雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

ウソみたいなホントの話

2021-12-17 06:41:21 | 発想$感想

★ 昨年度のニューイヤー駅伝を制した富士通が、
 その優勝旗が所在不明になっていると発表したという「ウソみたいな話」がニュースに流れた。

 その記事によると、
次回大会に向けて返還準備を始めた先月下旬に判明したという
都内の本社事務所内にケースに入れて保管していて、
6月までは社内にあったのは確認できてるという。




    



富士通によると、
優勝旗は元日のレース直後、開催地の群馬県から東京・汐留の本社に配送
社内で保管していたが、6月に社内のレイアウト変更で優勝旗を管理していた部署を別の階に移動しており、
荷物の運搬作業のなかで誤って廃棄した可能性もあるのだという。


優勝旗を飾っていなかったようだから、
若し箱になど入っていたら、そんなに大きなものにはならないだろうし、
特に目立つわけでもないので、
事務所移動の「ドサクサ」に紛れて捨ててしまったという可能性は否定できない。

事務所の移動の際の物品整理など、いろんな人が当たるので、
優勝旗への関心」など特別にはナイので捨ててしまったのではないかと思う。
盗難」などと記事にあったが、それは可能性は薄いのではないだろうか。


  



★ 大会は文字通り1月1日だから、
 時間もないし改めて新しい旗を創ることもできないようである。
 主催者は「特に大会参加への支障はありませんし、
ペナルティーなどもありません。
ただ表彰式で優勝チームへ渡せる旗がないということです」
 と回答したと言う。

来年以降はどうするのか、従来通りの旗でいいのか、
 それとも時代に合ったものにするのか、現時点では保留です。
 富士通さんの意向も含めて、今後の対応を考えたい」とか。

 主催者は、そんなに慌てた様子もないし、
 主催者がミスしたわけではないのだから、
 確かに特別困るわけでもない。
 大会の運営そのものには何の問題もないのである。

 果たして結果は、どうなるのか?

 来年の「ニューイヤー駅伝」はこんなニュースのお陰で、
 注目度は上がるかも知れない。

 主催者にとっては「話題になるほうがいい」のかも知れない。


 
 
 
 
 
 
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私のアーカイブス・定年後  その8

2021-12-16 06:59:29 | 自分史

2008年は75歳、今から13年前のことなのだが、
 若し日記やブログがなかったら、
 その年に何をやってたかなど「全く解らない

 何となくいろいろと覚えてはいるのだが、
 若い時代と違って、その「あとさき」は全然覚えてはいないのである。
 そういう意味では、日記を書いていたり、ブログをやったりして
 その記録が正確に残っているのは有難いことである。


★ この年は「ミニSL]で始まって「ミニSL」で終わった年とも言えるのである。
 鉄道マニアの福井昇くんから私に
神戸臨港線を復活できないか」というトンでもない話が舞い込んだのだが月半ばのことで、
これは流石に実現の可能性はないがミニSL」なら何とかなるのではと、
川崎重工業会長田崎さんにその話を持ち込んだのが1月末だった。

田崎さんはすぐ動いてくれて、
翌日神戸副市長メリケンパーク広場をお借りできないかと申し込んだら、
すぐOKになったのが始まりなのである。
メリケンパークとは、カワサキワールドのすぐ前のこんな広場なのである。


 
 
 

そして、11月にはこんな「ミニSL」の走行会が実現したのである。
ミニSLに跨ってるのは「言い出しべえーの福井昇くん」である。

 


 ひょんなことから始まった「ミニSL」だが、
 スタート当時は私も田崎さんも参加して「ミニSL」楽しんでいる。


 


 
 そして「ミニ鉄道フェスタい in 神戸メリケンパーク」と銘打った
 カワサキのイベントとして定着しているのである。
 
 
  


 ほんとにひょんなことから、ひょんなことになるものである。


★ 振り返って調べてみたら2008年はこんな年なのである。
  何だかイベントが続いていて

  三木市役所の若いメンバーや、三木の登山さん、新井さん、草間さんなど
  それに山本隆さんなども加わって、
  こんな三木のこどもたちとの「どこ竹の竹とんぼ教室」を
  三木山森林公園で開催したのもこの年の4月のことなのである。

  「どこ竹の竹とんぼ雑感日記」 と画像検索すると
  こんな写真がいっぱい現れるのである。
  そして、それがこの年の4月だったことも解るのである。


  



 あの肥後守の永尾元佑さんもまだお元気で、特別参加して頂いたのも懐かしい。
 このイベントのお陰で、地元三木のいろんな方たちと出会うことになって、
 私にとっては「新しい世界」に出会ったと言っていいのである。



   
 




★ 若いころには、毎日のように会っていた山本隆クンだが、
 その後ずっと疎遠になっていたのを、
 何故かこの年から、また頻繁に会うことになった。

 名阪スポーツランドであったモトクロスにも誘われて
 一緒に出掛けているのだが、
 
 こんな人たちに出会って、VIP待遇でこんな特等席でレースを見ることが出来たのである。
 現役時代から何かと関係のあった名古屋の「斎藤昇さん」とは
 直接お会いしたのはこれが最後になってしまったのである。


    

 
★ 夏にはアメリカに行った娘が遊びに来て
 7・8月と2か月も滞在している

 次男の真也が小学6年生哲也が2年生の頃だが、
 2年生の哲也は6年生と変わらぬくらい大きいのである。

 



 樋渡啓祐武雄市長に頂いた「がばいばあちゃん」の大人のシャツが気に入って、
 このシャツはボロボロになるまで着続けたのである。
 

  

   
  
 そんな3兄弟も13年経つとこんなに成長するのである。
    ひときわい大きいのが末弟・門野哲也なのだが、
 何故、一人だけこんなに大きくなったのだろう?
 突然変異だとしか、思えない。

 上の二人が小さく見えるが、これが普通なのである。
 


 



    こんな15年前の2008年、私は75歳だったのである。

 孫たちは見違えるほど変わっているのに、
 私はさほど変わってはいないのである。

 
 
 
 















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父の絵 と 私の年賀状 と 孫の絵    雑感

2021-12-15 06:25:34 | 発想$感想

★ 師走である。
 かっては12月は年賀状を書くのに結構大変だった。
 1枚1枚手書きで書いていたので、時間も手間も掛ったのである。

 別に習字など習たことはないのだが、字を書くことは嫌いではなかった。
 橋本関雪に、は関雪の父・橋本海関に習ったというのが自慢だった。
 橋本海関は明石の出で長寿院にはその墓もある。
 我が家とは「遠い親戚筋」だとは聞いていたが詳しくは解らない。
 
