激変

2006年02月14日 | 介護日記 -
状態は、変わらず・・・

深夜には、何度か起きて、いろいろな“こと”の対処をする。

とにかく、父は“落ち込む”。

排泄に失敗して、「情けない」と繰り返して、泣きじゃくる。
できない事実は、随分昔からなのに(それも毎日なのに)、それでも
同じように嘆き悲しむのだ。

   泣きじゃくる父の顔の正面に、私は座り込んで、ひとしきり大きく笑う。
   まるで、それが「馬鹿馬鹿しいことで」「なんでもないことなんだ」
   「ちっちゃなことなんだ」と印象付けるかのように――。
  

父は、公園に行っても、数週間たつと忘れている。
数日後でも、特別なこと以外は、忘れてしまう。
たとえ同じ場所や同じものであっても、何度も感激してはくれるが・・・
嘆きや悲しみの“負の感情”もまた、何度でも新鮮に体感してしまうのだ。

そして、
「どのようにしたらいいのか」「どういうことに気をつけたらいいのか」について、
私の要望(意見)は伝えるものの・・・やっぱり前後左右間違えてしまったり、
自分流に勘違いしてしまったりする。
「認知能力」がないのだ。
たとえば、夜用オムツ着用や、オムツの使い方なども・・・
何度伝えても、そのとおりに実行はできないようだ。

フツーなら、そういうことはできるはずなのだが、
それぐらいの認知力はあるはずだと思いたいのだが・・・
とにかく欠落してしまっている。
実際には、できない。

隣のYさんに言われた。
「お引越してきた頃は元気だったのにね。草むしりや、庭弄りして・・・ね」
「毎日、お庭に出て、お掃除したりしていたのにね」
「えぇ、ほんとに・・・」
笑顔がよく出ていた“あの頃”が懐かしい。
ほんの数ヶ月(1年弱)で、大きく激変してしまったのは、誰もが認める事実である。
「こんなに、変わってしまうのか・・・」と、自分でも思っている。

私も、変わらず・・・
とにかく現実を直視することにも“心を荒れずに”“その度ごとに対処する”ようにと
ただただモチベーションをあげて、常に鼓舞し続けている。
「大丈夫」と繰り返すのは、父に向けてだけではなくて、
実は“自分自身に向けて”発している言葉だと感じている。
しかし、こうして“単純に言葉を繰り返す”だけではあるが、
パワーは湧いてきたりするので、たいへんありがたい。
自分で自分に暗示をかけるかのように、深く、深く浸透するまで“やり続ける”のだ。

もし、“かすかな救い”があるとしたなら、
「頭がいたい。くよくよ考えるからじゃなぁ」
と、父がこぼしたこと――。
少しは、現状認識ができてきたようだ。
やはり、あきらめずに声をかけ続けることは大切かもしれない。

こうして、“私たち二人の日々”は繰り返されている。