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今年の夏、立山連峰に登った。【立山(08/8/10)】
黒部立山アルペンルートは日本で有数の観光地。
行ったことのある人は多いと思う。
長野県側から登る場合は、扇沢に車を置いて、
トロリーバスで黒四ダムに出て、ケーブルカー、ロープウェー、
またトロリーバスと乗り継ぎ、漸く、登り口の室堂平に出る。
私たちは、立山連峰最高峰、3015mの大汝山を極め (ちょっと大袈裟か
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帰りのトロリーバスの中で案内を聴いていたら、
「織田信長が本能寺の変で横死すると、豊臣秀吉と敵対した富山城の佐々成政は
徳川家康に援軍を求めるため、真冬に立山を越え、浜松へ踏破するという
壮挙を成し遂げた。世に言う『さらさら越え』であります」
と言っていた。
私はこの『さらさら越え』なるものを知らなかった。
真夏でさえ、雪渓が残り、9月には初雪が降ることがあるという日本アルプスを
いったい、当時の装備で本当に越えたのだろうか…
私はここのところ、祖父 海音寺潮五郎の著作を読んでいるが、
この『さらさら越え』の話は、「日本名城伝」の“富山城”のところに詳しく書いてあった。
要約すると
「天正14年(1584)秀吉と敵対する佐々成政は、
当時富山城にいたが、家臣の剛の者百人を連れ、
真冬の立山を越え(今でいえば12月)、家康の援軍を求めて浜松に行った。
織田信雄(信長の次男)に求められ、秀吉と戦っていた家康だが、
小牧・長久手の戦い後、信雄が秀吉と和睦してしまったので、
成政が必死になって説くが、秀吉と戦う名目がなくなったと断る。
成政はなんとか、富山まで帰り着くが百人の従兵はわずかに十数人になってしまった。」
という話だ。
これは、ほぼ間違いなく本当にあった話のようだ。
今の装備でも冬山は、よほど経験のあるアルピニストでなければ無理であろうが、
いったい、この頃の人ってどんな体力をしていたのか
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そういえば、今日の「笑っていいとも!」で中村獅童が「黒部の太陽」の舞台をやっていると言ったら、
タモリがこの『さらさら越え』の話をしていた。
この話って有名な話なのね!
興味のある人はぜひ読んでみて下さい。
旅行も歴史を知ると、帰ってきてからも、長く景色が甦ってきて楽しめる。
さらにその先、佐々成政の黒百合伝説の話が面白いけど、またこの次。
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