黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

赤堀道元の娘の面影を求めて(紅葉の赤城小沼)

2020-10-25 21:49:11 | 群馬県・旧勢多郡

今朝は、ひめちゃんは、小次郎パパとお散歩です。

その昔、パパに会うたびに「歌舞伎役者のようだね」と言ってくれるおばさんがいました。

今朝は、ちょっとその頃の面影があるかな?

ひめちゃんとパパは、堀之内を北に出て、高縄の集会所を廻って帰ります。

ひめちゃんは、クンクン情報収集です。

まだ百日草とサルビアが咲いています。

まだまだ見応えあります。

来年は種をまこうかな?

ちょっと痛々しい返り咲きの桜を見ながら、堀之内に戻ります。

赤城山は、大分色づいているようです

 

 

実は、昨日ちょっと赤城山・小沼に行ってきました。

赤城山へのルートは、今は前橋からのルートが一般的です。

けれども、小沼に行くには、赤城南面の三夜沢赤城神社の脇を道なりに上れば着くはずです。

小沼には、赤堀道元の娘の伝説があります。

三夜沢赤城神社の脇・県道16号線で行ってみよう。

遠い昔、石ころだらけの道を、車でやっと降りてきた記憶があります。

どうなっているかな?

 

赤城南面道路・国道353号線に出る前に、百足鳥居(むかでとりい)を通ります。

確かに百足がいます。

「赤城山に登る東南麓の参道として、天明2年(1782)に建てられた。」とあります。

ここにも、赤城山への登山ルートがあったのです

 

北側の風景です。

電波塔のある赤城山・地蔵岳がはっきり分かります

この右の道辺りが怪しいかな?

新里村にも、赤城山への登山ルートがあったのです

 

国道353号線に出て、三夜沢赤城神社の脇・県道16号線を道なりに上ります。

 

舗装されたちゃんとした道になっていました

けれども、カーブの連続、少しも気が抜けません

一体いくつカーブがあるのだろう。

すれ違いは譲り合わなければ不可能な細い道ですけど、対向車が何台もやって来ます

それも、他県ナンバーの大きな車です。

バイクのライダーズも後ろからやって来ます。

帰りは絶対に、通らないぞ

まさに九十九坂(つくもざか)です

 

やっとカーブが終わって、大きな道に出ました。

さて、駐車場があるはずだけど。

駐車場は満杯です

近くに駐車スペースがあり、こちらはまだ置けます。

 

やっと辿り着きました。

重ね着をして(やはり寒いです。)、細道を湖の方に降ります。

わー、小沼だ

湖畔に降ります。

 

湖は輝いて、山の木々は紅葉しています

人影も、けっこうあります。

昔の人のいない湖のイメージだったので、ビックリ

湖の底が見えます。

神秘の湖のイメージです

 

透明な湖の底に何かいるかな?

沖に龍神がいそうな雰囲気もあるけど

 

さて、道に戻りましょう。

この右手が駐車場です。

まさか、いっぱいなんて。

地蔵岳方面に少し行った所に駐車してあります。

 

あれ、ありました

小沼には、赤城南面のむらの豪族赤堀道元の娘が入水して大蛇となり、沼の主になったという伝説が伝わっています。

富士見カルタです。

ここは、旧勢多郡富士見村だったのです。

 

ハイキングコースの案内もあります。

右の大胡赤城線から上って来たのです。

ビジターセンターの方に出て、大沼湖畔を走り、前橋赤城線を帰ります。

大胡赤城線は、こんなにまっすぐではなく、つづら折りだったぞ

 

小沼の説明板もあります。

小沼の伝説として、麓の赤堀道元という長者の16歳になる娘が入水して竜神に変わり沼の主となった悲しい話がある。

こっちは、大蛇でなく竜神になってます

 

あ、ありました。

カーブ91です。

大胡赤城線・県道16号線は、まさにカーブの連続の九十九坂(つくもざか)だったのです

 

