのである。

  廣野ゴルフ場の南側は神戸市だが、
  ここは『廣野』という名のごとく『廣い広大な野原』が広がっている、
  ちょっと珍しい地形なのである。


  

 
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そうか、そんな生き方もあったのか!     1

2020-12-07 05:51:32 | 私の生き方、考え方&意見

★『そうか、そんな生き方もあったのか!
 仲 俊二郎著 の本の題名である。

 同じ題名で、多分このブログも何回か続くと思われるので
 『そうか、そんな生き方もあったのか 1』とした。

 久しぶりに私が取り組む『プロジェクト』になるのかも知れない。

  
   


 本の帯には、
 兵庫県立大学名誉教授の小西一彦先生
 『人生には迷いもあり、悩みもある。
  しかし10人の偉人たちは、運命に敢然と立ち向かい生き抜いた。
  若者から年配の方まで、明日を生きるためにお薦めしたい一冊。
 と書かれている。


★ その小西一彦先生から、長いメールを頂いたのである。
 大要は次のようなものだった。

『さて、久しぶりにメールを送らせて頂きましたのは、 実は、大学時代からの親友の仲元俊二君からの依頼で、 古谷様へたってのお願いです。
仲元君は、大阪市立大学を卒業した後、 川崎重工業に就職し、その最初の配属先が、 健康保険組合でした。
その彼が、その後、フランスに出張して、 世紀の大事業と言われるドーバー海峡のトンネル 掘削工事を受注し見事に成功させました。その実績が 買われてか、外資系のケミカル会社の取締役にヘッド ハンティングされ、そこを退職後、若い頃からの夢だ った作家へ転身することに成功しました。
これまで、10冊の本を書いていますが、いずれも素晴 らしい作品です。最近刊は『そうか!そんな生き方も あったのか!』(栄光出版社)という本ですが、今年 の夏前に、いつものように、まず、私に原稿を送って きて読みました。一読して、今回も素晴らしいと直感 し、早々の発売を心待ちにしていました。
ところが、その後、いくつかの出版社にあたったが、 どこも引き受けてくれない、電子書籍の影響で、昨今 の出版業界の経営悪化に加えて、今回のコロナの影響 が加わり、大衆受けするかしないかわからないような 本の出版はどの企業も手を出したくなくなったのでし ょう。
せっかく苦労して書いた作品もそんなことで日の目が 見られないのはまことに残念なことであるので、私も 販売に協力するから、もう一度、出版社と交渉して、 出してもらうようにしてはどうかと、肩を押したとこ ろ、彼と私の販売協力を条件に、一社(栄光出版社) が引き受けてくれることになりました。
コロナ禍の中でではありましたが、さる11月12日に、 添付のような「仲俊二郎出版記念祝賀会」を開催し、 参加者及び参加できないが販売には協力するという人 たちから、100冊近くを買って頂くことが出来ました。
しかし、もうひと頑張りしなければなりません。そこで、 最近の研究会で知りえた情報を参考に、この後は、 インターネット経路もフル活用して宣伝して売って いく必要があるのではないかと考え、その方向での 販売協力を彼に提案しました。
古谷様は、既に、何十万というフォロアーを持つ、 ブロガーなので、、何か情報を お持ちのはずで、良いアドバイスは頂戴できるので はないかと考え、メールを出させて頂いた次第です。』

 
仲元俊二さんが川崎重工で最初に務められた健康保険組合では、
私の一番下の妹と同じ係で一緒に仕事をしていたというのである。
それも何かのご縁である。

要は『電子書籍』などの影響で本の販売がムツカシクなっている昨今、
ネットでの販売促進』をやりたいので手伝って欲しいということなのである。


★その依頼主が兵庫県立大学名誉教授の小西一彦先生というのである。
 兵庫県立大学はかっての神戸商大で私の母校ではあるのだが、
 大学時代は野球一筋で殆ど授業にも出ずに、
 は体育実技・体育理論という運動部員は優、中国語の1,2というこれも試験を受ければ優、それに野球部の部長だったゼミの先生のたった5つだけで、当然優が取れる科目のみなのである。
 