「嘉永五年、明石藩士の家に生まれる。
 父方は剣術師範、母方は儒家の系統という出自もあり、文武に励んで藩校敬義館や維新後は兵庫県師範学校の教師を歴任、
 晩年は明石に居を定めた」というから父はその頃書を習ったのかも知れない。
「現代では息子の関雪のほうが有名であるが、
 当時は海外にも知られるほどの名士であった海関は書画にも深い味わいのある作品が多く、
 播州一円の旧家に多く遺されている。」などとある。

 戦災でみんな焼けてしまったが、関雪の絵も海関の書もいっぱいあったのだが、今は一つも残っていない。
 剣術師範とあるが、ひょっとして明石松平藩の剣道指南番をしていたという
 曾祖父「古谷満平」のことかも知れない。
 阪神大震災で潰れてしまったが、長寿院にその墓はあった。


 「素雪」が父の号で、はないがそのは残っている。

 
 
  





★ そんな父の血を引いているのか、
 絵は兎も角、は何となく好きである。

 こんな年賀状を、毎年100枚出していたので、
 12月はなかなか大変だったのである。


   




★ 以前は11月末から12月上旬は猛烈に忙しい毎日を何十年も過ごしていた。
毎年出していた100枚の年賀状を書き上げるのが大変だったのである。
そんな年賀状を出さなくなったのは、2014年に母を亡くして、
印刷した喪中はがき』を発送したものだから、
それで「手書きの年賀状」が途切れてしまったのである。

 実はそれまでは、 個人的に『印刷した葉書』を発送したことはなかったのである。
 「転勤時の連絡・挨拶状」などもすべて自筆で書いていたのだが、 
喪中はがき』の発送で『私なりのやり方が途絶えてしまった』ので、
 今までの仕来りも途絶えて『やる気』を失ってしまったのだと思う。


★ それは兎も角、世の中で「年賀状」を出す方の推移はこんなことのようである。
 この表を見る限り、年賀状が始まったのは戦後のことなのである。
 昨今は、ネットの発達もあって急激に低下している。
 

 

 

★どんどん減ってしまうこんな状況を見ると、
 時間もできたし、90歳になる年には、
 「手書きの毛筆の年賀状」を再開してみようかなと思ったりする。

 1枚1枚相手の方に対して文章の違ったものを出すのは結構な労度で、
 再開するにはそれなりの覚悟みたいなものが要るのだが、
 若し、90歳も生きていたら希少価値もあるだろう。
 来年は、「翌年90歳を迎える」年末になるので、
 「手書きの毛筆の年賀状」を再開しようかと思ったりしているのである。
 果たして、どんなことになるのだろうか?

 
 それはそうと、アメリカの孫・門野真也
 絵が好きで、こんな絵を毎日アップしている。
 

  
 
  
  何となく、血を引いているのだろうか?

   
 
 
 





 
 
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渋野日向子 米女子ツアーの出場権を獲得

2021-12-14 07:25:51 | 発想$感想


★昨今の女子ゴルフのレベルは凄いなと思う。
    男子ゴルフよりは世界的なレベルは上かなと思う。
 
 世界のトップレベルのアメリカツアー出場の資格を取る予選会にも
 古江彩佳、渋野日向子が出場し、ともに来シーズンの出場権を獲得したというニュースが流れた。

 渋野日向子は前の日に大きくスコアを落としたたが
 29位から巻き返しを図って通算10アンダーの20位となり、
 来シーズンの出場権を獲得したという。

 アメリカで活躍する日本の女子プロゴルファーは、
 畑岡奈紗・横峯さくら・上原彩子・野村敏京・河本結・山口すず夏と6人もいるのだが、
 来シーズンは新たにこの二人が加わることになるので楽しみである。


 



★2人のツアーメンバーデビューは、最速なら来年1月末に米フロリダ州で行われるゲインブリッジLPGAとなるとかで、
来季は11月に日本で行われるTOTOジャパンクラシックを含む34試合が予定されているようだ。

 私は何となく渋野日向子を応援しているが、
 彼女の持つ「さわやかさ」がいいと思っている。





 
 世間一般にも人気があるのだろう。
 ネットの中には「渋野日向子速報」なるものがあって、
 プレー当日はスタートからラウンドごとのスコアや写真が刻々とアップされるのである。


★ 女子プロオルファーの「美人かわいいランキング」というのがいろいろあるのだが
 「渋野日向子」が2位に入っているランキングもあって、
 2位とは残念だなと思うが、
 そのほかのランキングでも常に上位にランクされている。

 


 それは兎も角、来シーズンはアメリカの女子ツアーが楽しみで、
 出場者が8人にもなると、優勝のチャンスも増えるだろう。

 アメリカの女子ゴルフでは、お隣の国韓国の選手が活躍しているが、
 来シーズンは、日本選手もぜひ頑張ってほしいと思っている。

 とりわけ「渋野日向子の優勝」に期待したい。

 
 
 
 
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男の髪型  雑感

2021-12-13 06:55:20 | 発想$感想

★いつの時代にもその時々の流行の髪型はあるのだと思うが、

 昨今のテレビなどで男の髪型を見ていると、
 だんだんと「女性の髪型」に近くなっているような気がする。





 私の年代はあの石原慎太郎・裕次郎兄弟の頃で、
 慎太郎が一つ上。裕次郎が一つ下なのである。

 その頃、いろいろと言われたのが「慎太郎刈り」である。


 

  

 

 私自身は、あまり「髪型」などには拘らなかったように思うが、
 学生時代は「スポーツ刈り」とも言われた、GIカットに近いアタマで


    

  
 入社したころもそんなアタマだったが、
 「髪は伸ばせ」と注意されたりしたのである。


★コロナ時代になって、若年男性の間でコスメブームも続いているそうで、
 男性化粧品の「マンダムの社長の話」が載っていた。


  


