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林 住 記

寝言 うわごと のようなもの

小津映画

2014-07-16 | 遠い雲

黒沢明・溝口健二と共に世界的に高い評価を得ている小津安二郎が残した言葉がある。

  なんでもないことは流行に従う。
  重大なことは道徳に従う。
  
芸術のことは自分に従う。

その信条を貫き、好きな赤いヤカンを多くの作品に登場させていたそうだ。
朝日新聞日曜朝刊の「小津安二郎がいた時代」という連載記事に書いてあった(7月13日)。

        

森生が若い頃は日本映画の全盛期で、鎌倉市内には映画館が4館もあった。
当時は娯楽は映画くらいしかなく、小津作品も何本か観ている。
しかし、若い者には退屈な映画でしたね。

行き遅れた娘の縁談話が、毎度お馴染みの出演者によりだらだら続く。
登場人物の「ちょいと」が多い台詞も不自然だった。
少なくとも森生の周りでは、鎌倉にあんな言葉遣いの人はいなかった。

7月6日、北鎌倉建長寺境内の小津宅の住み込み家政婦について、いい話があった▼

小津映画が退屈だったのは、森生がまだ若かったためかもしれない。
小津は生涯結婚をしなかったそうだ。
誰かこの家政婦のことを、小津美学に沿って映画にしてくれれば是非観てみたい。

鬱蒼とした木立のなかの狭い路地、屋根が付いた古い門と珊瑚樹の生垣、脆い岩盤を削り風化した切通し。
月光に輝く夜の海の大波など.......。

無くしてしまった懐かしい風景を、もう一度見たいものだ。

挿絵は安西篤子著・沢田重隆絵「鎌倉 海と山のある暮らし」草思社より。

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鎌倉は海水浴場

2014-05-22 | 遠い雲

 

鎌倉市にある3か所の海水浴場の、名前が決まった。

  由比ヶ浜海水浴場

  材木座海水浴場

  腰越海水浴場

です。
なに? ちっとも変わってないじゃないか、ですって?
はい、以前の名前をそのまま使うことにしてくれました。良かった、よかった。
これは、3海水浴場の命名権を取得した「鳩サブレーの豊島屋」さんの英断です。エライッ、拍手喝采します。

数年前から、NHKも「海水浴場」を「ビーチ」と言い換えている。
半世紀前、由比ヶ浜だったか片瀬・江の島だったか忘れたけれど、「東洋のマイアミ・ビーチ」と自称していたはずである。

近頃、何かとカタカナ名前にすることが多い中で、さすが、豊島屋さんは粋です。洒落てます。
鳩サブレーは、東京・横浜の百貨店でも売ってますから、どんどん買ってあげて下さいね。

                     

なお、「七里ヶ浜がないじゃないか」という方がおられるかと思いますが、あちらは海水浴場ではありません。
急に深くなり、波も荒いので、海水浴場には向いていません。波乗り用のトッポい海岸です。

それから、由比ガ浜と材木座を分ける滑川の河口付近も、避けた方がいい。
潮流が複雑で、だいいち生活排水が流れ込み、海水が汚いじゃありませんか。あんな場所で遊ぶ東京者の気がしれません。
 (昼間は河口手前で川を堰き止め、夜間、大腸菌を殺菌
してから海に流すようにしたけれど、今はどうしてるのかな?)
子供の頃、親からも、近所のお兄ちゃんたちからも、河口に近付くな、と
厳重に注意されておりました。

三浦・湘南海岸は、すっかり変わってしまい、もう行く気はありません。
時々、鳩サブレーを大切に大切に、一日一枚ずつ味わいながら、昔を思い出すだけです。

この報道は東京新聞でどうぞ。

写真は1950年刊・岩波写真文庫「鎌倉」から。場所は滑川河口の仮橋です。
挿絵は森生。

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青い火

2014-03-20 | 遠い雲

母は8人きょうだいの上から3番目だったはずだ。
父親、つまり森生の母方の祖父は、自作農兼庭師。
若い頃、鎌倉山にあった田中絹代邸の庭の管理を任されていたのが自慢だった。

