黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

天台宗東国伝導教団の建立・月田の東寿寺

2019-07-12 21:45:13 | 群馬県・旧勢多郡
昨日の夕方、やっと獅子丸のレインコート姿が撮れました。



ママの足です
七海ママの倍くらいありそうな体格ですけど、きょうだいの中では、一番ママに似ています




月田の東寿寺で、野口雨情の自筆の短冊を見せてもらった後、本堂内を案内していただきました。

天井絵があります。



いろいろな話も聞かせていただきました。

東寿寺は、元々は山上の芝(しば)にあったんだそうです
1,200年前に、天台宗の東国伝導教団が建立したそうです
そして、そのとき持ってきた薬師仏がご本尊の胎内にあるんだそうです
現ご住職は見たことはないそうですけど、数代前のご住職は解体修理したときに見たと伝わるそうです。

天台宗東国伝導教団で思い出されるのが、上野第四の碑といわれる山上多重塔(やまかみたじゅうのとう)です。



5月にひめちゃんと獅子丸が諏訪神社前を通って西の高台に出て南下、膳城・龍源寺付近を目指した時の写真です。
東から見ています。
覆屋の中に多重塔があります。
その奥の森が、近戸神社(ちかどじんじゃ)です。
ここ東寿寺は、さらにその奥です。
といっても、直線距離だと1kmくらいみたいです。
多重塔の建立者・道輪(どうりん)は、天台宗東国伝導教団つまり道忠(どうちゅう)教団とのかかわりがあるのではないかといわれています


東寿寺は、その後、南の田面(たなぼ)に移ります。
あれ、(大間々)高津戸の自音寺(じおんじ)も、戦国時代は田面にありました。
今でも自音寺沼があります。
この間、確かめました
そこにいた期間は短く、江戸時代の初めに、現在の土地に移ったという事です。


それ以来一度も焼けずに現在に至るそうです。
内陣の重厚さが違います





欄間にも見事な彫刻です





最近この彫刻師は、関口文治郎(せきぐちぶんじろう)だということがわかったそうです
江戸後期の花輪の彫刻師集団は大活躍でしたね。

この日いただいた御朱印です。



この次は薬師如来の御朱印を戴きましょう。


膳城後ろの龍源寺も、元は山上の芝にあったと言います
山上の芝は、かつてはパワースポットだったのです

ひめちゃんと獅子丸がよく行くお散歩コースのどこかに、かつて東寿寺や龍源寺があったかもしれません



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