「コロナ禍前は、ほとんどの男性は鏡越しに自分の髪や顔を大雑把に見る程度だったと思います。
ところが、オンライン会議が普及したことで、パソコンやスマホの画面越しに映る顔のシワやシミ、ニキビなどが気になってケアする人が増え、
新たなスキンケアマーケットが出てきました。
メンズサロンに行く方も増え、総じて清潔感への意識が高い若年男性が増えています。」と語っている。

★ 昨今は整髪料など使う機会はほとんどないが

  こんな商品もマンダムのようだから、
  私もかってはお世話になったことはある。


 



  マンダムとは昔の「丹頂」だったらしい。
 「丹頂チック」など懐かしいが、
 今の若い方は、「チック」など解らないのかも知れない。


  

 
 男の髪型」など溯れば神代の昔から延々とその歴史はあるのだが、

  もうこんな昔の髪型に帰ることはないだろう。


  


 ★ 私自身は幸いにして、まだ髪はあるのだが、
 今年は一度散髪屋に行っただけで、
 前のほうは自分でカットし、後ろは伸ばし放題にしている。
 生涯で今が一番、長くなっているかも知れない。
 ただ無精なだけで髪型などに拘っている訳ではない。

  
 
 


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「株式会社 斎藤祐樹」への ラブ・レター

2021-12-12 07:11:43 | 発想$感想

日ハムを引退した斎藤佑樹が「株式会社・斎藤佑樹」を立ち上げるというニュースが流れた。

 高校生時代の「斎藤佑樹」くんは兎も角
プロ選手になってからの「斎藤佑樹」にはそんなに関心もなかったのだが、
株式会社・斎藤佑樹」はソフト会社であることから、
 非常に関心をもって昨日あたりから、いろいろとチェックしているのである。

 既にこんなホームページが立ち上がっていて
 
 
 こんなページが現れるのだが

 




   「ぜひ何かご一緒に。ご依頼はこちらへ 」とあって、
 
  こんなお問い合わせページもあったので
 どんなことになるかはよく解らないのだが
 私なりの「一文」をお送りしたのだが、
 果たして、返事など頂けるのだろうか?

     



★「株式会社・斎藤佑樹」ではざっとこんなことを考えているらしい。

 このような記述があった。

  
野球未来づくり。
この度、会社を立ち上げてこれからのキャリアをスタートさせることにしました。
同時に今日12月10日18時からホームページも開設しました。
 考えたのは引退を決めてからなので、正直、まだまだ決まりきっていない部分がたくさんありますし、これから社会勉強していきたいなと思っています。

野球人生のなかで感じてきた問題意識のようなものがいくつもあるので、それに対してなんらかできることがないかを考えて、カタチにしていきたいと思っています。
●野球をする選手やスタッフの働きやすさだったり。
●野球を見る人たちがもっと楽しめる場づくりだったり。
●怪我と向き合うときのメンタルの管理だったり。
●野球をする小中高生の育成だったり。
●選手のセカンドキャリアだったり。
地域との関係性だったり。
それらをより良くするためのアイデアを、さまざまな分野の人や企業の方々と組むことで見つけて、実現していくことを目指しています。



 これを読む限り間違いなく「ソフト会社」である。
 私自身は川崎重工業の二輪部門に40年勤務したのだが、
 最後の10年は国内販売を担当して、
 その時最も力を入れたのが「ソフト会社ケイ・スポーツシステム」だったし、
 定年後も NPO法人 The Good Times を立ち上げて
 いろんな活動をやってきた。

  


★ 私のブログの中に、
  こんな「重工業の中のソフト会社」という一文がある。


 ちょっと読み返してみたがざっとこのように書いている。

 89年2月ごろ『遊びやスポーツの事業化するソフト会社』の設立に熱心に取り組んでいた。
カワサキのバイクは通勤や通学など単なる移動手段にも使うが、
大型スポーツ車が主体なので,ツーリングやレース活動など遊びの要素は大きかった。

単にハードを売るだけでなく、それをどのように使って遊ぶのか
そのノウハウの提供や遊ぶ場所の提供などソフトの分野が重要な部分であった。
そんなソフトを専門に考えそれを事業化する会社の創立を目論んだのである。
この年の4月1日付けで新会社はスタートした。
今、手元に数値資料があるが、初年度から2,3億、2年目には4億、
3年目は5,6億、4年目は7,3億円と順調に推移している。
ベースになったKAZEの会員も2000人からスタートして、最盛期5万人までになったのである。

この年会費だけでも億の単位になった。
そこで得たソフトのノウハウはこれは知識として身についている。
販売は無理なく自然に売れる仕組みを造ることが第一で、一生懸命売ろうとしてもダメだと思っている。
遊んでいて自然に売れるそんな仕組みに乗っかっていれば楽しいのである。


★ 「株式会社・斎藤佑樹」はソフト会社でその扱う対象は、
 バイクではなく野球なのだが、私自身も中学・高校・大学と野球一筋だったから、
 野球に関する「ノウハウ」は人並み以上にはあると自負している。

 「野球のソフト化」はこれはバイク以上に底辺が広いし、
 このソフト会社は間違いなく「成功する可能性大」である。
 大学卒業後、プロ野球ではライバル田中に大きく水をあけられたが、
 世間でもまだ珍しいこの「野球のソフト会社」では斎藤佑樹クンは、
 世の中の注目を集めて、トップランナーとして走ることが可能だと思う。

 そんなことで、88歳のおじんが経験した「ソフト会社のノウハウ」や
私の情報発信システム」、さらには私のツイッターの「50万人のフォロワーなどを上手にお使いになればいい。
ツイッターの「50万人のフォロワー」の数はちょっとした「地方新聞」と同じだから「情報発信力」としては相当なものだと思う。
 
 Kawasaki. Let The Good Times Roll!
 カワサキにお会いになる方がハッピーになるような活動を続けますという
 カワサキのミッションのように、

 Furuya. Let The Good Times roll !
   私にお会いになる方が「グッド・タイム」になればいい。
 これは NPO The Good Times の基本コンセプトなのである。


★ 斎藤佑樹さんのホームぺージにあるお問い合わせフォームですでにご連絡し
 「明日の雑感日記」に「株式会社・斎藤佑樹」のことを書くので、
 ぜひ「ご覧になってみて下さい」と送ってあるのだが、

 果たして、斎藤佑樹くん、ご覧になるだろうか?
 こんなふとしたことが、人の繋がりのチャンスであり、
 その人の持っている「」みたいなものだと思っている。 

 私は88歳のおじんだが、することだけは現役時代と同じく早いのである。
 12月10日18時からホームページはオープンしたというから、
 多分間違いなく「私の一文」は届いているはずである。

