コッペリア・8
顔が描き終った。
冷めたコーヒーを飲み干すと午前一時を回っているのに気が付いた。
描きはじめたのは、夕方の五時だから、延々八時間も、この人形の顔と格闘していたことになる。
身震い一つしてトイレに入った。描きはじめてから、食事はおろか、トイレにも行っていない。
トイレから戻ると、床の上のおびただしい消しゴムのカスに気づいた。どうやら清書の前の下描きに大半の時間を費やしたようだ。
よく見ると、清書した絵具もすっかり乾いている。
「これ、オレが描いたのか……」
不思議な感じがした。描くのに苦労した感じではなかった。描くことによって、何かが降りてくるのを待っていたというのが正直な感想だ。
そして、それは日付が変わったころに降りてきたんだろう、それからは一気呵成に描きあげ、描いた顔の造作に納得し、降りてきたものが、静もったのが、ついさっきだったのだろう。絵を描いているときにも、ごくたまに、こういうことがある。
しかし、それで必ずしも傑作が描けるわけでもない。
現に、今目の前にいる人形の顔は、アニメキャラのように目が大きい。なんの凹凸も無い口には一筆書きのように、薄い唇が一呼吸もしない間に描かれている。
よく見ると口が微かに開いているように……いや、実際に口は三ミリほどの隙間で開かれていた。
「オレ、口開けちゃったんだ……」
鉛筆の削りかすの中に、硬質ビニールの細いかけらが混じっていて、机の上には彫刻刀の箱が開けっ放しになっていた。
「やっぱ、服着せなきゃまずいな」
颯太は仕上がりの時を予想してディスカウントストアで買ってきた仮装用の服とウィッグを付けた。ボールの関節がむき出しで、色気などはかけらもないが、顔を描くと、人形は、とたんに人に近いものになる。そのことを予想して、最低の衣装とウィッグだけは用意しておいていたのだ。
服とウィッグを付け終ると、颯太は泥のように眠ってしまった。
朝は、スマホの着信音で目が覚めた。
「お早うございます。神楽坂高校の校長の田中と申します……」
さすが東京は反応が早い、ほんの一昨日登録したばかりなのに、都立神楽坂高校から、非常勤講師の口がかかった。颯太は眠気も吹っ飛んで、二つ返事で快諾した。
「つきましては、お顔も拝見したいですし、書類も見ていただきたいので、ご足労ですが、十時にご来校ねがえませんですか」
「はい、十時ですね。承知いたしました、よろしくお願いいたします!」
切れたスマホに一礼して、颯太は一帳羅のスーツに着替えて、朝ごはんも食べずに部屋を飛び出した。
「あら、お隣さん。引っ越しのご挨拶以来ねえ!」
部屋の鍵をかけていると、隣のセラさんが出てくるのといっしょになった。
「お早うございます。お早いんですね」
「今日はお休み。で、ごみほりの日だから、立風クンとこはゴミないの?」
「あ、溜まってるんだ!」
颯太は、慌てて部屋に戻り、溜まっているゴミの袋を三つ抱えて出てきた。
「フフ、お安くないわね」
「え、なんですか?」
「靴を隠してもね、気配で分かるのよ。女の子の気配……」
「そ、そんなんじゃないですよ!」
「まあ、いいって。東京に来て半月。彼女の一人ぐらいできて普通だって」
ゴミ置き場に手馴れてた様子でゴミを放り込むと、セラさんは同じ方向に歩き出した。
「お出かけですか?」
「まさか、こんなスッピンのジャージ姿で。コンビニに買い出し。立風クンは、仕事見つかったとか?」
「ええ、なんとか非常勤講師の口が」
「あら、立風クン、学校の先生?」
「え、ああ、非常勤だからバイトみたいなもんですけど」
「そりゃ、おめでとう! そうだ、お祝いに……これどうぞ」
セラさんは、キーホルダーのビリケンさんを外して颯太に渡してくれた。
「前の立風さんからもらったものなんだけど、縁起がいいんだって、お守り代わりにどうぞ」
颯太は、セラさんを気のいい人だと思った。
孤独死した人からもらったお守りなんて、普通気持ち悪くて捨ててしまいそうなものだが、セラさんは大事にキーホルダーとして使っていた。くれる時も厄払いのような様子ではなく、颯太の仕事が決まったことを心から喜んでくれている様子だった。
コンビニの前で隣人と別れると、駅への足取りが自分でも驚くくらいに軽い楓太であった。