駅前広場。この青年、人身事故を起こすんじゃないか、と心配になった。
声を掛けようとそばに行くと、ケータイに憑かれていた。
(ねぇキミ、そこは犬がお叱呼ひっかけるところだよ。)
この頃、こういう風景をよく見かける。
青年は既に人生に疲れて、シッカリ立てないようだ。
駅前広場。この青年、人身事故を起こすんじゃないか、と心配になった。
声を掛けようとそばに行くと、ケータイに憑かれていた。
(ねぇキミ、そこは犬がお叱呼ひっかけるところだよ。)
この頃、こういう風景をよく見かける。
青年は既に人生に疲れて、シッカリ立てないようだ。
あのぅ、ワタシ、森男のツマのドラと申します。
いえ、おとら婆さんじゃなく、ドラ・マール。
今はこんなド・イナカにおりますが、もとはといえばパリジェンヌどすぇ。
昨夜からアイツ、頭掻き毟ってまして..........。
ついウッカリ、
ブログなんか別にどうってこと無いんじゃない、もうお止めなさいよ、
と言ったら........。
そう、ドメスチックバイオレット。左頬っぺたスミレ色です。
もう口惜しくて口惜しくて.......。
フランスに帰っちゃおうかと思ってます。
▲画像は「泣く女」ピカソ画。
もう10日も置いてある。
じいじか、ばあばが連れ出して、抱っこのお散歩中に落としたのだろう。
そしてママが街へ連れて帰ったのか。
周りがほっこりと暖かく、明るい。
ずっとこのままで。
12月の公園の作業は寒~い日陰の檜林で行なった。
作業は立枯れた檜の伐採や、藪になりかけている藪椿の間伐である。
いつもなら汗が出るのに、やっと身体が温まるだけだった。
昨夜から股引を穿き始めたのは正解だった。
この冬一番の寒さで、日向と日陰では天国と地獄である。
暗い樹林に木漏れ日が射し、山紫陽花の黄葉が豪華に見えた。
今日は団地の大掃除のためか、参加者が少ない。
大掃除の後には餅つき大会があり、作業は昼前に終了。
樵姿のまま、皆で会場に向かった。
あんころ餅と黄な粉餅を一皿と、おいしい豚汁を何杯も頂いた。
ようやく人心地がついた。
この団地の住民じゃないけど、いいですか。
と居合わせた自治会長に尋ねたら、
ご褒美ですよ。
とニコリ。嬉しいな、お昼が助かった。
この団地には自治会が二つある。飯能市側の自治会では焼きそば、とか。
満腹したので行くのは止めた。残念。
会場に着いたのが遅くて、こんなに具は入ってませんでした。残念。
お汁は最高でした。
この地に移住して以来30年余。
ずっと見てきた製材工場跡。よく頑張った、偉い。
まわりの施設は既に倒壊した。
いま西武高麗駅周辺が工事で慌しい。間もなくこの遺跡も取り壊されるだろう。
ご苦労さん。
鶴見和子という学者の名前だけは知っていた。和服姿が印象的だったので。
その後、和歌を詠む、とも聞いたが、学者の和歌なんかガチガチな理屈っぽいものだろうと気にも留めなかった。これが大間違いだった。
以下は鶴見和子が最晩年、病床で詠んだ和歌だそうです。
・春立てば佳き物語よむに似て よみがえりくる遠き日の想い
・信絶えし遠き人よりおだやかな てがみとどきぬそのままにおく
・形見なる小袖をひろいまた落とす 保名(やすな)よ我は汝(なれ)となりしか
・遠き日に燃えしことあり遠きより しずかなるたよりとともに老いにき
そして、突然、口語体に変わります。
・今にして思えばこれでよかったと 負け惜しみでなくこれでよかった
歌人の佐佐木朋子氏の解説によると、上から02年2月、5月、03年5月、9月16日17日の由。鶴見和子自身の恋物語を回想した和歌らしい。順に、
・懐かしい想い出、
・「おだやかな手紙」で起きた煩悶、
・治まらぬ心の揺れ、
・老いてもなお感ずる葛藤の深さ、
・別れを自ら納得させようとする心、
と読み取れるそうだ。
最後の口語体和歌は、思わず作ってしまったのではないか、とも。
以上は鶴見和子の最終歌集「山姥(やまんば)」に載っているそうだが、もう一首。
・岐路に立ちし二十四の我この道を 選びしことをうべなう現在(いま)は
鶴見和子はアメリカ留学中、日米が開戦し24歳で帰国した由。
お見事な一生だった、と今更ながら思った。
この記事は朝日新聞12月1日(月)朝刊掲載「朝日歌壇」頁の「うたをよむ」を参考にしました。
「山姥」は、半身不随となっても行動する学者であり続けた人の面目躍如たる作品集で、
生老病死の全てが詰って唸りをあげている、そうです。
ウィキ記事は、「脚注」を是非お読み下さい。
日和田山の山頂手前に金比羅神社がある。
神社と言っても祠に毛が生えた程度だが。
ただここの岩場からは絶景だ。
いつも撮ってる風景なので股覗きしたら(▲)、左右が分らなくなってしまった。これでいいんだろうか???
