孤立感

2006年02月22日 | 雑感 -
どろどろ・・・
もやもや・・・
いらいら・・・
ごちゃごちゃ・・・

ついぞ、こぼれ落ちる言葉・・・「まったくなぁ」・・・。


誰もいない感覚――
相談する人も、助けてもらう人も、
身近には「誰もいない」。

友人には吐き出したりするし、彼らは誠意をもって付き合ってくれるけど、
そういう一時的な愚痴なんかでは満たされない。
きっと本来の私は、それとは違うものを求めているんだろうけど・・・
現実には厳しいんだなぁ。



私は、ずっとずっと「一人で」介護をしてきた。
いつも“孤立感”を感じてきた。
平成10年に逝った母の最期もそうだった・・・。
誰も助けてくれる人がいなくて、手伝ってくれる人もいなくて、
日々のことを聴いてくれる人もいなかった。
地元(四国)の大学病院でむかえた最期の八ヶ月間は、
寝たきりの母をおいて銭湯に行くことさえもできず・・・
本当に疲れ果ててしまった。
ベッドの脇にパイプイスを三つ並べて、毎夜就寝していたのだが、
身体を動かせない窮屈感が、より疲労をつのらせていったのだと感じる。
あの頃の私は、「自分の“助けて光線”が弱かったなぁ」と今は思うし、
気持ちのコントロールの仕方が充分ではなかったと心底思うけれど・・・
それは「今だから」見えていることだったりもする。やはり、誰もがそうだと思うが、
渦中の真っ只中にいるときには、(努力したとしても)冷静な判断は厳しいものだ。
とにかく、「介護生活」って“心身がボロボロになってしまうものなんだ”と思い知った。

    当時の私は、東京に住居(賃貸物件)をかまえていたし、
    ちょうどヘビーな仕事(他の人に代わってもらえない)を担当していたので、
    会社をすぐに辞められず、日帰りの二重生活を繰り返さなければならなかった。
    そして、身を割かれるような数ヶ月を経て、やっと母の元に落ち着いた。
    だから、経済的な負担や、精神的な重圧があって、余計に辛かったのだと思う。
    ・・・ホント、当時の私には、余裕というものが全くなかった・・・。

もちろん、そういう状況の中でも、ちょっとした“ふれあい”で心が満たされたり、
見知らぬ人との交流で救われたりもした。
同じ病室の人たちとは、家族のような付き合いになって、愛情がわいて、
みんなの間に“不思議な連帯感”が芽生えたりもした。
毎朝挨拶を交わし、顔色を見て、寝起きをともにして暮らしていくのだから・・・
「病室」は“ちょっと風変わりなコミュニティ”のようでもあった。
実際、自分の生活や心の風景も、徐々に前向きに変わっていったけれども、
それでも“孤立感”や“淋しさ”を完全に拭い去ることはできなかった。
事実、私は「一人っ子」だし、それは一生変わらないことではあるが、
このことに対する自分の捉え方が“曖昧だった”と、当時の自分を振り返って思う。
何故なら、根拠のない恐れや不安にとらわれて、不安定になってしまったからである。


「いま」の輝きを止めて、不自由に生きるのは“閉塞感”を生む。
永遠に終わることのない「何か」の“先延ばし”は、論理的に考えると、
“自分を傷つけ、周囲をも傷つける可能性をはらんでいる”かもしれない―と思う。

   私は、今、何を求めているのだろう?

   私は、今、何が目的で生きているのだろう?

もし・・・その目的のために「いま」を犠牲にしているのだとしたら、
そういう「今を犠牲にする考え方」は、現在の抑圧や重圧を正当化するための“何か”、
ある意味では“まやかし”かもしれないし、“理由付け”かもしれない―とも思う。

今、ここに存在し、
手を伸ばせばつかめるという、
「人生の意味」「喜び」「悲しみ」「迷い」「苦しみ」さえも味わうことなく、
未来に先延ばして・・・ただ「目的」に向かって歩き続けるだけの人生だとしたら・・・
いつかきっと疑問を感じてしまうかもしれない。

そして、そのときには、おそらく気づいてしまうのだろう。
“自分が歩んできた人生は、一体何のためだったのだろう ”・・・と。

――目的に対する「慮り」。


            ※[慮り(おもんばかり)とは、考えをめぐらせること]
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