→八重桜の並木道。昨日の桜新道
このブログを読んでくださる
ご縁のある大切な皆さまにとって
迷った時、苦しい時、悲しい時、
さらに前に進もうと幸せな時、喜びいっぱいの時にも
なにかステキなヒントになりますように☆彡
いつも読んでくださって本当にありがとう~~~♪
KAORU♪より
***********************
キーワードは「感知」
大切なのは奥深い背景に気づくこと。
表面だけにとらわれると結果的に
表面の浅いところに振り回されて翻弄される。
砂浜を思い出してほしい。
波打ち際は浅いわりに
立っていると砂がす~~~っと波に流されてグラつき
しっかりと立っていないとフラついてしまう。
浅瀬だと安心していたはずなのに。
波と足元の不安定さで、思った以上に
よろけそうになってしまう。
それに比べて、
足もつかないし何かあったら危険だと思っていた
沖に出ると波は緩やか。
夏の海水浴でそんな経験はないだろうか?
浅いと安全。すぐ逃げられるし。なんてタカを括ってたら
遠浅の海岸の方がよっぽど
用心しないといけない。と聞いたことがある。
浅瀬の方が波の引きの速度が速いのだそうだ。
足元を救われてしまうのは、
ひとつの要因として不安定な土台である
流動的な砂浜の上に立っているからなのだと思う。
引きの強さに対応できるほど
強固な地盤に支えられていないから、なのかもしれない。
*********************************
そんなたとえと同様に。
まずは確固たる揺らがないベースを固めていかないと
頭で、心でどんなレベルの高い、崇高な教えや考え方を
マスターしているつもりで、
絵空事やお経やマントラのように
唱えてあげ連ねることができたとしても
いざ、本番!となったときには
それに耐えかねるだけの芯や軸が
備わっているかどうかはわからない。
「感知」とは
まずは表面として現れた「怒り」や「悲しみ」
「淋しさ」「孤独」そして
「恐れ」「不安」がどんなタイミングで現れていくのか。
それらに共通項となるキーワードが存在するのか。
その表面に浮かび上がった「恐れ」が
今、本当に「必要であり妥当であり、自分の存在にとって
不可欠なのか」そのあたりを
あらためて見つめていくこと。
迷ったら、立ち止まったら、
悩んだら、苦しくなったら
まずは書き出してみよう。
なにが恐いのか。
どうなったら恐いと思ってしまうのか。
*********************************
背景を知り「恐れに気づく」→原点や現状を把握し自分と対話する
→本当に本当にコワイことなのか。幻におびえていないだろうか?
→今はもう必要でないので「恐れ」を手放す→解放される
→魂が輝き始めて無限の可能性が開かれる
誰でも持っている“無限の可能性”はない!と思えば
その手前で成長は止まる。
結果、ほらね!やっぱり無限の可能性なんてありっこないもんね!
と自分で自分を納得させて、自分を説き伏せようとする。
そう言いたい材料がほしいだけなのかもしれない。
もしかしたら逃げる口実がほしいだけだったりして。
できればスルーして、なかったコトにしてしまいたい「恐れ」。
だって知るのがコワイ、なんて思っちゃう。
弱い自分を認めたくない。出会いたくもない。
でも、怒りも悲しみも羨望も、自己否定も自己憐憫も
「恐れ」が要因となっているのだとしたら?
防御も、防衛も、攻撃も、バリアも
優劣基準でさえも「恐れ」だったりしたら?
一番コワイことってナニ?
誰かが恐くて、ある状況を
遠ざけたいと思っていたとして、
それってもしかしたら自分自身の奥深くの何かが
その人に投射機のように投影されて
“置き換えている”だけなのかも?
誰かじゃなくて、外部の要素じゃなくて
自分の根底を探知機のように「感知」すること。
まずは気づいていくこと。
それが思った以上に不安定で荒々しい波打ち際が
やがて穏やかなる大海へと繰り出すための
始めの一歩となる。
背景を、その奥を。
舞台裏を。屋根裏を。
そこには真実となる鍵が隠れているのかもしれない。
見つけることができたなら
「安らぎ」への扉が開いていくのだろう。
表面にゴマかされたり、単なる
紛らわしではない、何かの上書きでもない
「真実の安らぎ」は
「真実の愛」へとつながっていて
それは時空をも超越した宇宙へも通ずる
普遍的で永遠に揺らがない
「根っこ」となり「軸」となり「核」と
なっていくはずなのである。