大橋むつおのブログ

思いつくままに、日々の思いを。出来た作品のテスト配信などをやっています。

高校演劇●●志忠屋亭主、雑口雑言・2●●

2012-08-05 06:44:24 | エッセー
●●志忠屋亭主、雑口雑言・2●●☆☆滝川浩一☆☆
●亭主、更に観劇す 「桜の園」(2)
●「桜の園」という芝居がたどった歴史経緯はお判りいただけただろうか。近年、チェーホフの研究が進歩し、少なくとも、代表作の内、「かもめ」と「桜の園」は喜劇として書かれており、彼はドラマと喜劇を厳格に分けて考えていた事がはっきりした。
●事が混乱したのには、翻訳の問題もある。“コメディ”という単語は、単に「喜劇」をのみ指すのではなく、広く「芝居」そのものを指す言葉である。ただ、文脈の前後を読めば、チェーホフの言う“コメディ”とは、喜劇以外のなんでもない。長年意図的に読み違えられてきただけである。
●これに気付いていた宇野重吉は、「桜の園」を喜劇として演じようとしたのだが、(1)でも書いたように、名にし負う「劇団・民芸」、 座員達のかなりが彼の演出通りに動かなかったのは、想像に難くない。当時、この舞台を見たが、やはり「悲劇・桜の園」であった。 ●宇野の演出ノート「桜の園について」(麦秋社刊)を読むと、喜劇として演じることにこだわりがあったのが良くわかる。今回の舞台と、宇野が目指した物の間には隔たりがあるだろうとは思う。しかし、もし、宇野翁存命で、この舞台を見たとしたら……きっと、膝を叩いて大喜びし、彼独特の笑い声が劇場に響いたものと確信する。
●今回、「桜の園」が三谷演出で喜劇として上演される事が、「桜の園」にとってもチェーホフにとっても、どれくらい得難く、エポックメーキングであることか。きっと、天国のチェーホフもカッポレ踊って(な、訳はないか。ちゅうか、我ながら古いなぁ、カッポレ?)喜んでおじゃるでありませう。
●マイナーな舞台で、あるいは喜劇として上演された事も有ったかもしれないが、メジャーな舞台はこれが初めて。以後、この公演の演出が、一つの指標になるのは間違いない。
●三谷は、「笑いの大学」ロシア公演の時に、向こうの劇場でチェーホフのオムニバスを見に行き、観客が良く笑っていたのが新鮮だったと述べている。彼自身、「桜の園」を観て、悲劇なのだと感じていた。私とは、大体同年代なので、恐らく同じ民芸の芝居を観たのだろう、ロシアから帰国後、改めて「桜の園」を読んでみるに、これが「まごうことなき“喜劇”である」と確信。更に、VTRで確認してみると「なるほど、こうすればこのシーンから笑いを除けるのか」と、かえって新鮮な驚きがあったそうである。それと共に、「ならば喜劇作家の自分が“桜の園”を喜劇として再構築してみたいと考えるようになった」と述べている。
●さて、漸く今回の芝居についてである。
●見事な芝居だった。第一の興味は、三谷がどれだけテキストレジをして、原作に無いギャグを何ヶ所放り込んだのか、という事だったが、これが少々意外な結果となっている。
●それはさて置き、まず導入である。三谷は開演前に、青木さやかにヴォードビルを演じさせ、「今日の“桜の園”は喜劇だよ~」と、アピールする。三谷の観客は、兎に角笑いに来ている人が大多数。されど、演目が、あの「桜の園」である。芝居を良く観ている人ほど身構えている、これを適度にほぐす。大爆笑にはならないが(青木の悪口ではありませぬ)、確実に空気が軽くなる。
●続いて、上演前の館内アナウンスが入るのだが、これが二カ国語になっていて、まずロシア語が流れ、次いで日本語訳が流れる。初めは「携帯の電源はお切り下さい」とか、真面目に放送されるのだが……その内、ロシア語の中に“ピロシキ”という単語が聞こえる。「うん?“ピロシキ”?」と思っていると、「ピロシキには二種類ございます」と来たものだから場内は大爆笑、「本当に今日の芝居は、あんたらの知ってるのとは違うよ~」と二重の念押し、これは、最近彼がよく使う仕掛けらしい(「笑いの大学」の時には無かったと思う)、 これで劇場は完全に喜劇モードに切り替わった。
●場内灯が消え、舞台に灯りが入ると、そこは桜の園の屋敷、子供部屋である。女主人・ラネーフスカヤのパリからの帰郷を待つ人々。従来の「桜の園」の冒頭、そのままであるのだが……
コメント
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