ほんとうの創作劇のありかた
高校演劇の芝居を半世紀近く観てきました。むろん全てではありません。まあ、ざっと400~500本くらいでしょうか。わたしが、この半生で観た芝居の約半分近くが、大阪の高校演劇でした。
これだけの数を観ていながら、頭に残っている作品はほんの数本です。日比野諦観先生の『海の見える離れ』佐藤良和先生の『喪服』都島工業の『天国どろぼう』ぐらいのものでしょうか。
わたしが観ていない作品で、佐藤良和先生の『さざんがきゅう』という三人三役の名作がありますが見落としています。校名は失念しましたが井上ひさし作『父と暮らせば』がありますが、これも観ておりません。
それ以外の作品は、キレイサッパリ記憶に残っておりません(自分の学校の作品は除いております)
いわゆる、常連校さんの作品は、ほんの僅か断片的な印象としてしか残っていません。
K高校のいつも、凝った道具、照明、張ることしかしない台詞、痩せた台本。特に気になったのは女の子の描き方です。
こんなシーンがありました。女の子が数名、無対象のトイレに入るシーンがありました。まさか、そこまではしないだろうと見ていたのですが、トイレの中でやることを無対象ではありますが、キチント演っていました。笑っている観客もいましたが、わたしは笑えませんでした。十七八の女の子にやらせるものではないと思いました。とにかく、このK高校の女の子の描きようは、わたしの趣味に合いません。汚い演技というのは、歳がいけばいくらもできます。十七八というのは、その年齢でしか出せないミズミズシサや、まぶしい若さがあります。歳をとって、そういう演技を演ることは、よほどの名優さんでなければできません。
また、そういう汚さに必然性があれば、まだ納得がいくのですが。ただグロテスクで、声を張るだけで何も記憶には残っていません。
O高校は、ひところ舞台を八百屋さんになさって、十名近い役者がシャウトしていたことが印象として残っています。なにか日の丸に関する芝居をやっておられたように思うのですが、これも記憶が定かではありません。ある国の国旗だとしておきましょう。その旗が決められた時間に掲揚され、それに敬礼しないと監視カメラがあって、エライさんから叱責されるという、現代の監視社会を予見させるような芝居でしたが、設定に対する浅さと、人物の描き方が類型的であった不満が残ったことを記憶しております。
以上は、批評であります。否定ではありませんので、おことわりしておきます。
合評会のありかた
こういう批評をおこなうのが合評会であります。12月の中旬に本選の合評会が開かれるとおもいますが、昨年のようなホメコトバしか出ないような合評会にならないことを祈ります。ホメコトバは、その場は暖かくしますが、『王様の耳はロバの耳』の王様になってしまいます。分からないところ、これは違うと思ったところなど、素直に出しましょう。合評会は基本的には言いっぱなし、言われっぱなしでいいのです。合評会は、何事かを決める場所ではないのです。「何事かについて批評しあう場」でしかありません。言い心地、聞き心地の良い言葉ばかりでは、無意識の「誉め殺し」にしかなりません。太宰治(ぐらい知ってますよね?)が、「青年とは、否定をいたく好むもの」と言っています。これは青年期の特権です。大いに批評しあってください。
もう一度、創作劇のあり方
本題に戻ります。そういう創作劇を一回ポッキリの演りっぱなしにしないで、いただいた批評や、自分たちの感じたこと(芝居とは、身内で見ている稽古と本番でのそれとは大きく違います)を元にして、改稿再演していただければと思います。
歌や絵などは、発表後に手を加えられることが多くあります。例えばAKB48の曲など、ヒットチャートにのっている期間が長いので、その期間で微妙に変わっています。
天王寺商業が演った『I WANT YOU』は四半世紀前にやった『欲しいものは』の何回目かの改作であります。四半世紀の間に五団体、二十回ほどの上演がありました、その度に手を加え、上演時間だけでも三十五分から五十三分まで伸びています。途中オトナの劇団でも上演されましたので、いささか高校生諸君にはムツカシイものになったかもしれません。
どうか、創作劇を使い捨てにしないで手を加えてください。使い捨てていては、「大阪は創作劇を大事にするところ」だとはいえません。
くどいようですが「使い捨て」「大事にしている」並立する言葉ではありません。