 そんなことで 大学の先生など殆ど無縁の存在だったのだが、
 その大学の先生からのご依頼なのである。
 『人生いろいろと変わるものである

 私は現役時代もずっと、人から頼まれた仕事をやってきたことが多かった。
 『他人からの頼まれごと』は『私への期待』なのだから、
 頼まれた方が満足するような成果が出ないと失敗なのである。
 幸いにして殆どの『頼まれごと』は120%の成果を得たと自負している。

そうか、そんな生き方もあったのか!』を
 出来る限り沢山売ることが目である。
 
 これはなかなかムツカシそうだが、目標としてはオモシロい。
 どんな結果になるのかはよく解らぬが、
 私なりに、独自のやり方で『その広報展開』を進めてみたい


★ こんなメンバーが応援されているようである。

  

    著者の名前は『仲俊二郎』となっているが、
 本名は『仲元俊二』さんのようである。


 まずは、その一報なのである。
 ご興味のある方は、是非ご一読下さい。

 『そうか、そんな生き方もあったのか! 
 人の生き方はいろいろあるのでしょうが、
 『頼まれごと』はちゃんとやるのは『私の生き方』なのである。

 そんなことで『私の生き方、考え方&意見』というカテゴリーで纏めてみたいと思っている。

 
 
 
 


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旧いカワサキの創生期の写真から  2

2020-12-06 06:31:57 | カワサキ単車の昔話

★ この写真に写っている方、私にとってはいろんな思い出いっぱいの方たちである。

 まずは最後尾の列の中央の大柄な方が、営業部で青野が原のレースを支援された『小野助治さん』である。
新しく出来た単車営業を担当されて、私をその営業に引っ張られたのも小野さんだし、
私の仲人をして頂いたのも『小野助治さん』である。
 
当時の営業部には『苧野豊秋さん』と二人の次長がおられて、
小さい小野さん』『いもの苧野さん』などと言っていたのである。
その苧野さんは写真前列右から2番目である。

苧野豊秋さんも明石高校の先輩で、
その後もご縁があって長く国内を担当されたし、
最後の方では国内のジェットスキー販売時に大いに援けて頂いて、
初代のJJSBA会長もされたのである。
 



青野ヶ原に出場したライダーたちは、みんな社内の人たちだったのだが、
左から3番目が秋原くんである。
私が新しく出来た単車の営業部に移って一番最初に仕事でおつきあいの出来た人である。

カワサキB7、ご存じだろうか?
カワサキが最初に世に出したバイクだが、フレームに欠陥があって
毎日、毎日返品が続いたのである。



当時はまだ125cc以上のバイクには物品税が掛けられていて、
物品税の納入は至極簡単なのだが、
返品した場合の戻入はなかなか大変なのである。
 
要は、工場を出たままの形でないと、戻入は出来ない。
少しでもメーターが回っていたりすると許可にならなくて、
メーターの巻き戻し』などという中古車屋のようなことを当時はメーカーでもやってたのである。
秋原くんとは、そんな作業で毎日のように会っていたが、 
彼がレースのライダーをやれるなど知らなかったのである。

そんな大変だったB7は1年で生産中止になり、
翌年はB8が新発売されて、そのB8で青野ヶ原の優勝が決まったのである。
 
不思議なことに『カワサキ優勝』・『1位から6位まで独占』と言われるのだが、
1位が誰だったのかはよく解っていないのである。
なぜそれをみんな話題にしなかったのだろう?
 
この写真には4人のライダーが写っているが、
右側の二人は加藤・飯原くんで
彼らは鈴鹿6時間耐久レースにペアで出場している。
因みにそのレースに神戸木の実から金谷秀夫・歳森康師コンビが出場し、
それが金谷のカワサキでの最初のレースだったのである。


 

 
 
★ この写真の髙橋鐵郎さんの右が川合寿一さんである。
 営業部には私の後に入ってきて、青野ヶ原のチームの面倒を見たのだが、
最初のレース担当が川合さんで『ライダー契約』などをやったリ、チーム運営などもやっていた。

当時は全国各地で毎週草レースがあったのだが、
城北ライダースなど強いチームがくるところは避けて出場していたので、
カワサキは連戦連勝だったのである。
私が担当してた広告宣伝課がレースも担当してたので、
その結果は新聞社に広報してたので『カワサキはレースは強い』ということになっていたのである。
 レースのことなど全く知らない私もホントに『強いのだ』と思っていた。