 このブログは12月12日の朝には発信される。
 お問い合わせには次のように書かれている。

 「お問い合わせいただき、誠にありがとうございました。
 内容を確認させていただいた上で、おってこちらからご連絡いたします。」

 とあるのだが、「追って」というのはいつになるのだろうか?
 「ソフト会社」などある意味「時間の勝負」みたいなところがある。
 野球選手らしく「投げたボールはすぐ打ち返して欲しい」ものである。

    先ほど私のメールに返信はあった。
 
 「株式会社斎藤佑樹に、WEBサイトから以下のお問い合わせをいただきました。 おってご連絡いたしますので、しばらくお待ちください。」
 とあるから、間違いなく届いてはいるのだが、ご本人が見ての返信ではないようにも思う。
 ただ、届いていることは間違いないのである。


 以上が、私が送った「株式会社・斎藤佑樹」へのラブ・レターなのである。


 
 

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膝は痛くはなくなったが・・・

2021-12-11 06:58:47 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 突然膝が痛くなって歩けなくなり、病院に診てもらいに行ったのは、
 12月6日だったので、1週間経ったことになる。

 病院に行ったときは、
 骨に異常がないかということと
 歩くことが出来なかったので松葉杖を借りたいという2点だった。

 それに対しての診断は
 骨には異常がない
 「日にち薬」だからじっくりあせらずにということで、
 松葉杖もお借りすることが出来たのだが、
 そのほかに1点、特に詳しい説明もなく足のサポーターをしていただいて
 「立ちやすいだろう」ということだった。


 


 
 一般のサポーターと違って足首から太ももまでなので、
 このサポーターをすると足は固定されて膝は曲がらなくなる。
 確かに足は確りするのだが、
 ずっと「つけているのか」・「歩くときだけなのか」など聞いてくるのを忘れていて、
 「膝の痛さ」は取れたのだが、どうすればいいのか解らないので
 つけたり、外したりしている。


 ネットで「膝のサポーター」と検索すると
 こんなサポーターが現れるが、
 膝が曲がらないようなサポーターは出てこない。






 「膝は温める方がいい」とはあるのでしていた方がいいのかも知れない。

 松葉杖は重宝している。
 もう「歩ける」のかも知れないが、痛みがぶり返しても困るし、
 動くときは松葉杖のお世話になっている。
 使い方にも慣れて結構スムースに動けている。


  

 
 
 次回の診察は16日(木)なのであと4日ほどあるのだが、
 それまで この大層なサポーターを付ける生活が続くのだろう。

 前回、アップした時はホントに沢山の方から
 お見舞いと励ましを頂いたのだが、
 1週間経って、自分では「順調な回復」だと思っている。

 外での運動はできないので、
 家の中で「ストレッチ」と「パンダ碁」ばかりを打っている毎日が続いていて、
 昨日あたりからバイシクルもやっている。

 多分、松葉杖がなくても歩けるようになったとは思うのだが、
 またバシッと来て痛みがぶり返してもと思うので、
 こんな大層なサポーターを付けて、今日も松葉杖で家の中を歩くことになるのだろう。

 次回の先生の診断の時には、もう少しいろいろと
 聞いてみようと、メモ書きなど作って書き込んでいる。
 

 
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私のアーカイブス・定年後  その7

2021-12-10 06:32:15 | 自分史

★ 2007年74歳のこの1年を日記を見ながら、時系列でちょっと追っかけてみる。


● TomとLove この年で12年目になる柴のつがいがいたのだが、
 この年の元旦のブログはこの「Tom &Love」で始まっている。




  
 まだ、写真の貼り付けなどは、とてもできなかったのだが
 この元旦にこんな写真が載っているのは、自分でやったのではなくて
 正月にやってきていた孫・古谷仁がやってくれたのである。

 
● 前年度から三木の市政のお手伝いみたいなことをやりだしているのだが、
 市長とばかり話してても面白くないので、
 「若手を集めてくれますか」とお願いしたら、16人ほど集まった。
 そんな若手たちとそれ以来、いろいろなことを始めている。
 今思うと私も「若かったな」と思ったりする。
 この日が2月1日だった。


● 4月22日には三木アネックスパークであった「ビンテージMX
 かっての日本のトップライダー荒井市次と山本隆が現役さながらのデッド・ヒートを見せてくれた。
 TOPライダーは歳をとっても流石である。


 



● 「カワサキの岩崎茂樹のことを書いたブログ」に
 熱心なカワサキファンの登山道夫 さんがコメントされて繋がったのだが、
 登山さんの緑ヶ丘のお宅を訪ねたのがこの年の5月14日なのである。
 これが登山さんとの親密なお付き合いの始まりで、う14年にもなるのである。


● 前回アップしたった武雄市長の樋渡啓祐さんとは「武雄市長物語」というブログで繋がって、
 お互いのブロブの中で繋がっていたのだが、三木市と武雄市が業務提携をすることになって、
 樋渡さんが三木にお越しになったのが5月21日なのである。

 



● 定年後始めた薔薇はこの時期は至って熱心で、
 これは義弟が写してくれた写真の一部だが6月にはこんなに咲いていた。

  


 



● ゴルフもまだ40台は普通に回れていて
 6月22日三木市のシルバーコンペでは優勝はできなかったが
 44・39=83で断トツのベスグロ賞を頂いている。

 多分これが私の最後の30台の記録だろうと思う。

● 夏から秋にかけては家内はアメリカの娘のところに出掛けるのが、毎年定例化していて、
 この年は8月13日~9月20日まで、その間私は独身生活なのである。

● 私もこの年は10月に息子が北海道に「サケ釣り」に行こうと
 誘ってくれて久しぶりの北海道だった。
 息子が小学生時代は私がフナ釣りなど引っ張りまわしたのだが、
 息子は釣りにハマってしまっているのである。

● この年あたりはネットでは兵庫県のポータルサイト「ひょこむ」に加入して、
 熱心にメンバーを集めて活動している。
 今は全然ご無沙汰で、ログインの仕方も忘れてしまったが、
 日記には「ひょこむ」のことがいっぱい出てくるのである。


  