地蔵岳が近くに見えます。

いつも見ていますけど、こんなに近くで見ると感激です

この左手に駐車スペースがあります。

 

多少の違いはありますけど、赤城南麓の村には、赤堀道元の娘の伝説があります。

赤堀道元についても、実際はよく分からないようです。

でも、赤堀道元の娘の伝説は、広く知られています。

赤堀道元の娘が沼の主になったという、紅葉の赤城小沼、ちょうどいい時期に訪問できました

 

帰る途中のビジターセンターの辺りも、大変な混雑でした

山を下るときにも、途切れることなく、車が上っていきます

赤城山は、密でした

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阿保氏ゆかりの金鑚神社(阿保比丘尼の面影を求めて3)

2020-10-23 22:09:31 | 埼玉県

雨の一日でしたけど、ひめちゃんと獅子丸が朝のお散歩に出た時は、まだ降り出していませんでした。

ちょっとだけ、秋の花とのコラボ写真が撮れました

お散歩途中にあった、コスモスとのコラボです。

後ろの石は、古墳の石のような感じです。

ザクロの実とコラボです。

ザクロの実は、いっぱいなっていました。

季節外れの返り咲き、白いツツジとコラボです。

大きな後ろの石は、古墳石室の天井石だと思われます。

古墳の石も、ひめちゃんちの近所では、ごく自然に庭石として利用されています。

明治の頃は、山上に40以上も古墳があったとか。

まさに葛に覆われた古墳の村(葛塚村)だったのです。

 

 

 

阿保氏寄進の多宝塔があるという金鑚神社(かなさなじんじゃ)、阿保氏館跡から10分ちょっとという事で、車を走らせます。

広い意味で、阿保比丘尼の面影を求めてになります

迷わずに到着です。

鳥居の前の道は、国道462号線です。

むむ、この夏、鬼石の緑埜寺(みどのじ浄法寺)に行くときに通ったぞ

あのころは、県境を越えての移動はダメということでした。

ナビの指示通りに、やむを得ず通過だけしたのでした。

 

鳥居脇の付近の地図を確認です。

 

大鳥居をくぐると、まもなく右手に多宝塔が見えてきます。

説明板もあります。

天文3年(1534)に、阿保郷丹荘の豪族である阿保弾正全隆が寄進したもので、真柱に「天文三年甲午八月晦日、大旦那阿保弾正全隆」の墨書銘がある。

 

阿保氏にかかわる遺構で、阿保氏の記憶ですね

500年も経ってるなんて思えないほど、しっかり立ってます

 

 

これだけのものを寄進した阿保氏の実力は、相当なものだったのでしょう

足を延ばして良かった

さて、社殿の方に向かいましょう。

 

金鑚神社の由緒があります。

社伝によれば、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の帰途、伊勢神宮で伯母の倭姫命より賜った火打金を御霊代として、この地の御室山(御岳山)に奉納し、天照大神と素戔嗚尊を祀ったのが始まりとされている。

鎌倉時代には、児玉党の尊信が暑く、近隣二十二ヶ村の総鎮守として祀られていた。

 

やはり、阿保比丘尼が生きた時代も、ここ金鑚神社がこの地域の鎮守だったのです

 

社務所があります。

御朱印をお願いします。

書き置きだけということで、日付を入れてもらいます。

武蔵国の二宮だったのです

 

さて、拝殿で参拝です。

あの赤い橋を渡ると、聖なる空間ですね。

古式ゆかしき鳥居をくぐります。

 

真新しい手水社です。

 

隣には、幾星霜を経た付近の案内板です。

鏡岩にまで、行けるかな?

 

ともかく、拝殿で参拝です

拝殿に向かいます。

たくさんの御利益があるようです。

2礼2拍1礼で参拝です。

拝殿の周りを、ちょっとウロウロ。

本殿はなく、後ろの御室山がご神体でした。

ご神体の山への扉が見えます。

 

さて、鏡岩の方へ行ってみます。

おや、鏡岩の説明板のそばに、熊捕獲の罠です。

多宝塔の所でも見ました。

ここはハイキングコースでもあるようですけど、熊が出没するようです。

 

鏡岩の説明板です。

ここから400m上ったところですか?