青野ヶ原』の翌年、MFJ 第1回全日本モトクロスが相馬ヶ原で開催されたが、
川合さんが『困った困った』と言うので、
なぜそんなことを言うのかと思ったら、
そこには全国の強豪が集まるので、なかなか勝てないというのである。
結果はホントにその通りで7位が最高の成績だった。

然し、この年の秋のMCFAJ全日本では4種目中3種目に優勝するなど、
カワサキのレース活動の進化は早かったのである。

ところがその年の暮れだったか『歳森・山本のBS仮契』事件が発生して、川合さんが私に『片山義美さんに話をしてくれ』というのである。
そんなことで、レースなど全く解らなかった私が最初に話をしたのは、
歳森・山本の所属した神戸木の実の御大・片山義美さんなのである。

西海義治さんなども出てこられて、この件は何とか無事決着したのだが、
その時の話の流れで、レースを直接担当するようなことになったのである。
今思い出しても、純粋に川合寿一さんはいい人だった。


髙橋鐵郎さんの左隣が多賀井君である。

1976年に、10年間の国内出向から川重企画室に復帰するのだが、
小型車開発プロジェクト』として、
私は東南アジアの市場調査チームを起案すしたのである。

その時の調査団長を務めて頂いたのが髙橋鐵郎さんで、
現地の案内役を務めてくれたのが多賀井君なのである。

この調査団には、技術部から写真の川崎芳夫さんも参加されたし、
製造関係からは安藤佶郎さんが参加されていて副団長を務められた。

因みに、この東南アジア市場調査チームの団長は
当時の塚本事業部長は最初に『大槻幸雄』さんを指名されたのだが、
大槻さんが辞退されたので髙橋鐵郎さんに代わったという経緯なのである。


★この調査団は私にとっても髙橋鐵郎さんにとっても『転機』になったのは間違いない。
調査の結果は『このプロジェクト進めるべし』という結論になって、
市場開発プロジェクト室』が出来て、その室長を髙橋鐵郎さんが技術本部長と兼任されることになるのである。
そして『お前も来い』ということになって、
私も企画室から異動になったのである。

その後、髙橋鐵郎さんは技術本部長から、営業本部長・事業部長となられて、その後ずっとと言ってもいいほど、私とのコンビでの展開が続くのである。

これはずっと後の1990年代、
髙橋さんが川崎重工の副社長におなりになる直前まで、
高橋さんが社長を兼務され、私が専務を務めたのだが、

その最初が『市場開発プロジェクト室』でのコンビだったのである。

   
 

 
そういう意味では『青野ヶ原モトクロス』は単なるレースの優勝だけではなくて、
カワサキの二輪事業に大きな転機をもたらした出来事だったと言えるのである。

 

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旧いカワサキの創生期の写真から  1

2020-12-05 07:20:47 | カワサキ単車の昔話

★ コロナで閑なものだから、旧い日記などを見たりして時間つぶしをしているのだが、

 こんな写真が出てきた。
 昭和38年(1963)5月、青野ヶ原モトクロスでの1位から6位まで
 カワサキが独占したレースの優勝記念撮影なのである。


  


 このレースに関係したのは製造部と営業部で、
 この写真では神武事業部長を真ん中にまさに記念撮影となっている。

 ただ、このレース出場は正規のレース活動などではなくて、
 製造部の有志のメンバーが出場を決めて、それを営業部の有志が支援したもので、
 市販車B8のレーサーに改造作業も、正規の仕事が終わってから
 サービス残業で創り上げたものなのである。

 優勝など思ってもいなかったはずだが、このような結果になったのは、
 『神様が援けて下さった』のだと思うのである。


★ なぜそんなことを知っているのかと言うと、
 当時私は営業部にいて小野助治次長の下にいたのだが、
 営業部でもこのレースを支援した張本人が小野次長なのである。
 
    小野さんはこのレース活動に、かって野球部のマネージャーをしていた
 川合寿一さんにチームの面倒を見るように指示し、
 私には『残業料もなしにやっているので、パンでも買う金を出してやれ』との指示があって、
 私は営業の経費の中から幾らかの『パン代』を支援したので知っているのである。
 因みに『川合寿一』さんは私の係で私の下にいた人なのである。


 製造部でこのチームの指揮を採られたのが中村治道さんで、
 その下に髙橋鐵さん、実際にマネージされたのは川崎芳夫さんだと思う。

 上の写真を拡大したものだが、この3人の名前が書かれている。
 髙橋鐵郎さんの右隣りが川合寿一さんなのである。

   