5人姉妹は当時の風習として全員、女中奉公をしたようだ。
次女は奉公先で関東大震災に逢い、行方不明になった。母が地震を異常に怖がったのはその所為らしい。

母の奉公先は、確か東京の牛込だった
森生が中学高校生の頃は、すでに女中は「賤業」になっていたので、母の思い出話は聞きたくなかった。

小学校に入る前、4歳か5歳のころか、末の妹の奉公先へ母に連れられて行ったことがあった。
場所は今の鎌倉宮のそば。母は大塔宮(だいとうのみや)のよっちゃんと言っていた。
奉公先は学者のお屋敷だったらしい。

台所に武骨なガスコンロが2台あり、青い火が燃えていたことだけをハッキリ覚えている。
円覚寺の門前町にあった森生の家では、まだへっついを使っており
、火は赤く燃えるものと思っていたのである。

それから、前後の関係があいまいだけれど、大塔宮の濡れ縁で昼寝から目覚め、母がいないので大泣きした。

以上が一番古い記憶である。

母の名前は「タキ」。「小さいおうち」の主人公と同じ名前だ。
映画では女中奉公の頃を懐かしむタキが、「女中は奴隷じゃなく、女の立派な職業だった」と甥の息子に反論していたのが可笑しかった。

母の思い出話を、もっと聞いておけばよかったなぁ、と今になって思う。

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ぎんなん

2013-12-06 | 遠い雲

けんちん汁の会で、あんちく氏は採れたて洗いたてのぎんなんを下さった。

家に持ち帰り早速小笊に開けると、強い匂いが立ち上がった。
高麗川の清流で熟した果肉を洗い落とし、日に晒しても、匂いは抜けなかったのである。

電子レンジでチンをして殻を割ると、匂いからは想像できない美しい翡翠色が現れた。
ぎんなんの鮮やかな翡翠色は、子どもの頃を思い出させる。

  

あの頃は茶碗蒸しや八宝菜など、贅沢な料理は拝めなかった。
練炭火鉢に載せたほうろくで炒って殻を割り、鮮やかな翡翠色の実をそのまま頬張ったものだ。
少しほろ苦く、いまどきの子どもには喜ばれないだろうが、森生はこれが好きだった。

あの時のぎんなんに匂いはあったのだろうか。
今では思い出せない。なにしろいつも空腹だったからね。

この匂いは、時折、町の中にも微かに漂っていた。母が生まれた里へ行けば、常時、村中が匂っていた。
だから、ぎんなんの匂いは、今となっては懐かしい「芳香」である。

 

森生がけんちんの会に持っていった手土産は、恥ずかしながら市販品である。
いま流行っている麻布かりんとだが、採れたてで匂いが残るぎんなんに較べると、大分見劣りがした。

いちばん下の写真は「簡単つまみ&料理レシピ」さまから拝借しました。

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野菜炒め

2013-11-07 | 遠い雲

子どもの頃の大ご馳走は母が作る野菜炒めだった。

野菜は、噛むとベキベキ音がするじゃがいもに、玉葱、人参くらいしか入っていなかったと思う。
カレー粉をタップリふりかけて、出来上がりはまっ黄々色だった。
それにブルドックソースをかけて主菜にした。因みに副菜は、沢庵か梅干くらいに、時々胡瓜もみ。

あれから60年余。
じじぃは時々、母が作った野菜炒めに挑戦する。

といっても、ピーマンや舞茸やベーコンを加え、チューブ入りおろしにんにくも使う。
塩は母よりずっと少ないかもしれない。

手間隙かけて出来上がった野菜炒め。
煎り胡麻をかけ、ソースはかけずに食してみる。
 

                 ........ あんまり美味くないんですね、これが。

何が足りないんだろう。いや、むしろ多過ぎるのかも。

あの頃、近所の小食堂の子が持ってくる、ジャムもバターも付けない食パン1枚だけも美味かった。
有名ホテルや百貨店の「誤表示」に憤慨する人々。見栄張っちゃって、おバカ丸出し。