● 11月14日、13年近くいた 愛犬Tomが死んでしまった。
  晩年は元気がなくなって可哀そうだったが、
  娘の長男が生まれた年に家に来たのだが12年間、
  殆ど毎朝散歩をしていたトモダチだったのに、
  Love1匹になってしまったのである。


● 大阪府知事に橋下徹さんがなるということで
 「橋下徹さん」のことを追っかけだしたのがこの年の12月のことなのである。



★ ざっとこんな1年だった。
  今までは学校時代の友人とそれ以外はカワサキのそれも二輪の世界の方たちとのお付き合いが中心だったのだが、
 この年あたりから、初めて普通一般の社会の方たちとのお付き合いが始まったと言っていい。

 それも三木市長さんを中心にした三木市役所の若手諸君
 三木市民の方とのお付き合いも始まったし、
 カワサキZの熱烈なファンの登山道男さんとも出会って、
 私にとっては74歳にして、初めて「新しい世界」に入ったと言ってもいい。

 全くの運動部育ちだから、
 私の対外的な対応の基本世の中の職位などには関係なく、
年上の方」にはそれなりの敬意を、「年下の方」には思いやりをもって「気安くという徹底したものだったのである。

 一般社会の方との初めての対応が「三木市長」と「武雄市長」という社会的な肩書としては大変な方だたのだが、
 後輩であることは間違いないので、今まで通りで対応したのだが、
 それは結構そのままで通ったのである。

 幸いにして、それ以降今までのお付き合いも
 殆どの方が、私よりはお若いので「気安く対応」することが出来て助かっている。
 逆に若い方から見ると88歳のおじんは「とっつきにくい」と思われるかも知れぬが、
 どなたとでも「気安く喋ることが出来る」のは特技なので、
 若い方たちとの対応も、自分では「大丈夫」だと思っているのである。
 
 こんな私にとっては「新しい世界」に入って行ったとも言える1年だったが、
 日常生活ブログ薔薇ストレッチ&散歩とたまにゴルフ
 といった1年だったのである。
 
 
 
 

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「ネット関係のトモダチ」に感謝

2021-12-09 06:11:24 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram

★ 私は結構データー管理というか、
 「物事の記録」は好きで、日記も60年以上続いているし、
 私なりにいろんなことを記録しているのだが、

 人生の中で「出会った人」は数えきれないほど多いのだが、

 私自身は「密接な繋がりのあった方」を年代別にこんな風に纏めたりしているのだが、その数は意外に少なくて159人」なのである。
 


 家族・親戚                 33人
 昭和20年代   中学・高校        15人
 昭和30年代   大学・入社当時      12人
 昭和40年代   販社出向時        35人
 昭和50年代   東南アジア・企画     28人
 昭和60年代   KMJ時代の10年      6人
 定年後                   32人

   合計                 159人


 約160人なのだが、多いと思われますか?
 それとも少ないと思われるのでしょうか?

 
皆さん方は今まで、何人ぐらいの方と「密接な繋がり」があったのでしょうか?
 私自身は二輪関係で業界の方や、販売店・ユーザーなどとも関係があったので、
 お会いして話をしたり、知っている方は多分、普通一般の方より多いのだと思うのだが、
 本当に「密接な関係で繋がってる方」は意外に少なくなってしまうのである。



★ これは極く最近のゴルフコンペに集まった仲間なので、
 勿論、全員の方と面識があるのだが、ゴルフ以外で密接な関係があった人
 というのは10数人に減ってしまうのである。

 


 
 そんなこともあって、
 私の記録の中には「忘備禄」なるものがあって
 上記のように「年代別に密接に関係のあった人たち」を纏めているのだが、
 ご紹介するとこんなことになっていて、
 赤字になってるのはもう亡くなった方なのである。


 昭和30年代というと川崎航空機に入社当時だが、
 その頃密接に関係のあった方は殆どがなくなってしまっている。
 昭和40年代広告宣伝課でレース担当だったので有名人も多いし、
 今もFacebookで繋がってる方も多いのである。

 


 昭和50年代以降が現役時代の後半だが、
 ここに名前が挙がっている方たちも、もっと以前から知ってはいるのだが、
 この方たちとこの時期、いろんな関係で密接に繋がっているのである。

 


これは定年後出会った方でいろいろと関係のあった人たちだが、
多くはFacebook のトモダチなので、お分かり頂ける方も多いだろう。

 

 個人名を具体的に上げたので多いようにも見えるが、
 90年近く生きてきて、160人ぐらいの方たちしかいないのである。
 それも定年後「ネット」をやりかけて出会った人が30人以上もいるので、
 若しネットをやらなかったら、本当に少なくなってしまうのである。




★ なぜ 突然こんなことを書き出したのかと言うと
 「膝をやられて歩けなくなった怪我」に対して
 Facebook のトモダチ・約160人からお見舞いと励ましの言葉などを頂いたのだが、

● 現役時代からお付き合いのある方はたった10人ほどで
● 現役後の方が約150人と圧倒的なのだが、
● そのうち面識のある方は約50人で、
● 殆どは「ネット上でのお付き合い方たち」なのである。 
 
 こうしてみると人間関係というのは、いろいろと面白い。
 160人の方々からお見舞かと励ましのメッセージを頂いたし、
 毎日、50人以上の方から「いいね」を頂いているのである。

 それは現役時代にいろんな関係のあった方たちの数に匹敵するほどの数で、
 そしてそれは、定年後の生活を豊かなものにして頂いている要素なのである。

 そういう意味で「ネット関係のトモダチ」に感謝なのである。
 


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12月8日    雑感

2021-12-08 07:30:28 | 発想$感想

80年前の12月8日は昭和16年(1941年)で、
 私は今の韓国ソウルにいて、当時は韓国は日本だった。
 京城桜が丘国民学校の2年生だったのだが、こんなニュースが何度も流れたのをよく覚えている。

「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。
 大本営陸海軍部、十二月八日午前六時発表。
 帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。」

 日本海軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃
 また、その1時間以上前には日本陸軍がイギリス領マレー半島に奇襲上陸し、
 日本はアジアや太平洋の各地でいっせいに軍事行動を開始し、
 3年9か月におよぶ太平洋戦争の始まりだったのである。


  


 新聞はこのように報じている。
 当時の新聞は右から左へ書かれている。


 


