林 住 記

寝言 うわごと のようなもの

母の浴衣

2016-10-31 | 遠い雲

色が褪せたもの。
柄や形が古過ぎるもの。
形が崩れたもの。

等々夏物を捨てることにした。
生来のケチを改めることにしたのは、寒くなってきたのにまだ足に難があり、秋冬物を奥の方から取り出せないからである。

この赤い縞柄シャツは何と半世紀前の勝負服だった。
河川敷で行われたバレーボール大会に初めて着て行ったのを覚えている。勝負以前だったけどね。

派手な柄のアロハシャツは......ちっとも覚えていない。

半袖ワイシャツはいつか着るだろうと大切にしまっておいたが、この20年間、着たことがなかったなぁ。

母が使った浴衣が2枚。
元気な頃、時々やってきて1週間程度滞在し、寝巻にしていたものである。

吹割りの滝から錦綾なす奥日光へ。赤い草津に黄色の志賀高原。雄大な赤城山から箱庭の榛名山へ.........。
八ヶ岳高原に連れて行き、洒落たロッジに泊まったこともあった。

母の浴衣を捨てるほうに分けるのは、少ししょっぱい感じがした。
なに、遅かれ早かれまた会えるけれど.......。

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鎌倉自慢

2016-09-16 | 遠い雲

森生は、鎌倉生まれの鎌倉育ちであります。
会社勤めを始めて以来、出身地が話題になるたびに「鎌倉っていいところだねぇ!」と羨ましがられた。
正直いい気分で、その時だけ低い鼻が少し高くなったものだ。


そのためだろうか、この前しゃもじぃに友だちを紹介され、すっかり打ち解け、故郷の話題になった。
森生はさらりと「鎌倉生まれの鎌倉育ちで、先祖代々の墓も、まだ鎌倉にありますよ」と。
しゃもじぃの友だちは予想どおり「おや、いい街のご出身で」と言い、更に続けた。

  実はね、うちの娘が鎌倉に嫁いでるんです。

  ほぅ、鎌倉ねぇ。鎌倉のどこですか?

  鎌倉市城廻(しろめぐり)です。

  へっ、城廻? あちらは鎌倉じゃありません。戦国時代に玉縄城があり、鎌倉郡玉縄村城廻。草深~い田舎でした。
  今は新興住宅地かもしれませんが、鎌倉市の辺境です。藤沢市の外れに接してるんじゃないですか?

  そうだ、思い出した。誰もがひもじかった小学生の時、同級生全員で、あの辺に行ったことがあります。
  へとへとに歩き疲れて、大きな農家に辿り着き、味噌と野菜を頂いた。
  小学校に戻ってきて、先生が味噌汁にしました。

  あの時の味噌汁は、塩辛かったなぁ........。

  今でも思い出しますよ、あはははは。

結果はもちろん、しら~っ。

生まれ育ちは鎌倉といっても、実は北鎌倉です。
JRの駅名が北鎌倉なので、山ノ内という本来の地名より、今では北鎌倉の方が通っている。
元は鎌倉郡小坂村山ノ内。生まれ育った頃は大船町山ノ内。その後鎌倉市に合併された。

町内には建長・圓覚寺の大寺院を筆頭に、有名なところでは浄智・東慶寺や明月院がある。
木々が鬱蒼と茂る街道沿いの古い町には、東京から疎開してきた、著名な作家・芸術家・学者が多かったようだ。

だが、旧鎌倉市内の旧家の人からすれば、

  北鎌倉? ふんっ、長い巨福呂坂のむこう側じゃんか、片腹痛いや。

だったろうけど、鎌倉旧市内の住民の殆どは、戦中戦後のドサクサ新住民なので、そんな差別を受けた記憶はない。
それどころか、森生の祖母の昔話では、

  昔はね、急な巨福呂坂を越えて、雪ノ下や西御門からは農家が野菜を、由比ヶ浜からは漁師が魚を売りに来たものさ。
  今、女学校がある裏山には狐が棲んでいて、夕方になると、鳴き声が聞こえてきたけどね。

ということで、鎌倉よりも北鎌倉の方がホンモノの鎌倉なんだ、と刷り込まれていたのである。

この度「京都嫌い」を読み、洛外で育った井上章一先生の、洛中の京都人に対する憤懣を知った。
そしてしゃもじぃのお友だちには、大変な失礼をしたことに気付いた。
城廻はきっといいところでしょう。間違いなく鎌倉市内です。ごめんなさいね。

上の写真は北鎌倉女子学園(同校HPより)
下はGW時の北鎌倉駅と円覚寺前の雑踏(絵的生活さまから拝借)
そして豊島屋の鳩サブレ。

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風鈴

2016-08-26 | 遠い雲

この蒸し暑さにはもううんざりであります。
いっそのこと、エアコンと心中したいくらいだ。

70年前の夏の暑さは、今よりずっと穏やかだったと思う。
子供の頃の暑さ対策は、団扇、打ち水、風鈴、冷奴くらいしかなかった。
風鈴は古い道具箱に何個もあり、吊り下げる短冊を新しくするのは、森生少年の仕事だった。

硝子製の風鈴は彩りは良いが音がリンとせず、やっちゃ場のおばさんの声のようなカリカリ音で、いまいち。
風鈴はやっぱり南部鉄器など金属製の方が音が澄んでいて、涼し気ですね。

我が家は隣家と離れていたので、風鈴は掛け放しだったが、夜になったら取り外すものだ、と聞いたことがある。
リンリンと鳴り続けるのは、安眠妨害になるそうなのだ。
昔の夜は静かで、庶民は奥床しかった。

我が猫額亭にも風鈴はあった。
およそ20年前にエアコンを設置して以来、吊り下げたことがない。

硝子風鈴の写真はcanonEOSカタログから。
下は市内にある或る医師邸の庭園です。

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押しくらまんじゅう

2016-01-15 | 遠い雲

そういうことで「日向ぼっこ」の「ぼっこ」については一応納得した。
そうすると次に湧き上がる疑問は「押しくらまんじゅう」の「くら」である。
しかしこれは古い電子辞書で直ぐ分かった。

先ず「おしくら」と入力しただけで、

  ①おしくらべ【押し競べ】②おしくらまんじゅう【押し競饅頭】

と出た。そして②の意味は、

  多人数がぎっしり寄り集まって、互いに押しくらべをする遊戯。

となった。
ぁるほどね。「較べる」は「競べる」とも書くのだったのか。

森生が小学生の頃は、冬の朝は登校しても直ぐには教室に入らなかった。

木造校舎の窓の下で、先ず日向ぼっこをする。
次に「押し競饅頭」で暖かくなってから、けん玉や馬乗りで遊んだものである。

教室に暖房は無く、教科書もまだ無かった。
勉強は算盤の練習くらいしかしなかった。

それでも百近くまで、何の支障もなく、生きてるのである。

現代の小学生も、塾通いなんてすることはない。
よく遊びよく遊べ、だよ

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兎追いしかの山

2015-12-01 | 遠い雲

   

小坂小学校の合同同窓会で貰った卒業者名簿に、ヤマダ君の名前がない。
それもそのはず、ヤマダ君は3年生くらいでアメリカンスクールに転校した。転校の理由はおそらくイジメ。

はきだめの鶴のように目立ったヤマダくんは、農村地帯の悪ガキたちに「アイノコ・アイノコ」と囃されていた。
ヤマダくんのお母さんは銀髪のドイツ人で、日本語はペラペラ。町の人とも気さくに付き合ってはいたが、町っ子森生たちは敬遠していた。

森生の両親は「あのヤマダさんのご主人は偉い学者だそうだよ」と言っていた。
ソフト帽を冠り黒いスーツ姿のお父さんは、外国人のように見えた。

覚えていた名前でお父さんをネット検索してみたら、ぞろっと出て来た。
確かに偉い人だった。お父さんはドイツに留学した西洋美術史家で、国立西洋美術館の館長だったこともある。
現代ならハーフとして持て囃されるだろうヤマダ君は、その後どこでどうしているのだろうか。早く生まれ過ぎたようだ。

検索結果を1件ずつ確かめていたら、何と、森生が探していた「兎追いしかの山」の写真が見つかった▲
森生はこの邸宅ができた2年後に生まれ、小学校に入る頃はこの谷戸へ遊びに来る度に「ヘンな家だなぁ」と思っていた。
隣の、塀も生垣もない広い庭の奥にある、絵本のような「Y邸」の方に憧れていた。

写真には写っていないが、この2軒の手前にはホンダ君の家があった。
ホンダくんちへ遊びに行った時、お父さんから「きちんと挨拶をしなさいっ」と叱られて、縮み上がったことをまだ覚えている。
ホンダ君は5年生の頃、引っ越していった。

   

森生たちの遊び場はこの周囲の山林や原っぱで、女学校の裏から葛原岡神社を抜け、銭洗い弁天までが行動範囲だった。
山の向こう側は東慶寺と浄智寺。見えないが、門前の県道の向こう側は北鎌倉駅と円覚寺を抱いた六国見山である。

昭和30年代の北鎌倉には、こんな風景がまだいくらでも残っていたと思う。

ホンダ君とは高校で再開。運動靴を貸したらお返しは水虫。どうして治したかは別の記事にします。
旧山田邸の
写真は「まちもり通信」さまから拝借しました。

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原節子連想

2015-11-29 | 遠い雲

あの「永遠の処女」原節子が95歳で亡くなっていたことが分かった。

原節子といえば小津安二郎監督であり、森生は、鎌倉を舞台にした小津映画を何本も見ているが、退屈だった。
登場人物の台詞がわざとらしく、嫌いだった。鎌倉原住民は、あんな気取った話し方はしていなかったのである。
原節子は綺麗で、気品があった。ただ、お行儀が良過ぎ神々しいほどで、さほど好きにはならなかった。
それでも、森生が生まれ育った北鎌倉が舞台だったから、小津映画を見たのである。

小津の映画はつまらなかったが、稲垣浩監督作品で原節子最後の出演作「ふんどし医者」は、流石に良くできていて面白かった。
だが、賭博好きで貞淑な妻という役は、相手が芸達者な森繁久彌にしても、原節子には少し気の毒だった。

原節子死去の報道はマスコミに溢れた。朝日新聞は1面に始まりこの数日で天声人語w含め6本も記事を載せた。

中でも27日付け朝刊の文化文芸頁に載った、映画評論家・蓮見重彦氏による追悼文は、原節子の魅力の解説にもなっており、胸を打った。
森生が小津映画の原節子を好きにはなれなかったのは、まだ人生経験が足りない若造だった所為だろう。
この追悼文を読み、数々の報道に接し、もう一度小津作品を見直せば、原節子への思いが変わるかもしれない。
そして成瀬己喜男作品の「山の音」や、黒澤明監督の「白痴」を是非観てみたい。

42歳で引退し、以後鎌倉に隠棲。マスコミを避け通したのは立派である。
小津安二郎との間に何があったのだろうか。TVで誰かが言っていたが、誠に「秘すれば花」である。

懐かしい、当時の北鎌倉風景を画像検索してみたけれど、徒労だった。
故郷の風景は、小津映画にしか残っていないのだろう。

   

始めの写真は現在の北鎌倉駅手前風景です。以前は線路に沿って素掘りの狭いトンネルがありました。
左手のくぼみには、中国洞門風の赤いトンネルがあり「好々亭」への近道でしたが、戦中戦後は弾薬庫になり、MPが歩哨に立っておりました。
写真は「日本女子プロ将棋協会・天河戦」さまのブログから拝借しました。

下のモノクロ写真は昭和24年当時の北鎌倉駅下りホームです。
映画「晩春」からの写真で、「人生楽しくガンバロー」さまから拝借しました。
現在は屋根が延び、広告看板と自販機がずらりと並んでおります。