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つくつく法師

2013-08-21 | 遠い雲

深夜12時過ぎに就寝しても、朝は5時に目が覚める。
ひぐらしの哀しい合唱で起こされることはなくなったが、何故か5時には目が覚める。

さぁてと、今日は何をしようかなぁ、と今朝もまた布団の上で考えていると、遠くでつくつく法師の声がした。
小さな秋........。 秋は音で気付かされる。

ゆうべは、約束の雷は鳴らず、こおろぎが鳴いていた。
早暁に開け放した窓からは、涼しい風の「気配」がすることにする。

つくつく法師は、二学期を知らせる声だった。
一斉に鳴かれると、尻に火が点いたような焦燥感に囚われて、あまり好きな蝉ではなかった。

耳を澄ますと、また油蝉が鳴いている。
二十年も前から耳の中で、年中。

                    ・ 唖 蝉 に 深 き 思 ひ を 語 ら ば や ・
                                             .........子規

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陰影礼賛

2013-08-19 | 遠い雲

早い梅雨明けと同時に始まった猛暑で、すだれの取り付け作業をする意欲が萎えていた。
時々、一枚ずつ吊り下げていたが、日射しが部屋に入る季節になって、ようやく全てのすだれを取り付けた。

世に暑さ対策はいろいろ言われている。しかしそれらは日本が熱帯になる以前の対策。
今年の暑さ対策は、一部屋をエアコンでギンギンに冷やすしかない。
ただこれは体感としての暑さ対策。見た目としての対策もある。

それは、す・だ・れ。

ホームセンターで売っているすだれは、全て中国製にとって代わられた。
中華簾は、穂先が入ってる、そっくり返る、長さばらばら、すぐカビる、と安かろう悪かろうの代表選手。
しかしすだれはそばで観察するものではなく、冬には捨てればいい。ウチでは3年使いますけどね。

中華簾は半端ものだけれど、簾はすだれ。ヨシかアシかの隙間が形作る陰影の涼しさを、愛でることはできる。

今日も昼飯の後、エアコンを点け、薄暗い部屋で横になる。

うつらうつらしながら、ふるさとの薄暗く古い大きな
家を、ふと思い出した。
あの頃は、こんなに暑くはなかった。

                ・ 世の中の重荷おろして昼寝かな ・
                                      .......
子規

取り付けたすだれは11枚。数え方は「枚」なのか「本」なのか。
売場では本で、吊るせば枚なんでしょうね。

中国製竹枕。これはいいですよ。

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そっくり

2013-06-24 | 遠い雲

今度の誕生日を迎えるとおよそ30年前に亡くなった父と同じ歳になる。
父の正確な没年を覚えていないのは、やはり親不孝者なのだろうが、仕方がない。

父は小言幸兵衛だった。気に入らないことがあると、ぐずぐずと何時間でも小言を言い続けた。
母との夫婦仲は険悪だった。今になると不機嫌の理由は想像でき、両親を気の毒に思わないでもない。

中学生になった頃から父とはろくに話したことがなかった。

父は数学が得意だったが教えるのは実にヘタクソ。
森生が仁丹と数学が大嫌いになったのは、小学生の頃、毎晩、耳元でねちねちと算数を教えられたからである。

就職した時、お祝いに金バックル付きの鰐皮ベルトと青い色のワイシャツをくれた。
父としては大奮発したのだろうが、生憎そんな悪趣味はないし、当時のサラリーマンのワイシャツは白に決まっていた。
だから一度も使ったことがないうちに、無くしてしまった。思えば可愛気のない次男坊だった。


古い家族の歴史について、父は敢えて話すことがなかった。
今になると、知りたいことが多い。

母によると、父の晩年は大分丸くなったらしいが、森生が実家に帰るのは正月と旧盆くらい。
たまに会っても会話は無く、その頃の心境や体調などについても聞いたことがなかった。