高崎城が落城したときに火災の炎が明るく映ったんですか

高崎城の落城って何時のこと

尾根続きには御嶽城跡の遺構ですか

阿保氏が御嶽城主の時代もありました

 

ここは阿保氏の記憶がいっぱいの場所だったのです

 

おや、この方はどなたでしょう?

日本武尊とあります。

ちょっとかわゆくて、おみそれしました

 

この先を、しっかり登山の格好で2人連れが行きます。

ハイキングコースでも、ちゃんと準備が必要なようです。

捲土重来を期して、退却です

 

道の脇に句碑がいっぱいです。

俳句愛好者の個人の建立のようです。

こういう自分が生きた証の残し方もあるのですね

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『念仏往生伝』阿保比丘尼の面影を求めて(阿保氏館跡)

2020-10-22 20:18:44 | 埼玉県

今朝は今にも泣き出しそうな空なので、ひめちゃんと獅子丸は、堀之内の北方をお散歩です。

獅子丸も、おかあさんと一緒の時は、ハーネスでお散歩です。

獅子くん、前足が少し上がってます

後ろから、小次郎パパとタバサねーちゃんがやって来て追い越して行きます。

赤と白の彼岸花が咲いていた田んぼの淵も、しっかり刈り取られています。

まもなく、ポツポツと、お空が泣き出しました

早く、帰ろうよ

あまり濡れないうちに帰って、帰ってご飯にしましょう

 

 

(埼玉県)神川町は、神流川沿いの南北に細長い町です。

北半分の地図です。

右側を走る国道256号線、元阿保で左折し、次の信号を右折して進むと、阿保神社があります。

その途中に、阿保氏館跡もあるはずでした。

でも、目に入りませんでした。

 

阿保神社でスマホナビで検索して、いざ阿保(安保)氏館跡へ。

阿保神社の説明板に、「館のすぐ北西に鎮座している」とあったように、本当にすぐでした

 

小さな愛宕神社です。

この左側の道を通って、阿保神社に行ったのです。

目に入りませんでした

横から、もう一枚

風情のある松です

 

説明板があります。

ここが北武蔵野豪族・阿保氏(安保氏)本貫の地なのですね

この館跡は安保氏総領家の居住地として伝えられ、嘉永元年(1848)には、「安保氏遺跡之碑」が建てられている。

 

「安保氏遺跡之碑」って、石宮様の隣の大きな碑かな?

拓本でも撮らないと、文字は読み取れません

安保氏は、鎌倉時代から栄え、戦国時代には没落したと言うことですけど、ちゃんと記憶が残っているのですね

安保氏は北武蔵の豪族だったのですね。

阿保比丘尼(あぼびくに)は、北武蔵の豪族・安保氏の女性で、この付近で念仏往生したのです

 

 

阿保比丘尼の往生譚は、短いので引用しておきましょう

テキストは「日本思想体系7 往生伝 法華験記」(1974 岩波書店)です。

 

第卅七  武蔵国阿保比丘尼
多年念仏者也。至臨終期自云。浄土蓮花既雨下。又云。我前成瑠璃地。如人間水。又光明来照。諸人聞音楽。

 

(非常にマイナーな古典なので、現代語訳等はありません。漢字を眺めての、超意訳になります。)

阿保比丘には、長い間念仏一筋に生きてきました。

そして、臨終の時に言いました。

「浄土の蓮の花は、雨のように降り注いでいます。私の前はもう青い宝石の世界です。蓮池の水は人のようです。」

光明がやって来て、あたりを照らします。

人々は、音楽を聞きました。

 

光明がやって来て、人々が音楽を聞いたことは、彼女が極楽往生した証明になるようです

 

人々が念仏を唱えることによって、極楽に往生できると信じていた時代があったのです

でも、念仏三昧の日々を送れるのは限られた人々だけでした。

 

そんな人達の記録を残した、上野国山上に住む行仙上人は、どんな人だったのでしょう?