安立清史オフィシャルサイト」さまには、最近の北鎌倉風景があり、赤い洞門も載ってます。

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あの子はいま

2015-11-19 | 遠い雲

小学校の合同同窓会で貰った名簿を繰り返し眺めている。
連絡先不明が多く、死亡もかなりある。
名前すら載っていない子もいる。
そろそろ百近くもなれば、仕方がないことですかね。

キヨミさんは来ていなかった。名簿に名前もないとは悲しいね。
竹久夢二が描いた美少女のように、目がぱっちりとし、胃下垂気味の姿勢で、いつも寂しそうに教室の片隅にいる女の子だった。
台峯の生き字引として、新住民にもてもてのイタちゃんによると、聖路加病院の創立者一族だそうだが、本当だろうか。
確かに丘の上の邸宅街から通学していて、土着民の子が多い同級生からは無視されていた。でも森生ちゃんはね.......。

ブンコは、森生の高校時代の同級生と結婚していた。
お洒落で目立つ子で、流石に白髪になってはいたが、綺麗なおばぁさんになっていた。
でも森生は覚えている。全員整列させられた挙句、アメリカの差し金でDDTを頭からぶっかけられ、べそをかいてたことを。
あのブンコがあいつのヨメになってたとはなぁ。

向こう隣の広い邸に住むご令嬢のシゲコさんが来ていた。
椿組だったこともあり、桃組の森生は口をきいたことはなかった。

ただ、時々聞こえてくるピアノの音に、森生はこっそり耳を傾けていたんだよ。

原住民の森生一家は、東京から疎開してきたシゲコさんちとは付き合わなかった。
祭礼の寄付金を集金する父は、どちらかというと嫌ってたようだ。
しかし母は晩年になって、シゲコさんのお母さんと、団体旅行に何度も参加して楽しんでいた、とシゲコさんは教えてくれた。
ありがとうね。

隣のショウちゃんは博打が原因の借金で、小学校に入るまで女の子として育ったアグリちゃんは不摂生が祟り、二人とも大分前に死んだそうだ。

英国式石彫庭園がある薄暗い西洋館に住んでいたヒサシくんは、中学生になって精神に変調を来して施設に入り、そのまま亡くなったらしい。

雲頂庵の真下にいたシンちゃんは、七里ヶ浜へ引っ越したそうだが、体調不良で不参加だった。
会いたかった。

マンザイくんは、大企業の相談役のような、驚くほど品のいい老紳士に脱皮していた。
家の近くの銭湯も、チンドン屋になって客寄せをした衣料品屋の「デブヤ」も、今は無いそうだ。

蓄音機で「ドナウ川のさざ波」を初めて聞かせてくれたヤマちゃんはどこへ行ったんだろう。
お父さんは北鎌倉か鎌倉駅の駅長だったと思う。

貰った名簿は桜組が欠落してたりして不完全なもの。
だが、いくら見ていても見飽きない。
忘れてた事を次から次へと思い出し、キリがない。
今日はここまで。

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異邦人

2015-11-18 | 遠い雲

遅れて合同同窓会の会場に入った森生が本名を名乗ると、

  へーっ!驚いた。 随分変わっちゃったね、でも確かにそうだ。

  よく来たなぁ。いま、どこに住んでるの?

と多くのおじぃさんから歓迎されて嬉しかった。
ところが森生ときたら、おじぃさんたちのことを何にも思い出せない。

  ごめん、あなたは誰さ?

  やだなぁ、ほら、俺だよ。

と胸の名札を見せてくれる。

  (う~む、そういえばそういう同級生がいたっけ。だけどこのおじぃさんのあの頃は........、う~む、はてな?....弱ったなぁ

見事なハゲ頭になった代わりに、白い髭を顔いっぱいに蓄え、それなりの風格を付けたイタちゃんは直ぐ思い出した。
イタちゃんは、森生が父から相続した後、長い間新住民に悩まされた杉山のことまで知っていたが、森生はその後のイタちゃんのことを全く知らない。
成功して同窓会場の経営者になったおじぃさんは、森生一族の詳しい消息まで知っていたのに、森生は社長クンの苗字と当時の家業しか思い出せなかった。