股覗きでも、こうは見えない? ........ん?そうかも。
おとうさんが一人。
わが猫額亭のある町を眺めていた。
地理に大分詳しいし、荷物が無いので、明らかに移住民である。原住民は山になんか登る暇があったら、農作業だもんね。
肉眼では見えるのだが、多峰主山は中央でもやもや。秩父への299は川のよう。西武団地ももやもや。「絶景」がウソみたいで、我ながら不愉快。
角度を変えて、眼下の巾着田2枚です。
朝寝坊のため逆光になり、余計にボケております。すみません、次の登山は早起きします。
へえ絶景かな?、という方は、自分で登って確めてね。ふんっ。
*この記事は下の記事からの続きでした。
日和田山頂上の眺望はあまり良くない。東側しか開けていないのだ。
天気が崩れる前兆で、地平線はもやもやと空に融けてしまっていた。
下の写真の長い白壁は、聖天院だ。すぐ後ろに本堂の屋根が見える(かな?)。
山頂には、古く立派な寶篋印塔と、ピカピカ古稀祝いの恥ずかしい歌碑がある。
息せき切って登って来た山頂なので、見知らぬ人と仲良くなれる場所だ。
*この記事は下の記事から続き、上の記事につながります。
いつもは多峰主山から、団地や高麗川の真北に立ちはだかる日和田山を眺めている。
山がすっかり色付いたので、その日和田山に登った。
一般人は東麓から入り、男坂か女坂を上って山頂を目指すが、それはまぁモグリだ。
ナイショの道は、鹿台橋からすぐ左の高麗川沿いの道に入り、目立たない小川を跨いで右手の山中に入る。(目立たない道標がある)。
この道は岩登りの人たちの道だ。夏場には蛇、秋口は蝮が怖い道だ。
山裾の家々は物凄い落葉に埋まっている。
暫く暗い谷合の細い道を登る。天狗でも出て来そうな薄気味悪い檜林が続く。
突然大岸壁が現れる。夫婦岩だ。ここは登山家の岩崎元郎さんが国営放送で紹介して以来、岩登りの練習場になっているが、実は地元民は迷惑をしている。
更に暗い檜林を上ると、周囲は落葉樹が多くなり、明るくなる。
そしてアンモナイトの化石があるゴツゴツした急な斜面を登ると、頂上である。
.........ふう。
右端が日和田山です。
アンモナイトの斜面は山道ではありません。
*この記事は上の記事に続きます。
吉田家の近くに金勝山がある。
以前、東武竹沢駅から南斜面をえっちらおっちらやっとの思いで頂上へ辿り着いた。
ら、車道が北斜面から上がって来ていて、ガックリした。
今日は車で上ろうとしたら、麓の入口で通行止めだ。
仕方が無く、車道を歩いて上ったら、何てことだい、終点には車が4~50台駐車していた。どうも関係者のものらしい。
山全体に「埼玉県立小川げんきプラザ」というお役人好みの名前が付いている。
奇天烈なバンガロー群がある。頂上には広い食堂やプラネタリウム、そしてホテル棟もあるが、全く誰もいない。
そうそう、下の入口近くで背丈ほどの黒松の枝透かしをしている植木屋氏がいたっけ。埼玉県版「私のしごと館」でなければいいが........。
右はまともな山小屋。
そういう施設を見なければ、このやまのそれなりな紅葉と、眺望は素晴らしい。
ただ、寄居方面の見事な山並みを、ザックリ削った超広大な工場用地が痛々しかった。不況で、あのまま工事凍結になるかもしれないが、もう後には戻らない。
金勝山は東武東上線を使えば便利な山である。
金勝山、吉田家、官ノ倉山、石尊山、小川町と辿る山歩きは、誰にも楽しめます。
特にこれから新緑の頃までね。
▲始めはここに多いメタセコイアの紅葉。2番目は直系1m以上もある切株です。
久し振りに吉田さんちへ行った。
陽射しが縁側から屋内に伸びて、ほかほかと暖かい。
見学客も一緒になり、囲炉裏を囲んで家族のような団欒が今日も始まる。
たもぎ茸を入れたうどんが美味かった。
遅く出かけたので、今日は植木屋作業はしなかった。
薪割り作業は、国営公園仲間であるはりきりおじいの仕事である。
いわば、ワークシェアリングです。楽しみは分かち合おう。
こんなにあるんだ、待ってるよ。
たまたま日曜画家の展覧会をやっていた。
一番気に入った絵です。▼
「重要文化財吉田家」の年末年始の催事は、HPをご覧下さい。
飯能市の商店街はいつもガラガラである。
もちろん商店街も必死のようで、お祭りや、水族館や、ザクロの木や、木馬で忙しい。
今年も年末売出しの準備をしていたが.........。
電飾でいくら飾り立てたって、飯能の夜の寒さは厳しいんですけど.......。
枝葉末節のイベントに熱中するより、夫々の店の魅力を作り出せないものだろうか。
商店街が寂れるのは不便で困る。商工会議所の頭の切替が必要です。
やっと撮れた明るい写真で、ゲートボール中の休憩時間です。
今まで何度も写したけれど、画面が暗くて楽しそうな雰囲気が撮れなかった。
服装が地味過ぎるのです。
今日は陽射しの明るさに助けられた。
箪笥の中に仕舞ったままの服を、今こそ着ようじゃありませんか。
歳は60でご破算です。