1971年10月、バンドのリーダーかつリード・ギタリストのデュアン・オールマンの交通事故死により、大きなダメージを受けたオールマン・ブラザーズ・バンドであったが、事故死する直前に制作していたスタジオ録音の楽曲と例のフィルモア・イースト・ライブの未収録曲を合わせた2枚組のアルバム、EAT A PEACHをなんとか出すことができた。
しかしながら、それ以降のアルバムの制作となると、看板ギタリストであったデュアンの補充として新たなギタリストを探す必要があったのだが、当然の事ながらそう簡単に見つけることは出来なかった。何しろ、新たなギタリストはデュアンと比較の対象になるわけだから、超一流でないと務まらないのである。
そのため、もう一人のギタリストであったディッキー・ベッツにはかなりのプレッシャーが掛かったのでないかと思われる。当面の間、一人で二人分の作業をしなければならない。スタジオ録音ではオーバ・ダブが可能だが、ライブとなると一本のギターでは以前と比べて音が細くなるのは避けられないので、弾き方になんらかの工夫が必要となる。
そのような危機的な状況で、バンドは上手く事に対応出来たのではないかと思う。すなわち、替えのきかないギタリストのポジションの補充を諦め、代わりにキーボードのチャック・リーヴェル(後に、新バンド、シー・レベルの結成やストーンズのツアーのサポート・メンバーとして知られている)を加入させ、2台のキーボードに1本のギターを絡ませるアンサンブルに変更した。
また、ギタリストをディッキー、一人に固定することにより、今までデュアンの陰に隠れていたディッキーがリーダー・シップを発揮し、バンドに新たな魅力を出す事に成功した。すなわち、ランブリン・マンなどのカントリー系のロックやジェシカなどラテン系のノリの良い楽曲がバンドのレパートリーとして新たに加わったのである。
特にシングルで出したランブリン・マンの大ヒット(全米2位)は、アルバム、BROTHERS & SISTERSの全米1位のチャート・アクションに貢献し、バンドを一気にトップの座に上り詰めさせた。
BROTHERS & SISTERSのジャケ裏の写真。ジャケの表裏に写っている男の子と女の仔は、バンド・メンバーの子供。
その後、バンドは活動休止を経て再結成やメンバーの交代など色々なことがあったが、現在に至るまでバンドとして活動が継続できたのは、この時の大ブレイクのお陰であると言っても過言ではないだろう。
助手:どうなることかと思いましたが、バンドの編成を上手く変えることで窮地を見事に脱し、ブレークのチャンスに変えましたね。
博士:そうじゃのう。ランブリン・マンの大ヒット一発で、トップ・バンドになったんじゃから。
その昔、尾崎紀世彦の “また会う日まで”が大ヒットした時、毎日同じ歌をなんども歌わされて、彼は閉口したという事じゃったが。
やはり大ヒット曲は、必要じゃ。大ヒットから得られる経済的な余裕は、音楽活動を続ける上で重要なファクターじゃからのう。我がロック研究所も予算不足で、ストーンズのスティッキー・フィンガーは、デラックス盤ではなく輸入通常盤に変更されてしまった。
なんとも寂しい事じゃのう~
助手:博士! この間、研究所の予算でジャズのボックス・セットを無断で買ってしまい悪いと思ったので、先日博士の好きなスプゥーキー・ツゥースのボックス・セット注文しておきました。
博士:それはでかした。
助手:といっても予算が全く無かったので、博士のカードで翌月一括払いでの発注です。
博士:なんと、それじゃわしの来月の小遣い全部が~ せめて3回の分割決済にして欲しかった。
翌月一括払いという言葉が、心に虚しく響くのう~
という事で、WASTED WORDSを聴いてください。
The Allman Brothers Band - Wasted Words