 

地図の左下、金鑚神社&大光普照寺にも寄って行きます

 

(つづく)

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『念仏往生伝』阿保比丘尼の面影を求めて(阿保神社)

2020-10-21 21:18:11 | 埼玉県

ひめちゃんは、昨日から新しいハーネスでお散歩です。

今朝は、獅子丸とのお散歩が復活しました。

堀之内の北の方を歩いてきました。

赤城山の紅葉は進んでいるようです。

 

ひめちゃんと獅子丸は、ともに破壊活動は得意です。

でも、獅子丸は、ぬいぐるみの破壊活動はしません。

彼のぬいぐるみは、みんな生存中です

これは、たぶん養子に行くときに持って行ったぬいぐるみだと思います。

ひめちゃんのぬいぐるみは、みんな解体新書されてしまいました。

 

 

 

鎌倉時代に上野国山上に住んでいたという行仙上人(ぎょうせんしょうにん)、彼の編集といわれる『念仏往生伝』に、「武蔵国阿保比丘尼(あぼびくに)」の話があります。

武蔵国阿保って、何処だろう?

いろいろ検索すると、埼玉県児玉郡神川町元阿保あたりのようです。

元阿保には、阿保神社、阿保氏館跡があります。

車で1時間ほどです。

では、行ってみよう

 

阿保神社の住所、埼玉県神川町元阿保1をナビに入れて出発です。

大体まっすぐ南に下ります。

伊勢崎市内を通って、板東大橋で利根川を渡ります。

途中、「塙保己一旧宅→」も見かけます。

どうも鬼石の緑埜寺(みどのじ、浄法寺)に行くときに近くを通ってます

 

ちょっとの不安はありましたけど、無事到着です。

赤い鳥居が目立ちます。

祭礼があるのでしょうか?

幟はないけど、長い竿が立ってます。

村社阿保神社です。

 

大きな大きな目立つ木があります

瘤がいくつもあります。

注連縄が巻かれています。

御神木です

御神木の後ろにも鳥居です。

もしかして、古い鳥居かな?

 

さて、鳥居をくぐって拝殿に向かいます。

鳥居が少し奥まった所にあるのです。

 

落ち着いた社殿です

 

狛犬の脇に説明板があります。

ここ元阿保の地は、中世丹党の秩父恒房の次子實光は元阿保に住み安保氏をとなえ、以後在所名を姓とした。安保氏は鎌倉期から室町さらに戦国期にまでつながっていく。字上宿には安保氏館跡と伝える地があり、周囲は堀に囲まれた300メートル四方と考えられている。館のすぐ北西には当社が鎮座、南西側には安保泰親が室町初期に建立したと伝える大恩寺跡が隣接する。

念仏を唱えて極楽往生したという阿保比丘尼は、阿保氏の女性と考えられます。

この近くに、彼女は生きていたんですね

 

狛犬の歯までしっかりみえるのは、珍しいです。

こどもは、やんちゃ坊主かな?

 

扉は閉まっているけど、空間があるのはいいですね

2礼2拍1礼で参拝です。

失礼します。

奥に色彩が見えます。

もしかしたら、すごい本殿かも

 

後ろの本殿に廻ります。

あれえ、よく見えない

素晴らしい彫刻があるようだけど、網が厳重に張ってあって見えません。

かろうじて、見えた彫刻です。

 

本殿の後ろには、境内社がいっぱいです

赤い屋根の下の石造物は、馬の文字が見えます。

馬頭観音かな?