 テレビなどは勿論なかったので、もっぱら「ラジオ放送」だった。
 大東亜戦争開戦のニュースは繰り返し放送されたことはよく覚えている。
 

★小学生だったが、昭和20年8月15日に終戦を迎えた時は
 中学1年生だったから、小学生時代はまさに戦時中だったのだが、
 この約4年間は最初は勝ち戦だったので、内地も何の問題もなく
 夏冬の休みには明石に帰省していたので、
 当時の日本の神戸・明石などはよく覚えている。

 負け戦に転じて、関釜連絡船が潜水艦にやられてからは内地には戻っていないが、
 当時の朝鮮・京城(今のソウル)は何の問題もなく食糧事情もよかったし、
 「戦時中」というだけで普通の生活が続いていたのである。

 12月8日は、そんな太平洋戦争の開戦日なのだが、
 開戦の詔書では、宣戦布告の相手はアメリカ、イギリスの2カ国なのに、
終戦の8月15日に玉音放送で流れた終戦の詔書ではアメリカ、イギリス、中華民国、ソ連の4カ国が当事国なのは、
中国とは支那事変からすでに戦争状態にあり、
ソ連は1945年(昭和20年)8月8日に日本に宣戦布告しているので、開戦の詔書と終戦の詔書では当事国の数が異なるのだそうである。

 閑だから、いろいろネットで調べるのだが、この頃は何でもよく解るので、
 当時のことを思いだすにも重宝している。

★ 昭和16年の12月8日は大東亜戦争開戦の日なのだが、
 昭和20年(1945)は終戦になって、
 その12月8日は朝鮮から日本に引き揚げてきた日なのである。

 この日を境に、私の一家の状況は戦前・戦後で一変するのだが、
 そんな極端な変化を、私自身は結構「楽しんでいた」節もあるのだが、
 父母にとっては「大変な変化」であったのは間違いない。
 12月8日は、そんな節目の日でもある。
 
 中学1年生だったから、その時の状況をよく覚えているのだが、
 明石の駅前あたりも様変わりして、文字通り焼野原だったのである。
 ネットで探すと、こんな写真も出てくる。

  

 
 引き揚げ先だった、明石の本家も爆弾と焼夷弾にやられて
 跡形もなかったのである。
 
 そんな12月8日なのだが、
 今は本当に平和な日々が続いていて
 戦争当事国であった「鬼畜・米英」と非常にいい関係なのである。

 80年も経つと、世の中変わるものである。
 そんな劇的な変化の時代を生きることが出来て、
 いろんな経験が出来て「よかったな」と思っている。


 
 
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大変だと思ったことがない

2021-12-07 07:25:56 | 私の生き方、考え方&意見

★ 昨日「歩けなくなってしまったが・・・」というブログをアップしたら、
 ほんとに沢山の方から、お見舞いや励ましのコメントを頂いた。
 
 いろいろと本当に有難うございます。
 改めて、お礼を申し上げたいと思います。

 88歳の人生の中で、一般には「大変だ」と思うことを何回も経験してはいるのだが、
 当の本人はそれを「大変だ」と思ったことはホントに一度もないのである。
 今回も、ひょっとして「足の手術」ぐらいはあるかな?と思っていたのだが
 「骨に異常なし」ということでラッキーだったと思うし、
 あまり経験できない「松葉杖」が経験出来て、
 「よかったな」というのは変だが、それに近い受け止め方なのである。

 「松葉杖」の歩き方がこの月末にはどのくらい「スムース」になるかが、
 楽しみなのである。

 



★ これは私の「いい加減な・太平楽な」性格から来ていて、
 ほんとに悩んだりはしないし
 何事も「ラッキーな面」はあるので、
 それを真っ向からそのように「いいほうに考える」ので
 悩んだリすることは全くないのである。

 以前にも書いたが、会社でやった性格テストで、
 「飛び抜けて異常」だったのは、
 「反省しない」ということだったのである。

 今回もこのようになった原因は解っていて、
 「毎日1万歩」を目指した11月初めごろの実績が、
 ちょっと「やりすぎ」だったのは間違いないのだが、


  
 
  足が痛くなったのは、11月23日からなのである。
  然し少なくとも「2週間」は「1万歩スロー・ジョッギングできたという
  実績のほうが「気に入っている」ようなところがある。
  そのあたりが「反省しない性格」なのである。

  多分、こんな性格は死ぬまで治らないのだと思っている。


 
 

  

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歩けなくなってしまったが・・・・ 

2021-12-06 15:38:01 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★先日来、右ひざが痛くて病院で診てもらっていたのだが、
 昨日の午後、立とうとした拍子に右ひざが「ガクッと」きて、
 それ以降痛くて歩けなくなってしまったのである。

 右ひざの内側あたりだが、じっとしていると何ともないのだが、
 外見はこのように何の問題もないし屈伸も大丈夫なのである。
 ただ、体重が掛かると痛くて歩くことが出来なくなってしまったのである。


  


 
 椅子に座ったらパソコンもできるし問題ないのだが、
 兎に角「歩けない」ので、家の中は這いまわって動いていた。

 病院に行くにもどうしようもないので、
 救急車で運んでもらえるかと、「119」に電話して聞いてみたら、
大丈夫です」と朝九時に救急車がやってきて、玄関から救急車まで運んで貰って、
 かかりつけの三木山陽病院まで行ってきたのである。


  


 救急車で行ったので、MRIも予約なしにやって頂いたのだが、
 予約なしに飛び入りなので、それ以降は普通の飛び入りのお客と同じ扱いで、
 時間は結構かかったので、昼めしも病院の食堂で食ってきた。


 

  
 午後にあった先生の診断は、骨には異常がないので大丈夫だが、
 靭帯をちょっとやられているのでと
 右足は動かないようにとこんな風に固定されてしまったのである。


 
 


 車椅子に乗ったのも初めてだし


  

 
 
  松葉杖も勿論、初めてである。
  松葉杖は借用だが、新品を貸していただいた。


  



 
 こんな松葉杖のトレーニング教室みたいなところがあって、
 松葉杖の使い方をいろいろと教えて貰って、その実技もやってきた。





 

 松葉杖で先に前に出すのは、「いいほうの足」だと思っていたが、
 それは逆で、「悪いほうの足」からなのである。
 階段の上るときだけが「いいほうの足」からで
 降りるときは、先に松葉杖をついて「悪いほうの足」からなのである。

 慣れるとすぐ覚えるのだろうが、
 初めてやることは、なかなか覚えるのがムツカシイ。

 ただ、練習中は「非常によろしい」と褒めて頂いた。
 高齢者に教えるのは、なかなか大変なそうである。


★ ただ今回の「足の故障」はちょっとやり過ぎて、
 「おかしいな」と思った時期が11月ごろにあったのだが、
 その時、ちょっと緩めておけばこんなことにはなっていないのである。

 「自信」が「過信」にならないように、歳を考えないとと思った。
 今回は3週間ほど、足を延ばしたまま固定しておけば、
 「日にち薬」で治るだろうと先生は仰るのである。

 そんなことで、今年いっぱいはちょっと大人しくしておこうかと思っている。
 骨に異常でもあるのかと心配していたが、それは大丈夫ということで、
 一安心なのである。

 朝9時に救急車で病院に、
 10時過ぎにMR室に入って、先生の診断は午後、
 そのあと松葉杖の講習などをやって、
 病院にタクシーを呼んでもらって帰宅したのが3時。
 まさに半日仕事で、帰宅してこのブログをアップしたらm
 3時40分なのである。


  
 
 

 
 




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私のアーカイブス・定年後  その6

2021-12-05 07:07:34 | 自分史

2006年という73歳になったこの年は私の定年後の生活が一変した年だと言えるだろう。

この年の9月6日からこのブログ・雑感日記はスタートしているのである。
定年後に「パソコン」に出会ったのが2001年だから5年ほど経っているのだが、
それまでは「パンダ碁」などを楽しむか、ネット散策をやるくらいで、
自ら発信などはしなかったのである。

★この年に新しく藪本吉秀さんが三木市長に当選されて、
 それまでは三木の市政などには全く関心もなく、
 市長の名前も知らないくらいだったので、選挙にも行っていないのだが、
 この新人の藪本吉秀さんの選挙運動の手段広報的に面白かったので、
 ちょっと関心が出来て、メールが打てるようになったものだから、
 三木の市政に関して「市長メール」を打ち出したのである。
 
 やりかけると、一般の方とは全く差別化されていて、
 50通近い提言を続けてやったら、それを市長は受け入れて頂いて、
 市役所で実際に面談するようなことにもなったのである。
 いろんな提言をしているのだが

 「日本一美しいまちをめざそう」がその最たるもので、


 



 翌年の三木市総合計画の中で設定され、今も生きているのである。






★ 私がこのような提言をしたのは
 兵庫県は永年「美しい兵庫」を目指していて、
 その推進委員会もあるのだが、
 兵庫県の各市でそれをフォローしているところがないものだから、

 

 
 兵庫県の職員から三木市長になられた藪本さんは
 是非「美しい三木」の実現を目標にと申し上げたのである。
 

★そんな三木市への提言を考えるために、
 日本のいろんな市のホームページなどを見ていたのだが、
 ひときわ特徴のあった市が「高槻市」で
 そのホームページには「こちら部長室」というユニークなコラムがあって 
 それを主宰されていたのは総務省から高槻市に出向されていた、
 市長公室長の樋渡啓祐さんだったのである。

 その中に樋渡さんの書かれた「ブログ・ブログ・ブログ」というのがあって、
 これに非常に興味・関心をもって調べてみたら
 当時はまだ「ブログ」など発信されている方は極く限られていて、
 政治家では自民党の広報本部長だった世耕弘成さんぐらいで、
 世耕さんはボストン大学でを学ばれているし、
 樋渡さん広報には特に関心があるようなので、
 広報には特に関心のある私も「ブログ」なるものをやってみるかと、
 その年の9月6日にこのブログ雑感日記を立ち上げて
 その最初に取り上げたテーマは「美しい」なのである。
 


★そんなことで始めた私の「ブログ」なのだが
 樋渡啓祐さんとは面識もなく、
 ただ高槻市のホームぺージで、出会っただけなのである。
 今は樋渡さんは超有名人のお一人だが、
 当時は特に名前が売れていたわけでもなく、
 私が勝手に「この人はオモシロい」と気に入っただけなのである。

 そんなことで始めた私のブログの11月20日に
 「市長公室長樋渡啓祐さんのこと」というこんなブログをアップしたのだが


そのブログに当のご本人の樋渡啓祐さんからこんな「コメント」が入ったのである。


感謝 (樋渡啓祐)2006-11-24 22:11:26
文中の前・高槻市市長公室長の樋渡啓祐です。
今日、グーグルの配信メールで、「雑感日記」のことを知りました。
私も、挙げていただいた二つの記事は今でもお気に入りですし、
今では市長という立場から、同僚職員に同じことを伝達しています。
そのためには自分自身が書いた記事そのものでなければならず、自戒しながら頑張っております。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。ありがとうございました。 


コメントなども初めてのことで、舞い上がってしまって返事も打てていないのである。

 総務省にお帰りになったとばかり思っていた樋渡さんは、
 その年から佐賀県武雄市の市長になっておられたのである。


★そんなことから、この年定初めて出会ったお二人が、
 奇しくも三木と武雄の市長さんで、
 この年から始めたブログとともに私の定年後の生活が一変するのである。

 その後も樋渡さんとはブログの中でお互い繋がって、
 三木市と武雄市も繋がったりして、
 翌年5月21日、三木市に来られた樋渡啓祐さんと直接お会いしたりしているのである。

 これはその頃、樋渡さんが書かれていたブログの中の写真で、
 15年も前のことだから、
 樋渡さんもまだまだお若かった「日本一若い市長」の頃なのである。
 
  

 
 私にとってはまだ有名人でもなかった頃の「樋渡啓祐」さんを
 この年、自分の目で見つけ出したのが自慢なのである。
 それ以上に「樋渡さんのお陰」で始めたブログも15年続いていて、

 その閲覧数や訪問数は1000万単位100万単位になっていて

 「トータル閲覧数=12774766PV」延べ1277万人がご覧になり
 「トータル訪問数=3577278UU357万人が訪れているのである。

 これは自分でもびっくりする信じられないような数字だが
 ネットの世界は勝手にこのようにちゃんと記録してくれて、
 毎日その数を教えてくれるのである。


★人生ではいろんな方との出会いがあるのだが、
 樋渡啓祐さんとの出会いが一番劇的で、
 この出会いのお陰で私の73歳以降の人生はそれまでとは
 異質の世界で、且つ充実したものになったのは間違いないのである。
 2006年はそんな節目になった忘れられない1年だったのである。
 
 
 

  


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カワサキバイクマガジン新年号

2021-12-04 06:48:11 | カワサキ単車の昔話

★先日取材を受けたカワサキバイクマガジンの新年号が送られてきた。
 今回は「川重事変」と称して
 カワサキの単車の創成期の出来事から現在までを繋いだ内容になっている。





 それはこんな内容になっていて、
 私の知っている仲間たちもいっぱい登場する。


 


 そんな中で、特に個人的に親しく今もお付き合いのある方も沢山登場するので、
 ご紹介をしてみよう。

 まずは山田浩平さん、今はニンジャH2Rの開発者として有名だが




  若いころは X11 の開発担当をしていて、
 そのころサーキットなどいろいろ面倒をみたので、
 そんなことからのご縁である。

  

 今でもFacebook の友達で「いいね」など頂いている。
 ここでは二輪開発について彼独特の熱い想いを語っている。


 百合草三佐雄さんも登場する。
 若いころ250ccA1の開発やレースなども担当したのだが、
 ここでは、もっと若いころの「メグロとの関係」を語っている。


 


 私も百合草さんがメグロ工場に出張していたなど、初めて知ったのである。

 
    メグロから来た北見紀生さんも登場する。
 北見さんは私が東京営業所の所長を兼務してた時のサービス工場長だった。
 その頃から独特の個性で面白かった人である。


 

 
 こんな写真も載っていたが、
 このトラックの後ろに立っているのは、
 間違いなく、当時の神戸営業所の営業だった「渡部達也」さんである。


 


 旧い写真では、もっと旧い旧明発時代の「平井稔男」さんの
 若いころである。

 
  


  お二人とも、今でもお付き合いが続いている仲間たちなのだが、
 当時はこんなに若かったのである。

 因みに、平井稔男さんは、私と同い年で、
 カワサキの国内営業の最古参であることは間違いないのである。


★ 取材を受けた「私の関係」の記事も6ページに亘っていて、
 結構、詳しく昔のことが語られているので、

 ご関心のある方はぜひお読みになればと思う。
 
 



  SPA直入のことにも触れられているし、
    


 
30年前の私の担当時代に創られた、KAZEについては
 2ページに亘っての記事となっている。
 

    


  
 これは大阪の特約店制度の記事の中で使われている
 当時はまだ「伊藤モータース」と称してた現在の「株・忍者」の展示会風景と
 当時のお店の写真なのである。
 

 



 旧い写真と言えば、
 これは間違いなく昭和35年(1960)当時の60年も前の写真だが、
 明石工場も建物など少なかった時代に、テストコースだけは作られていたのである。

 「単車製造準備室」は昭和34年頃の話で、
 私も入社3年目ぐらいだったのだが、資材の方に熱心に誘われたのだが、
 当時は財産物件の減価償却のIBM化に取り組んでいる最中でお断りしたのを思いだす。
 


 


 私が新設された「単車営業課」に異動したのは昭和36年11月のことなのである。
 当時はまだ明発を引き継いだ「カワサキ自動車販売」が国内市場を担当していた時代で、そのメンバーの殆どが明発とメグロの方たちで
 社長・専務だけが川崎航空機工業籍だった時代で、
 新設された単車営業課はその「カワサキ自動車販」に出荷・販売していたのである。

 その時代の営業を語れるのも、ホントに私だけになってしまったのである。


 
 

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三木山陽病院に行ってきた

2021-12-03 06:56:59 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★「三木山陽病院」何度かこのブログでもアップしている。

 最初はずっとずっと以前のことだが101歳の母がお世話になったし、
 家内も足の骨折で入院したし、
 私も白内障の手術などでもお世話になったりしている。

 

 
 家からは10分は掛からないから便利だということもあるのだが、
一番気に入ってる」のは先生をはじめ従業員の方が、
親切で、気安く、親しみ易い」のである。
 前回は眼科に来たのだが、今回は「整形外科」なのである。
 
 何故か11月ごろから、朝スロー・スロージョッギングの時に異常を感じていたのだが、
 20日過ぎから痛くなったので、町医者に行って「痛み止め」と
 「筋肉を柔らかく」する薬を貰って飲んでるのだが、もう一つすっきりしないのである。

★そんなことで昨日は三木山陽病院に久しぶりに行ってきた。

 予約がない飛び入りだから、時間が係るのが嫌で
 9時からなのだが8時過ぎに病院に着いたら、
 流石に人は少ないというか、殆どいなかった。

 

 
 受付番号は「2番」だったが、
1番」の人がいるから、もっと早く来られているのである。
受付時間8時5分」とある。

  

 
 
 8時半には係の方から「飛び入りの患者」に対しては「問診」があり、
 病状について詳しく聞かれるのである。

 9時から診察が時始まったが、当然予約のある方が先だが、
 始まってすぐレントゲンを撮るように言われて、戻ってきたら、
 何人かのあと「飛び入りの患者」では一番に診て頂いたののである
 診察室に入ったのは9時40分ぐらいだった。
 

★ この外科のお医者さんに診て頂くのは、確か2度目だが、
 「外科の先生」は大きな手術などもおやりになるからだと思うが、
 ちょっと「膝が痛い」などは、病気のうちに入らぬのかも知れない。
 レントゲン写真を何枚か撮ったのだが、
 それを見ながら「骨には異常がない」ので「大したことはない」とという診断なのである。
 診断が豪快で、今飲んでる薬を持って行ったのだが、
 こんなのは「気休め」みたいなものだから「飲んでも飲まなくてもいい」と仰るのである。
ちょっと痛い」と言っても「大したことはない」と言われるので、
 そう言われると患者としては「一安心」の気分になるから不思議である。
 「足の筋肉もあるし、めちゃ若いな」と言って頂いて、気分をよくしたのである。

 ただ、最後には「次8日の日にMRIを撮って詳しく診ましょう」と
 言われて8日にMRIを撮り
 15日にその診断を受けることとなった。

 毎日やってる運動やジムは「続けたほうがいい」と仰るのである。
 よく解らぬが、これくらいの痛みは「やりながら」でも治るのかも知れない。

 そんなことで、病院には行ったが気分よく戻ってきたのである


 
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