凡そ10年前、母と母の末の妹と、母の実家の義妹の三人が、何と同じ病院に入院していた時期があった。
百歳だった母から順に、老衰に脳梗塞、骨折、末期癌だった。

意識がなくなっていた母に会ったついでに、
永らくご無沙汰していた叔母を見舞った。
会うなり叔母は驚いて言った。

  「まぁ、亡くなった義兄さんソックリだ」

それまでは性格はともかく、体格も人相も殆ど似ていないつもりだったので、叔母さんの言葉には森生が驚いた。

 

父と同じ歳になって考える。

マジメな公務員で、祖父から引き継いだ町の世話役を嫌々していた父とは、随分違う世間を渡って来た。
しかし結局、父とそっくりなことをしたり言ったりしてきたなぁ、と。

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鳩サブレの海岸

2013-05-17 | 遠い雲

鎌倉の由比ガ浜海岸、材木座海岸、腰越海岸の命名権を鳩サブレの豊島屋が落札した。
年間1200万円で10年間、つまり1億2000万円で買ったとは豪儀な豊島屋さんである。
社長は「鳩サブレ海岸みたいな名前にしたくない。皆さんからいい名前を募集します」と言った。
グーグルが落札してグーグル・ビーチなんて名前になったら目が廻る。地元の老舗・豊島屋さんで良かった。拍手。

でも名前を公募すると、別の心配がある。

「南アルプス市」のようなおバカな名前も公募だったろうし、浦和市と大宮市が合併した「さいたま市」になる時には「なかよ市」なんていうフザケタ名前が候補になった由。
カタカナばやりのジャパンだから、結局「ふれあいビーチ」のような露骨で軟弱な名前が人気になる恐れがある。
なにしろ夏場の由比ガ浜と材木座海岸は芋を洗うように混みあってるからね。

だから命名は人気の多寡ではなく、お相撲さんのような社長の見識に委ねたい。
できれば権利を行使せず、「由比ガ浜海岸」・「材木座海岸」・「腰越海岸」のままにしておいて下さいね。
もちろん市が作る海岸に拘わる道標や看板に、鳩のマークくらいは入れたって構わない。
また、鎌倉市民は鳩サブレを手土産にするだけじゃなく、家庭の常備菓子にしようね。

いま、埼玉の片田舎にいる森生のウチだって、母が健在の頃は鳩サブレが何時もあった。
あの鳩サブレは、毎月大安売りをする壊れたものを、母が朝一に行列して買い、大量に届けてくれたものだった。
鳩サブレは大好物です。

サブレが何故「鳩」になったのか。
想像ですが鎌倉の中心「鶴岡八幡宮」の「八」の字は二羽の鳩になってるからです。
旧市内には高層ビルがありません。若宮大路にある豊島屋本店が八幡様の石段の一番上と同じ高さです。
先代社長が商工会議所会長だった頃に「暗躍して」高さ規制を決めたとか。

ところで、もう一つのサーフィン海岸「七里ガ浜」はどうなるのだろう。

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ぺんぺん草

2013-04-17 | 遠い雲

 

これ、ぺんぺん草って言うんだよ、とお隣の姫たちに言ったら、違うよおじちゃん、ナズナだよ、と訂正された。
姫たちが小学生だった頃のことだった。

その後、「すかんぽ」はスイバ、「猫じゃらし」はエノコログサ、とも教えてくれたっけ。
でも、おじぃには昔の名前がぴったりする。 

 

