ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を出て、天神田(字天神の田んぼ)の東を歩きます。
小次郎パパとタバサねーちゃんも、やって来ます。
獅子くんのお食事がおなかなか終わらないので、先に行ってもらいます。
おや、おねだりしています。
みんなおやつのドッグフードが、お気に入りです。
以前は、カットしたビーフジャーキーを持って行ったりもしました。
最近は、シニア用のドッグフードでカリカリのを少し持って行きます。
何かの時に、ご褒美だったり、呼び戻し用に、持って行く習慣になってます。
振り返って赤城山です。
田島弥平旧宅案内所で、付近の案内図をもらいました。
案内所を出て、8⃣の角を曲がります。
角には、桑の陰に碑があります。
「島村蚕種業績之地」の碑です。
桑って、こんな形になるんですか
桑の間から失礼します。
明治の初め、島村は蚕種を直輸出していたのでしたね。
「利根の清流に培われ三百年の伝統を誇りし島村蚕種の灯ここに消ゆ」、寂しい表現です
「願わくは郷土の若人よ一致協力産業信仰に努め再び島村の名を天下に轟かされん事を」、すごいメッセージです
若人の皆さんは、頑張ってください
あれ、でももしかしたら学校がなくなっちゃったんですね
でも、郷土の若人の皆さんは、頑張ってください
角を曲がって突き当たが田島弥平旧宅です。
手前に顕彰碑があります。
弥平の著作「養蚕新論」版木が市の重要文化財とあります。
案内所で、文字の分からない人にもわかるように、絵で詳しく解説されていると説明されました。
その絵を描いたのは、金井烏洲(かないうじゅう)の弟さんだということです。
天保2年(1831)10月、金井烏洲は、渡辺崋山が利根川を渡って前小屋天神の書画会に来た時に、同席しました
華山は書画会の後、烏洲の案内で、高島の伊丹新左衛門宅に泊まりました。
翌朝、烏洲は二ツ小屋の渡しまで華山を見送りました。
散策案内図11、金井烏洲と一族の墓も寄れたらいいな
史跡・田島弥平旧宅の案内図があります。
田島弥平旧宅は、幕末から明治にかけて、優良な蚕種(蚕の卵)を生産する養蚕技法「清涼育」を体系的に完成させ、規範となる養蚕に適した蚕室を発案し、近代養蚕飼育の確立を図った田島弥平(文政5年1822~明治31年1898)の旧宅である。
門の前におじさんがいます。
こんにちは
ここのボランティア・ガイドさんのようです。
井戸ですね。
家紋は、桐の花が7つの五七の桐かな?
大きな母屋です。
おや、「猛犬注意」の貼り紙です
ガイドさんによると、以前はここに犬がいてよく吠えていたそうです。
今は年を取って、家の中にしまわれたそうです。
「え、住んでるんですか」
「住んでるよ。」
「わあ、住みながら見学者を受け入れてるんですか」
「そうだです。だからカーテンは引きっぱなしです。」
住みながら、一部とは言え、自分の内を公開するって、大変なことです。
猛犬も、まさかこんな運命だとは知らなかったでしょう。
大きな大きな母屋です
ありました
「遠山近水村舎」の額です。
京都に行って頼山陽に名付けてもらったと、案内所で聞きました。
遠山は赤城山、近水は利根川です。
おや、鳥居があります。
りっぱな氏神様です
あれ、カエルだ
しっかりカエルにみえる不思議な石です
貞明皇后行啓祈念碑です
大正天皇の皇后、貞明皇后が昭和23年(1948)に田島家を訪問したのです
ガイドさんによれば、さっき入ったあの門から皇后は歩いてこられたそうです。
当時子供で歓迎に出ていて、皇后に頭をなでてもらった80のおじいちゃんもいるそうです。
皇居で、皇后が養蚕をする宮中養蚕の復活にも田島家は関わっていたのです
本来はこちらが正門だそうです。
ガイドさん、いろいろありがとうございました
近くを散策しながら、戻ります
(つづく)