最近、物忘れが酷い。特に直近の過去は次から次へと忘れている。
反対に昔のことはよく覚えているつもりだったが、70年も前のことになると、最早すっかり忘れているのだった。

70年前の森生は、栄養不足で虚弱体質。何事にも自信が無く、腕白坊主から苛められないように、透明人間になっていた。
だから、同窓会場でがやがやと盛り上がる話題にも、追いつけなかった。

ここに集まった幼馴染たちは、その後も住み続けていたらしく、時々交流しているようだ。
しかし森生は大卒後会社一筋。所帯を持ってからは盆と正月しか帰らず、両親の没後は寄り付かない。
懐かしい
かの山は削られて今は無く、蛍追いしかの川は蓋をされた。

そして森生は鼻が低いまま、異邦人のおじぃさんになっていた。
ふるさとは遠くにありて思ふもの、とつくずく思い知らされた合同同窓会だった。

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4姉妹の家

2015-08-10 | 遠い雲

「海街diary」を観た。いい映画だった。

父親に捨てられ、母親に去られた3姉妹に、異母妹の中学生が加わる。
海辺の街・鎌倉。姉妹の1年間の人間模様である。

4姉妹の生い立ちと、現在進行中の交友関係は相当ドロドロしている。
普通ならもっと劇的な展開にするだろう。
しかし是枝裕和監督は淡々と、裸はあるけれど、小津安二郎のような品のいい映画にした。

小津作品より面白かったのは、4姉妹が互いに相手を思いやりながらも、飾らず生きているからである。

4姉妹ほか出演者がみな芸達者なのが良かった。
特に4女の広瀬すずと、さり気なくくすっと笑わせる大伯母役の樹木希林が目立った。
それからのほほんとマイペースな3女も好きになった。

場所は鎌倉市極楽寺・腰越・七里ヶ浜界隈で、巧みに鎌倉の雰囲気をとらえている。
八幡さまや大仏など、雑踏する観光名所を外しているのが成功した。

   

生まれ育った鎌倉を離れて、そろそろ40年になる。
4姉妹の家が「祖母が遺した鎌倉の古く大きな家」とあったので、漫画が原作のこの映画に飛びついた。

実家は、関東大震災の直後に、祖父が建てた商家作りの、飾り気がない大きな家だった。
震災直後、屋根を軽くするために波型トタン板で葺き、柱や梁は太かったが、雨の日の喧しさは強烈だった。
小中高校時代の友だちが住む、瓦葺の勝者な家が羨ましかった。

古くなった家は、母が亡くなって直ぐに兄が取り壊し、賃貸駐車場にしてしまった。
4姉妹が住んでいるような家は、鎌倉にはもう殆ど無いはずである。

挿絵は沢田重隆。安西篤子著「鎌倉 海と山のある暮らし」草思社から。

大仏さまは、健康診断と補修と洗浄のため、来年1月から3月まで、拝観できません。
若宮大路の段葛も大改修するそうです。

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騒音

2015-08-05 | 遠い雲

ブログネタを探しに、中央公園で開催された夏祭りに行くつもりだったが、夕方になって忘れてしまった。
風に乗って炭坑節や太鼓の音が聞こえてくるのに、今年は全く静かだったからである。

自治会長さんによると、苦情を言ってくる住人がいるので、音が広がらないように気を使ったそうである。
盆踊りや太鼓の練習を毎晩、1ヶ月も続けられたら確かにメイワクだろうが、たった一晩くらいを我慢できないのだろうか。
耳の穴のデカイお方がおられるんですな。

そういえば去年は、ショッピングセンターの拡声器でラジオ体操の伴奏を流していたが、今年はCDプレーヤーで済ませている。
また、体操帰りのじじばばの声がうるさい、と苦情を言われたそうで、代表さんから自粛するようにと注意された。
他にも市議さんは、登下校の子どもたちの声を静かにさせろ、と通学路沿いの住人から意見があったとか。

