黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

伊勢崎は広かった・その 4(島村渡船と金井烏洲の記憶)

2020-10-05 20:13:45 | 群馬県・中毛

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を北に出て、お散歩です。

ムラサキシキブの実が色づいています。

才媛に見えますか?

堀之内の西側を通って帰ります。

ススキの似合う風景になってきました。

小次郎パパとタバサねーちゃんが、神社の方から帰ってきます。

このガードレールのむこうは、何度かアオサギが飛び立ちました。

 

 

島村渡船→の表示がありました。

ちょっと細い道ですけど、行ってみます。

「島村蚕のふるさと公園」です。

駐車場にもなってます。

案内図です。

少し歩くようです。

あれ、国道17号線も、さほど遠くはりません。

五十子の陣跡(国道17号線・日の出4の信号と四捨坂下の中間あたり)からも、4~5㎞くらいでしょうか?

川の流れは度々変わったということですけど、その昔、左上の粕川と広瀬川が合流したあたり(伊勢崎市の勢の字の下あたり)に、長尾景春の乱を避けて、関東管領上杉顕定が岩松氏・横瀬氏を随えて上陸、上野に退却したといいます。

地図をみると、「さもありなん」という感じです。

そういえば、上野国山上の膳氏・山上氏も五十子に参陣していたといいます。

ここらへんを渡っていたのかな?

 

渡船場へは、ちょっと上り坂です。

やっと、利根川が見えてきました。

ボートが見えます。

やってるかな?

車が2台見えます。

 

「こんにちは

「舟に乗りに来たんかい? 船着き場が、台風で壊れてしまってやってないよ。何度修理しても、台風でやられちまうんだ

「それは残念でした。船着き場の写真だけでも、撮って帰ります。ありがとうございました

ボートは個人の運行のようです。

 

ここが船着き場だそうです。

残念

何度も乗ったという人がいて、勧められていたんですけど。

 

利根の流れを見つめて、さようならです

 

車を止めた案内所に戻ります。

校舎の裏に出入り口があります。

よかった。

近道で、戻れました

 

 

さて、史跡金井烏洲一族の墓も確認していきましょう。

県道258号線に出て帰りながら、ストリートビューで確認した路地を曲がります。

大きな墓地がありました。

何の表示もありません。

「見学用の駐車お断り」の看板があります。

何のことだろう?

ダメかな

道なりに右カーブをのろのろ運転です。

 

あれ、ありました

左側に「史跡・金井烏洲と一族の墓」の説明板があります

烏洲は、天保三年(1832)関西に行って、頼山陽とも交流があったのですね

このころから、画家として高く評価されるようになったのですね。

尾島の前小屋天神で、渡辺崋山と交流したのは、天保二年(1831)10月29日です

翌30日、烏洲は華山を二ツ小屋の渡しまで送りました

 

やっと見付けた金井烏洲の記憶です。

でも、駐車スペースなし

やむを得ず、ウインカーをだして、路上駐車です

大急ぎで、金井烏洲の墓石を探します。

 

む、何だろう?

大正7年に、金井烏洲が勤王の功績によって従五位にですって

 

あそこかな?

後ろにありました

合掌

 

 

自宅をナビに入れて、上武大橋を渡り、国道17号線(上武道路)に乗って帰ります。

三和で降りて、県道293号線で帰りました。

 

境島村への293号線付け根にあるコンビニで、撮影です。

ここの少し先まで伊勢崎市です。

あの道から17号線に乗り、伊勢崎をひたすら南に、最南端の伊勢崎に行ってきたのです

ああ、伊勢崎は広かった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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