★このレースのホントの仕掛け人は、社内の方ではなくて
 間違いなくこの方兵庫メグロの西海義治社長なのである。

    

 
    西海さんは元オートレースのプロライダーで、レースにかけては玄人、
 当時の兵庫県のMFJ支部長もされていたのである。

 このレースをやるきっかけは、昭和37年(1962年)11月3、4日の両日、鈴鹿サーキットで第1回全日本選手権ロードレースが開催され、 
日本では初の本格的ロードレースだったのだが、
このレースをバスを仕立てて、製造部のメンバーが見学に行ったのである。

この企画を仕組んだのも西海さんで、中村治道さん以下、
レースを観人たちは、『燃え上がって』しまったのである。
 
青野ヶ原』はそれから半年後なのだが、
当時のカワサキにはレーサーのノウハウなどなかったので、
西海さんは子飼いの『松尾勇』さんをカワサキに送り込んで、
松尾さんが独りで創り上げたものなのである。


★それにしても、レース初出場のカワサキが『1位から6位までを独占』するような快挙は、ライダーも社内の人たちだし、
実力ではなく『雨のお陰』だったと言っていい。

当日のレース場はこの写真のように水溜りだらけで、
他メーカーのマシンはみんな水を被って止まってしまったのだが、
防水対策が完全だったカワサキだけが止まらずに完走した結果なのである。
長いカワサキのレースの中でも1位から6位まで独占はこのレースが最初で最後なのである。

ご存じ、山本隆さんなども当時はまだ他メーカーのマシンで参加してたようだが、
やはり水で止まってしまったようである。

   

 
何はともあれ、こんな結果が『カワサキの二輪事業』の本格的な再建に繋がったのである。

 中村治道さんについては、あまり語られていないが、
 当時のカワサキの二輪事業の先頭を走った方であることは間違いない。
 年次は髙橋鐵郎さんよりもちょっと上で、
 その後、私が事務局を務めた『レース運営委員会』に於いても
 実質的に『旗を振られた』方なのである。

 明石の出身で明石高校の先輩・後輩にもなるので私は特に面倒を見て頂いたのだが、
 兎に角『あんなに熱心で迫力のある』人はいないと言っていい。
 当時の日曜日にあったレースの結果を、正門の横に張りだせと言う指示を受けたのだが、
 月曜日に来て火曜日の朝に張りだしたら、ご機嫌が悪いのである。
月曜日の朝になぜ張らんのか』と仰るのである。

それは・・・』と言ってたら『では俺がやる』と言われて、
日曜日に家でご自分で書かれて、月曜日の朝早く張り出されたりするものだから、
私がやります』とその後は日曜日に家で書いて、
 朝早く正門の横に張り出すようになったりしたのである。

 当時のカワサキの単車事業部を支えた人たちは、
 不思議なほどユニークな人たちが揃っていたと思う。

 何度もご紹介している写真だが、
 この最前列にお座りの方が単車事業を引っ張ったと言っていい。
 真ん中にお座りの方が『兵庫メグロの西海さん』でその左は元川重山田副社長、右が髙橋鐵郎さん(元川重副社長)。
 山田さんのヨコが『松尾勇』さんである。
 そして右から二人目、大槻幸雄さんと並んでるのが『中村治道』さんなのである。

 2列目は左から岡部・金谷・平井・田崎(元川重社長)古谷・安良岡・和田・山本・清原・大西と錚々たるメンバーが並んでいる。
 最後尾の右端が星野一義で梅津と並んでいる。

 3列目以降の左側は現役諸君だが、宗和・多田などの顔を見えるし
 ごく最近までカワサキのレースを引っ張った安井君などもいる。
 

  



 今回は主としてレースの話に限定したのだが、これら写真に載ってる方とは
 『レース以外』の実務でもいろいろとお付き合いがあったので
 次回に、そんな旧いカワサキの話を纏めてみたいと思っている。


  
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サッカーのへデイング禁止

2020-12-04 07:20:53 | 発想$感想
★ 『世の中どんどん変わるなと思う
 アメリカの子供たちのサッカーで『ヘディングが禁止』だなどとは全然知らなかった。