  風に乗って流れてくる隣町の祭囃子。

  台風前の海鳴り。

  除夜の鐘に交じる船の霧笛。

  円覚寺杉森の梟の声。

いずれも子供の頃、よく聞いた懐かしい音である。あの頃、まちは今より静かだった。
時には夫婦喧嘩の声も聞こえて、社会を勉強したものだ。

いま、じじぃの耳の中で鳴く油蝉も何とかしたい騒音だが、これは加齢現象で、死ぬまで治るまい。

今日、つくつく法師のせわしない初鳴きを聞いた。
宿題・課題・問題・難題? そんなものは成り行きに任せ、もぅ忘れましょ。   

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懐かしいお土産銘菓

2015-07-09 | 遠い雲

      

朝日の土曜版に「いつでも食べたいお土産銘菓」という人気番付けがあった(6月27日)。
全国の空港のお土産品の売り上げを参考にして、絞りこんだ100品を、1800人の読者に好きなもの全て選んでもらった結果、

  1.赤福(三重県伊勢市)858票

  2.生八つ橋(京都市)  843票

  3.白い恋人(札幌市)  719票

  4.カステラ(長崎市)   708票

  5.もみじまんじゅう(広島市)632票

となっている。

三重県鳥羽市でのリゾート開発プロジェクトに携わっていた時、東京に帰ってくる度に、出張土産として「赤福」を購入した。
お隣の幼かった姫たちに度々お裾分けしている内に、「あ~ら、またお団子?」と言われてしまったが、結構喜ばれていたはずだ。
餡子は熟練女子が五十鈴川の漣を模して手作業で絡めてます、と赤福さんは言うが、殆どの赤福は機械で処理してる、と思う。

なお、お土産には無理だけど、夏限定「赤福氷」はゼッピン。当時は伊勢おかげ横丁にある本店と鳥羽駅前支店でのみ頂けました。

 噛み砕くとき、口の中を怪我しそうに堅い筒状の焼き菓子「八つ橋」の変種が「生八つ橋」になったのだろう。
歯茎がめっきり弱くなり、50歳頃から
「ナマ」専門。それから嗅覚が無くなった今、あのニッキの香りを味わえないのが残念です。
少子高齢化がこんなところにも表れているようだ。

それに「そうだっ!京都に行こう」というわけにはいかなくなったのも哀しいね。

 カステラは長崎市内ならどの店でもいいらしい。しかし、大昔の長崎しか知らないのでいいと思うのは「福砂屋」だけ。
但し、福砂屋は貧乏人がおいそれと食せるものではなく進物専用。普段はスーパーの切れっぱしカステラを食ってます。
底紙にへばりついたお焦げをこそぎ落としながら、じわじわ食してると「シアワセだなぁ」となります。



母が元気だった頃、母は早起きして鎌倉若宮大路にある豊島屋本店で、割れた「鳩サブレ」大量に買い、子どもたちに送ってくれた。
森生はこれが大好物。噛まずに舌に乗せておくと、じんわり融けてくる。原則1日1枚ずつ、1ヶ月近くも味わったものだ。

母が101歳で亡くなると、親の切れ目が縁の切れ目。実家の兄も兄嫁もそんなものには目をくれない。
西武百貨店池袋本店に並んでる割れてない鳩サブレは、味が違うような気がする。

豊島屋は、由比ヶ浜と材木座海岸の命名権を落札したが、名前はそのまま。偉い。
8位595票は残念
です。お中元にも使って下さいね。

                                            

餡ころ餅と黄粉餅が入っている、静岡市の「安倍川もち」▲16位335票も大好物ですが、これはまた別の機会に。

もう20年も、遠くへ行かないのでお土産を買わないし、近くの人から頂いたこともない。
もう、どれでもいいから、誰かお土産を持ってきて欲しいなぁ。

あ、冷茶と麦茶は去年のものが、まだ沢山残ってますからね。

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固い蓋

2015-01-26 | 遠い雲

全マスコミはイスラム国に行っちゃったけど、たかがピーナッツなのに、大韓民国は怖いなぁ。
と思ってたら、ナッツはナッツでも、マカデミアナッツだったんですね。今頃になって判明した。

