著作「クールジャパン!?」の中で、鴻上尚史氏は日本人の精神構造に関する興味深い考察を述べている。
「世間」は日本独特のもので、・・・あなたと人間関係や利害関係のある人たちのことです。対抗する概念は「社会」です。「社会」はあなたと人間的関係も利害関係もない人たちのことです。ご近所や会社、学校、趣味の仲間は「世間」です。
街で、偶然肩が触れ合った相手は「社会」です。日本人は、都会の雑踏で、肩が軽く当たったくらいではいちいち謝ったりしません。相手が「社会」に生きる人だからです。ですが、もし、その相手が会社の同僚とか近所の知り合いの場合は、態度を急変します。深く謝ったり、心配したり、微笑んだりします。相手が「世間」に生きる人だからです。
西洋では、もちろん肩が軽く当たったら必ず声をかけます。軽い謝りの言葉です。・・・欧米では「世間」と「社会」という分類がなく、すべてが「社会」です。声をかける相手と声をかけない相手の区別がないのです。
この分析は私がかねてよりボンヤリ感じていたことを的確に言い表している。具体的な例を挙げよう。
私は朝1時間ほど自宅の近くの公園でウォーキングをする。その際、すれ違う時の人の態度が日本とアメリカではまったく異なる。
アメリカでは、初めて逢った人でも、すれ違う相手の眼を見つめてニッコリ微笑み「Good Morning」と挨拶する。翌日にまた会うと、「Hi! I am Tom(とかGeorge)」と名乗る。鴻上説を借りるなら、すれ違う人はみな「世間」であり、「社会」なのである。
日本では、私がすれ違う人に「おはようございます」と挨拶するつもりで視線を合わせようとすると、半分ぐらいは(特に男性は)横を向く。だから、挨拶の言葉を飲み込んで無言ですれ違う。この状態は鴻上説の「社会」に相当する。
視線を合わせても、挨拶するかどうか相手の表情に迷いがある。その時、すかさず「お早うございます」と声をかければ、相手も「お早うございます」と挨拶を返す。これで、お互いに「世間」になる。
もう一つの例をあげる。日本の住宅地では、道路と庭の間に塀がある。一方、アメリカの住宅地では、隣の家との間には塀があるが、家と道路の間には芝生があるだけで、塀はない。この違いも鴻上説によれば、簡単に説明できる。塀の内側は「世間」で、外側は「社会」なのである。
どちらがいいとか悪いとかいう話ではないが、確かに日本には「世間」が存在する。