 孫たちはそのアメリカで子どもの頃からサッカーをしながら育ったのだが、
それはヘディングが禁止になる2016年以前だった。

 記事によると、

『米国では、2005年頃から、脳震盪を繰り返してきた元プロアメリカンフットボール選手たちが、深刻な後遺症に悩まされていることが明らかになった。2010年代には元選手らがNFLを相手取り、補償を求めてきた。』のがスタートで、
『米サッカー協会は、2016年に10歳以下のヘディング禁止は、米サッカー協会のユース代表チームとMLS傘下のユースアカデミーなどで適用され、それ以外の各組織では推奨されるにとどまっていたが、全米各地の多くの協会やリーグもこれに追随し、10歳以下のヘディングを禁止とするところが増えている。』




★サッカー発祥の地英国でも『ヘディング禁止』が広がっているという。
 そんなニュースが流れた。




サッカーの母国が施策を打ち出したことで、日本でもヘディングの安全性の議論が進みそうだという。
「日本でも基準があれば、安心する」
日本の小学生年代のサッカークラブでは、ヘディングの弊害は大した関心事ではないようだとも書かれていた。


★サッカーの試合から『ヘディング』がなくなるということはないようだが、
 大人のサッカーでも『ヘディングの衝撃』は相当なもののようである。

 


そういう意味では大相撲の立ち合いなども『危ないのかな』と思ったりする。




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三木山森林公園の山の中を歩いてきた

2020-12-03 06:49:11 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★昨日は水曜日、ジムに行くことにしてる日なのだが、
朝いろいろやってたら9時半過ぎになってしまった。

ジムに行くと『8名の満杯状態なのでお待ちいただけますか?』と仰る。
コロナ対策で『8名以上は入れない』ことになってるので、
ジムは諦めて、隣の三木山森林公園を歩くことにした。

 
駐車場に車を止めて、青い線のように森の中を歩いたのだが、
このサイズでは歩いたところが全部は入らない。





 ひと廻りサイズを変えてみるとこうなる。
森の中の外周を通って、もみじ谷を下って、
更に南側の一番険しい山の中を歩いてきた。




 
   Fitbit の記録では
 『10400歩、7,43km、アクテイブタイムが1時間半
 『消費カロリーが 1400cal 』と出たのはびっくりだった。





 これならジムに行くよりは、よほどハードな内容となった。

 どんなところなのか?
 最初の外周の山道の写真はないのだが、
 『もみじ谷』を下るところからは写真も撮ってきたのでご紹介してみよう。


 いつもは登る『もみじ谷』だが、今回は下りである。
 


 何かちょっといつもと感じが違う。



 地面に落ちた種子から小さなもみじがいっぱい生えていた。
 『もみじ谷』はそんな自生のもみじが主なのだが、




 新しくこんな苗木も植えられていた。



 
表の広場に出て



 小さな流れに沿って歩いた。



 こんな溜まりもあってなかなかいい。



 
この広場には人影も見えるが、山の中ではたまに人に出会うだけである。




 それからもう一度南の方の山道に入った。
 この道は狭く勾配も厳しい。




 殆ど人も通らない細く険しい道が続く。
 勾配がきついので、上り下りの階段 が続いたりする。

       


    こんなキツイ階段を降りてきたら、写真を撮る手も震えたのか、
 こんなにブレてしまっている。
       



 道路わきにはこんな小さな標識が所々にあって、事務所への電話番号の表示がある。



ホントに足でもくじいて動けなくなったら、
殆ど人も通らないので事故になる可能性もある。



 
こんな険しい山道が約600メートル続くのである。
このルートは滅多に通らない、多分1年ぶりだと思う。

毎日のようにこの公園に来られている方も、
多分通ったこのない険しい道なのである。


やっとこんな標識があって、普通の周回路に出る。
今までの細い山道は『遊歩道』なのである。



 ここからはこんな一般の周回路になり『ピクニック広場』に通じている。




ここが『ピクニック広場
山の中に突然広場が現れて、花壇などもある。
 
   
   


ここまでは遊歩道を通らなくても
普通の広い周回路を通れば200メートルほどの距離なのだが、





 下りもその道を通らずに、
 こんな細い遊歩道を下ってきた。



 流石に、ちょっと疲れて昼寝をしたりしたのだが、
 こんな山道を7キロ歩けるのは、『結構な体力』だと我ながらそう思う。



 


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