これはスゴイことだ。流石大韓航空は大したもんだ。「大」が付くだけのことはある。
マカデミアナッツなら大好きだったし、いまでも関心がある。

しかし残念ながらこの数十年、マカデミアナッツにおめもじしていない。

というのも、歯茎がめっきりやわになり、ナッツ類がシッカリ噛めないのだ。
また、マカデミアナッツは特にカローリーのカタマリのようで、多分、ダイエットの大敵にちがいない
それに値段が高い。エンゲル係数を抑えておきたいし、だいいちここ埼玉県西部では売ってない。所沢西武なら売ってるだろうか。

じじぃが青年だった頃、マカデミアナッツをよく食したものだ。
天津甘栗くらいの大きさの、丸ごと塩まぶしのマカデミアナッツはハワイ産のガラス瓶入りだった。
今日日、チョコレートやクッキーに交じってるような、粉砕されたものとは大違いだった。

あの頃も結構なお値段で、ピーナッツのように気楽に食べられるナッツではなかった。
だから1回につき3粒と決め、後はシッカリと瓶の蓋をし、自分の机の引き出しにコッソリしまっておいた。
ピーナッツならともかく、マカデミアナッツを袋から出して配るのがキマリだなんて、大韓航空は豪勢だなぁ、と思った。

そうです、マカデミアナッツはピーナッツとは異なり、袋のままでお客様に提供して欲しい。
機内では大切に3粒食して、残りは袋を持ち帰り、毎日3粒ずつ、しみじみと噛みしめたいのです。
但し、瓶詰だったら蓋は開けて欲しい。乳母日傘で育ったナッツ姫や、じじぃには、瓶入りは開けられないよ。

近頃の瓶の蓋、おしなべて、固く締め付け過ぎじゃありません?

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再会

2014-10-07 | 遠い雲

今朝からラジオ体操を再開した。
流石に昨日は中止にしたそうで、雨の土曜日は参加しなかった森生は、親しくなったじぃさんたちと3日目の再会をした。
再会とは大袈裟のようだが、百近くにもなって2日会わないと、お互いに、運命がガラリと変わってるからね。

みんなは元気だった。そして、不満そうだった。
観測史上最大の雨を降らせ、316万人に避難勧告を発令させ、実際、各地に大被害をもたらした台風18号が、当地では何ともなかったのだ。
少なくとも丘の上の団地では。

  鉢を移動したり、家の周りを片付けたりしたのに、ガッカリだねぇ。

  次は19号が狙ってるそうだけど、もう何にも台風対策はしてやらないぞ。

  朝鮮半島から移住して、ここを開拓した高麗王・若光は、不動産屋みたいに土地を見る目があったんだなぁ。

  巾着田の彼岸花やコスモスはぺしゃんこかもな。それにどれみふぁ橋には流木が絡みついて、解き解すのにタイヘンかもよ。

  朝飯が済んだら、行ってみようか。

などとおじじたちは、無責任に騒がしかった。

だが、もし広島や伊豆大島のような土砂災害に遭遇したら、現在の生活の再建は全く不可能で、落ち着いて考えなくてもお先真っ暗だ。
もしそういう事態になれば、さっさと心肺を停止して、土砂に埋まっている方がラクなのかもしれない。

子どもの頃の台風襲来は、怖いながらも嬉しかった。学校は早引けになるし、家は揺れる。

  山並を越えて聞こえて来る海鳴りに惹かれ、稲村ケ崎の岸壁に砕ける大波を見物しにも行った。

  高校時代は、遠回りになる江ノ電に乗り、七里ヶ浜の荒波を眺めながら家に帰ったりもした。

  不通になった横須賀線を諦め、バスや京浜急行を乗り継いで出勤し、得意になっていた。

  同僚の狭いアパートに、泊まったこともあった。

若いってことは愚かなことだなぁ、と今頃になってつくずく思う。
湘南海岸で行方不明になった大学生サーファーを、昨日の記事でバカと書いたけれど、森生も似たようなものだった。
当時は、サーフィンのような贅沢な遊びが無かっただけが違いである。