小学生の頃は、すかんぽを齧るぺんぺん草も生えない貧困生活だった。
ひもじいはまっぴらご免だけど、百近くのじぃにもなれば、あの頃が少~し懐かしい。

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9月を探して

2012-09-06 | 遠い雲

大きな秋、なかなか見つかりませんね。
赤蜻蛉は絶滅し、夜明けの枕もとの微風や蟋蟀の鈴音など、写真にしにくい
ものばかりだ。

ここ数日は涼しかったけれど、「熊谷市はまた猛暑日に」と聞いては秋を探しに高麗の里を歩くなんて無理難題。

たまには河岸を変え、湘南海岸の秋でも探しに行かないと........。

さはさりながら、手っ取り早く苦し紛れに、今になっては恥多き過去記事を探すと、ありました。

    「九月の言葉」 です。

詩は堀口大學。やはり昔の詩人は偉大ですね。
さり気なく言葉を書き連ねただけで、9月の人事万端、森羅万象が浮かび上がってくる。
無理にでっち上げるブログ(この林住記のことですよ)よりも、クッキリと季節の移ろいを感じさせてくれる。
(当たり前だよな、そもそも較べるのが不遜というものだ)

そういうわけで今日はまた、酷く蒸し暑いので無理しません。
上記「九月の言葉」をポチッと押し、過去記事を読んで頂き、お暇でしたら更に「セーラー服」なんぞもどうぞ。
(ちょっとズルかな? まあいいや

  そういえば「september 9月」 という英単語が何度も出てくる、大好きな歌があった。

    try to remember 」 です。 

  同じ屋根の下の方とご一緒に、たまには英語で歌って下さいね。
  
歌詞ならこちらにありますよ。

ハリー・ベラフォンテとナナ・ムスクーリの贅沢なデュエットを載せましたが、別々に歌ったものも捨て難い。
モノは試し。独りで歌うベラフォンテムスクーリもステキな9月ですからどうぞ。
なお、彼女の伴奏はギリシャ人である前夫です。

写真は昨年の今頃に撮りました。

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2011-12-10 | 遠い雲

朝、障子を開けると雪が降っていた。
こんなに早い初雪は記憶にない。

    雪が降ってきた ほんの少しだけれど

    私の胸の中に 積りそうな雪だった

                        .........「白い想い出」より。

小学生の頃は、温暖な湘南地方でもずいぶん寒かった。
そうして大晦日近くになると、雪が舞うことがあった。雪が降る前は、不思議に寒さが和らいだ。

灰色の空から仄暗い庭に雪がちらつき始めると、とにかく嬉しかった。
そんな日に、牡丹の植込みの中にある井戸の前で、叔母さんに叱られたことがある。

理由は覚えていない。
普段は優しい叔母さんは、父の妹の、きつい美人姉妹の中で、一番綺麗だった。

数年前の母の法事の後、老人ホームで会った叔母さんは、なにもかも忘れた綺麗なお婆さんになっていた。
いま、兄の厳重な管理下におかれ、少なくなった甥や姪はおいそれと見舞うことができない。

叔母さんがいる鎌倉山にも、雪は降っただろうか。
明るい日差しは先の先である。

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むかご

2011-10-28 | 遠い雲

今年もむかごが豊作のようだ。
近所の垣根の周りをよく見ると、山芋の蔓にむかごが連なっている。

昔はむかごをご飯に入れて食べたものだ。
豆カスやさつま芋の蔓に較べたら大ご馳走だった。

あんなひもじい時代はまっぴらだが、むかごを無駄にすることはない。
むかご採集はじじばばか子どもにさせるといい。

むかごの料理法は「COOKPAD」をどうぞ。いろいろありますよ。

むかごご飯の写真はCOOKPADさんから宅配して頂きました。

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そうだ九州へ行こう

2011-08-04 | 遠い雲

かの国の大事故のあと、九州新幹線開通のTVCMを見た。

沿線住民の大・大・大歓迎ったらない

有無を言わせず住民を立ち退かせた超特急では、いくら党中央が強制しても、こういう大歓迎はありえまい。

現役中、静岡駅で帰る「こだま」を待つ間、「ひかり」が通過する度、その凄さに腰を抜かした。
新幹線は姫路駅を通過するときが最高速度だとか。

このお嬢さんは姫路駅で大喜びだ

東北は余震が、関東と信州は直下型地震が怖い。1日夜、駿河湾を震源とする大きな地震があった。

そうだ、九州へ行こう、か。

こちらには、収束できないどころか被害が広がる一方の原発事故がある。
安全第一、油断大敵ですね。

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