高校演劇の芝居を半世紀近く観てきました。むろん全てではありません。まあ、ざっと400~500本くらいでしょうか。わたしが、この半生で観た芝居の約半分近くが、大阪の高校演劇でした。
これだけの数を観ていながら、頭に残っている作品はほんの数本です。日比野諦観先生の『海の見える離れ』佐藤良和先生の『喪服』都島工業の『天国どろぼう』ぐらいのものでしょうか。
わたしが観ていない作品で、佐藤良和先生の『さざんがきゅう』という三人三役の名作がありますが見落としています。校名は失念しましたが井上ひさし作『父と暮らせば』がありますが、これも観ておりません。
それ以外の作品は、キレイサッパリ記憶に残っておりません(自分の学校の作品は除いております)
いわゆる、常連校さんの作品は、ほんの僅か断片的な印象としてしか残っていません。
K高校のいつも、凝った道具、照明、張ることしかしない台詞、痩せた台本。特に気になったのは女の子の描き方です。
こんなシーンがありました。女の子が数名、無対象のトイレに入るシーンがありました。まさか、そこまではしないだろうと見ていたのですが、トイレの中でやることを無対象ではありますが、キチント演っていました。笑っている観客もいましたが、わたしは笑えませんでした。十七八の女の子にやらせるものではないと思いました。とにかく、このK高校の女の子の描きようは、わたしの趣味に合いません。汚い演技というのは、歳がいけばいくらもできます。十七八というのは、その年齢でしか出せないミズミズシサや、まぶしい若さがあります。歳をとって、そういう演技を演ることは、よほどの名優さんでなければできません。
また、そういう汚さに必然性があれば、まだ納得がいくのですが。ただグロテスクで、声を張るだけで何も記憶には残っていません。
O高校は、ひところ舞台を八百屋さんになさって、十名近い役者がシャウトしていたことが印象として残っています。なにか日の丸に関する芝居をやっておられたように思うのですが、これも記憶が定かではありません。ある国の国旗だとしておきましょう。その旗が決められた時間に掲揚され、それに敬礼しないと監視カメラがあって、エライさんから叱責されるという、現代の監視社会を予見させるような芝居でしたが、設定に対する浅さと、人物の描き方が類型的であった不満が残ったことを記憶しております。
以上は、批評であります。否定ではありませんので、おことわりしておきます。
合評会のありかた
こういう批評をおこなうのが合評会であります。12月の中旬に本選の合評会が開かれるとおもいますが、昨年のようなホメコトバしか出ないような合評会にならないことを祈ります。ホメコトバは、その場は暖かくしますが、『王様の耳はロバの耳』の王様になってしまいます。分からないところ、これは違うと思ったところなど、素直に出しましょう。合評会は基本的には言いっぱなし、言われっぱなしでいいのです。合評会は、何事かを決める場所ではないのです。「何事かについて批評しあう場」でしかありません。言い心地、聞き心地の良い言葉ばかりでは、無意識の「誉め殺し」にしかなりません。太宰治(ぐらい知ってますよね?)が、「青年とは、否定をいたく好むもの」と言っています。これは青年期の特権です。大いに批評しあってください。
もう一度、創作劇のあり方
本題に戻ります。そういう創作劇を一回ポッキリの演りっぱなしにしないで、いただいた批評や、自分たちの感じたこと(芝居とは、身内で見ている稽古と本番でのそれとは大きく違います)を元にして、改稿再演していただければと思います。
歌や絵などは、発表後に手を加えられることが多くあります。例えばAKB48の曲など、ヒットチャートにのっている期間が長いので、その期間で微妙に変わっています。
天王寺商業が演った『I WANT YOU』は四半世紀前にやった『欲しいものは』の何回目かの改作であります。四半世紀の間に五団体、二十回ほどの上演がありました、その度に手を加え、上演時間だけでも三十五分から五十三分まで伸びています。途中オトナの劇団でも上演されましたので、いささか高校生諸君にはムツカシイものになったかもしれません。
どうか、創作劇を使い捨てにしないで手を加えてください。使い捨てていては、「大阪は創作劇を大事にするところ」だとはいえません。
くどいようですが「使い捨て」「大事にしている」並立する言葉ではありません。