だが、ラジオ体操に集まったじじぃたちの、台風一過の感想はどうよ。

人間百近くにもなると、お互い、子どもに返るってことだろうね。

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李香蘭の家

2014-09-16 | 遠い雲

李香蘭だった山口淑子さんが亡くなっていた。94歳だったそうだ。

彫刻家のイサム・ノグチと結婚し、愛の巣を北大路魯山人の屋敷内にある小さな藁葺屋根の家に構えたことがあった。
母から用事を言いつかり、母の里に行く時に通らなければならない、長く暗い切通しに続く竹塀の上に、古色蒼然の藁屋根が見えた。
お化けじゃあるまいし、リコーランが出てきたらどうしようと考えていたが、一度も声を聞いたり姿を見たことはなかった。

李香蘭・山口淑子で思い出すことは、あの切通しと小さな家。そして名曲・蘇州夜曲夜来香です。

その後、切り通しも魯山人邸もきれいさっぱりなくなり、市立小学校になった。
そして
魯山人が、信州の庫裏を移築したという、巨大な藁葺屋根が乗った母屋だけが、いま、笠間の日動美術館に再移築されている。

何事にも行動的な姉が、一時、父親がこの母屋を所有していた同級生に誘われて、笠間へ感傷旅行に行ってきた。
姉は「あの家あの頃のままで懐かしかった、行くといいよ」と言うけれど、森生にはとてもとても。

 

提灯風ランプシェードは、イサム・ノグチのAKARIシリーズから。
構造不況にあえいでいた岐阜の提灯業界はこのシリーズで息を吹き返したそうです。

     今朝、作詞家山口洋子さんの訃報。森生と同い年。死神が近付く足音。
     五木ひろしの「横浜たそがれ」。別の歌手が、こねくり回さず、さり気なく歌ってもらいたい。
     横浜はああいう街ではない。

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きょうは敬老かぃ?

2014-09-15 | 遠い雲

きょうは一年に一日、じじばばがちやほやされる日だった。
森生も後期高齢者に仕分けされているので、どう取り繕っても老人である。
だが、市役所から喜寿の祝い金を申請せよとの通知が大分前にあった以外に、夜が来ても、どこからも、何の音沙汰も、未だにない。
ま、仮に敬老会に招待されたって行きませんけどね。童謡やナツメロよりも「恋のフォチュンクッキー」の方が楽しいと思ふよ。

いまや、75歳以上が8人に1人。15900000人もいて、総人口の13%。別の集計で要介護高齢者は5610000人もいるそうだ。
技術の進歩には追いつけず、身体に故障が出ては役に立たず、価値観が変わって敬われず、医療費が嵩むだけ。
世の中、石を投げればじじばばに当たる。うじゃうじゃいれば大事にされないのが当たり前。
邪魔にされるのは仕方がないですなぁ。どうも申し訳ありません、ふんっ。

100歳以上の高齢者は54397人で、うち女性が47606人。100歳以上の88%も占めている。
ね、やっぱり女は強いでしょ? ニッポンの女性は、決して男に虐げられてはおりません。特に家庭は女性が支配しておりますな。
ケネディ駐日大使からガタガタ言われることはないのであります。

えーと、何の話だっけ?
そうそう、後期高齢者に指定されて2年した自分のことです。

この夏はガックリと体力と気力が落ちた。

昔は、円覚寺の大鐘から下駄を履いて100段以上もある急な石段を、カラコロガタガタさせながら駆け下りることができた。
それが今ではバスの出口で、1段ずつ1歩2歩と、足元を確かめながらヨイコラショのていたらく。
一昨日の夜は布団の中で腿の後ろが痙攣し、昨夜は右足親指爪先が突然痺れ始めた。
毎日、何が起きるか分からない未知の世界である。

と言うわけで、林住記を更新するのもよいこらしょ、であります。

数字に間違いがあればお知らせください。人数には敢えてカンマを付けません。

140915