KAORU♪の「気ままなダイアリー」

KAORU♪が見つけたステキな風景、出会ったおもしろいできごと、おいしい料理などを“気が向いた時”にご紹介します。

★私がワタシを信じる時

2005年07月12日 | スピリチュアル セッション
               【Mt.シャスタの信号ボタン】

「あなたはあなたを信じてください。
あなたはあなたを誉めてください。
そうすれば、まわりもすーっとよくなるんだ!
あなたが自分を信頼することから始めること。
98年間生きてきた私がいうんだ。間違いないよ!」

-********************
地の底から湧きあがる、張りのある声で
叫ぶようにして熱く語っていらしたのは、
御歳98才。発明学会の会長さんである。

矍鑠(かくしゃく)として、凛としたお姿。
金色に広がるオーラがでていた。

-------最近、とても気になる言葉。

「自分を信頼すること」

あ、ここでもまた言っている。
あれ?こんなところでも、そのセリフ?
…ということは、今私が必要としている事柄なのだろう。

妊婦の時には、世の中にこんなに妊婦がいたんだ!と驚いたし、
駅の階段から落ちて靭帯を切り松葉杖をついていた時には、
ケガをした人ばかりに目がいっていた。
少しニュアンスが違うが、今置かれている状況や
必要としている情報はよく見えたり、
耳にしたりするするものだ。

自分を信じることが、すなわち「自信」なのだと思う。
でも自分を信頼できない人がなんと多いことか。

日本人は謙遜することが美徳とされてきた。
「一歩さがって師の影を踏まず。」
そして女性は親に従い、旦那に尽くし、老いては子に従うという
レールがひかれていた。

そこには、生きていくための術というだけでなく
「おかげさまで」という心も併せ持ち、凛とした強さを秘めていた。
耐える力を持っていたからこそ、謙遜が美しいものとされた。

しかし、現代はどうだろう。
平和な世の中で、耐える力は退化し始めているのに、
妙な形で謙遜だけが残っているのではないだろうか。
まるで、地球温暖化で熱くてゆがんだ「謙遜の心」。

それは以前と似て非なる“芯のない自信のなさ”
に形を変えているような気がする。
「いえいえ、私なんかどうせ…」という自分攻撃型・卑下するような気持ち。

でも、私は最近思っている。
自分を信じていない人が、人のことを心から信用できるのだろうか?
まずは自分の中の自分を励まし、応援し、一歩でも前進できたことを認めること。
それが自分自身を信頼するということ。

私自身から始めることがレッスンなのだ。

まわりの人をあれこれと思い煩い、辛い思いをする前に
もう1度確認してほしい。

あなたはあなたが好きだろうか?
あなたはあなたを信用しているのだろうか?

それは自信過剰や自己陶酔型の愛とは違う。

純粋に、私がワタシのサポーターであるかどうか。
つまづいた時にしっかり起こしてあげられるだろうか?
起き上がった自分を励まし、また次の力が湧いてくるような言葉を
ワタシにかけてあげられるのだろうか?

人に言ってもらうのを待ったり、要求するのではなく
私がワタシに言ってあげるのだ。

みんな、家族や友人が落ちこんでいると暖かく応援するのに、
自分が落ちこんでいると励ますことを忘れてしまう。
励ますどころか責めまくる。これでもか、っていうぐらいに。

もし、私がワタシの存在に気づいてあげられたら、
その時こそ、新たなスタート地点。

一人前のワタシになるまで、暖かく見守りながら育ててみよう。
それがきっと「自分を信じる」コト、つまり「自信」に通じていく。
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