 

天満宮です。

石宮も堂宇も新しそうです。

近年、何かお祀りする理由があったのでしょう。

 

天満宮の並びは、たくさんの石宮様です。

すごいパワースポットです

 

ここから、鳥居と御神木が見えます。

大きな御神木です

 

御神木の隣は、元阿保公会堂です。

新里で言う集会所でしょう。

神社に公会堂(集会所)があることが、地域の神社なのですね

 

公会堂の裏に庚申塔がいくつもありました。

 

このあたりに、念仏往生を遂げた阿保比丘尼が生きていたのですね

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天神川の謎

2020-10-20 19:34:56 | 天神川の謎

朝、ひめちゃんはおとうさんに叱られました

ひめちゃんは、ハーネスをかじってしまったのです。

ひめちゃんは、ハーネスを付けたままにしておくと、器用にかじって、時にはかみ切ってしまいます

朝のお散歩前に、ミニドッグランに入れてもらって、そのままサークルに戻されていたのです。

今までに、何本のハーネスが犠牲になったことでしょう

 

朝でも、都合で小次郎パパとのお散歩になりました。

堀之内を西に出て、諏訪神社の向こうの高台を目指します。

白いガードレールの辺り、蕨沢川(わらびさわがわ)が流れます。

 

橋を渡って、諏訪神社です。

雲が多いながらも、遠くの山々が見えます。

むむ、おとうだ

 

タバサねーちゃんと獅子丸が、おとうさんを連れて帰ってきました。

 

獅子丸は、黄色いプラスチックの鎖で牽かれています。

実は、獅子丸は、リードを食いちぎって脱走した過去があるのです。

用足しをしながらお散歩したいときに、ちょっとつないでおくのには、食いちぎられない鎖が必要とか。

もちろんお母さんと行くときは、みんなと同じにハーネスで行きます

同じ両親から生まれても、それぞれ性格や技能が違います

 

ひめちゃんとパパは、神社の向こうの高台に行きます

 

北側のサイロの畑は、レタス畑になってます。

西には、榛名山が見えます。

高台の中央を右折して帰ります。

 

赤城山とブロッコリー畑です。

獅子丸が一緒だと、収穫後に落ちている葉っぱに夢中です。

昨日買ったブロッコリーがあるから、今夜は獅子くん大好きなブロッコリーをご飯につけようね

 

畑中を歩いて、神社を過ぎて、おや、きれいになってる

橋のたもとの、百番供養塔と馬頭観音です。

ひめちゃん、なかなかコラボしてくれません。

 

今朝は観音の頭上の馬の顔までよく見えます

文字は、三月二十三日、二月五日、十月三日です。

どういう意味なんだろう

 

蕨沢川を渡って帰ります。

今は蕨沢川ですけど、少し前は天神川でした。

山上城の縄張り図をみてビックリしたものです

本来は天神川だったのです

もしかして、字天神(あざてんじん)が字諏訪(あざすわ)より広いのかな?

 

古い新里の地図で、字(あざ)を確認です。

中央を流れるのは、天神川です。

字天神は、中央下の朱色部分です

字諏訪は左上の赤い部分です。

はるかに、諏訪の方が大きい

では、どうして天神川なのでしょう?

もしかして天神様のほうが、諏訪神社より幅をきかせていた時代があったのかな?

 

常広寺は、竜骨ビジネスだけでなく、天神ビジネスもしていたのかもしれません

 

先日、ひめちゃんとおかあさんは、字天神(あざてんじん)で唯一田んぼでないところ(常広寺の新墓地)で、正徳5年(1715年)の建立の碑文を発見しました。

田中藤左衛門が竜骨を持ってきて、竜骨ビジネスが軌道にのったころです。

この石宮は天神様(いわば竜骨天神)の可能性大です

地名として残るには、正徳5年からだとちょっと遅いかな?

もしかしたら、ここにはもっと古くから天神様があったかもしれません

もしかしたら、りっぱな石宮にリニューアルしたのかもしれません

竜骨を求めて殺到する人々に、お参り対象を広げたのかも知れません

常広寺の焼けた本堂再建がかなったのは、竜骨と天神様のおかげかも知れませんね

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする