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黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

花盛りのムーハウスガーデン2021

2021-05-18 16:10:07 | 日記

ひめちゃんは、夕方は、基本的に小次郎パパとお散歩です

雨の降ってない、昨日のお散歩風景です。

ひめちゃんがリーダーで歩きます。

超高齢のパパは、よほどのことがない限り、ひめリーダーに従ってます。

 

朝は、基本的に、同腹のきょうだい・獅子丸とお散歩です

今朝は、堀之内を北に出て、岩神沼まで行ってきました。

赤城山は姿を見せず、沼は静かでした。

 

お散歩から帰って朝ご飯の後、歯磨きガムで歯磨きです。

手と口を上手に使ってます

あれ、爪が大分伸びてるね。

近いうちに、シャンプやさんに行かなくちゃね。

 

 

 

ひめちゃんちには、昔、グレーのペルシャ猫のムーちゃんがいました。

黒柴の先代、三四郎&サマンサより、もっとおばあちゃんでした。

だから、ひめちゃんちのガーデンは、ムーちゃんちのガーデン、ムーハウスガーデンなのです。

ムーハウスガーデンは、今花盛りです

今回は、バラと芍薬とクレマチスがメインで報告です

 

 

いわゆる青バラになります。

つるバラのはずでしたけど、延びません。

でも、毎年咲いてくれます

 

なんとなく似ているけど、違うバラのようです。

こちらも、つるは延びません。

 

バラの園の夢破れて、バラの名前もほとんど忘れています

 

イングリッシュローズだったと思います。

毎年頑張って咲いてくれます

新雪とコラボです。

 

隣の白いつるバラは、新雪です

日本のバラなので、しっかり覚えていたのかな?

 

こちらも日本のつるバラ、羽衣(はごろも)です

大きく伸びて、椿・有楽にからまってます。

 

大輪の芍薬です

 

ますます元気な、イングリッシュローズ・ザピルグリムです

 

芍薬に見えない芍薬です

 

こちらは、誰が見ても芍薬かな?

鮮やかな色で、ちょっと強すぎるかな?

 

ミニドッグランのフンスに、春から秋まで、元気に咲いてくれます。

不思議な色合いです

 

四国のナーサリーからやって来ました。

確か実がなるはずでしたけど、剪定されすぎて、実がなりません。

 

名前は分かりませんけど、オールドローズです。

小さな体に似合わず、大きな華麗な花を咲かせています

 

確かフレンチローズで、ポール・セザンヌだったかな?

悪条件にもめげず、今年も咲いてくれました

 

大輪のクレマチスです

もう古株です。

悪条件下、こちらも頑張ってます。

 

ふと、実のならないリンゴの木の北側を見ると、見慣れない花が

ランの一種でしょう

 

ジャーマンアイリスも、たくさん咲いてます

また、近日中に「ひめちゃんちのジャーマンアイリス」アップします。

とりあえず、ビオラとコラボがかわいい子だけアップします

まだまだ、雑草のジャングルから救出待ちの子がいっぱいです。

草むしり、頑張ります

 

 

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狛犬3代・網戸城趾の網戸神社

2021-05-17 20:34:26 | 下野国

夕方、ひめちゃんは小次郎パパと、南の方にお散歩です。

すっきり晴れませんでしたけど、雨は降りませんでした。

 

ひめちゃんちでは、バラが満開になってきました。

過酷な条件の中、咲いてくれたバラを紹介しなければなりませんね。

今日は、とりあえず、今一番きれいに咲いているイングリッシュローズ・ザピルグリムです。

たくさんの花と花芽を付けています。

 

 

寒川尼の墓から少し行くと、網戸神社(あじとじんじゃ)です。

鳥居の脇に、「網戸城跡」の説明板があります

築城は鎌倉時代(1185-1333)の初めで、初代城主は網戸十郎朝村です。結城家出身で、父は結城朝光、寒川尼(小山政光の妻・頼朝の乳母・地頭職)を祖母とし、結城家領の網戸郷を治めました。~(中略)~城趾には網戸神社・旧網戸小学校・称念寺(寒川尼と朝村の墓所)があります。

さっきの寒川尼の墓も、網戸城趾の内なのですね。

 

おや、社務所の前に、猫がいます。

かわいい

「こんにちは ここの猫ですか?」

「いいえ、近所の猫らしいです。」

「御朱印をお願いします。」

「どれにしますか?」

たくさん種類があって迷いましたけど、2種類お願いします。

待っている間に、境内を散策です

 

拝殿で参拝です

おや、狛犬がたくさんいます。

3組、それぞれ個性的です。

 

左の方々です。

一番小さな狛犬が、最も古いのでしょう。

このシッポ、どこかで見たことあります。

ある時代には、狛犬のシッポをこんな風に直立に作ったのでしょう。

狛犬らしくない容貌です。

 

反対側、右側の狛犬です。

この顔は、どこかで見たような気がします

やはりシッポが直立です。

向こうに力石があります。

ええッ、「鎌倉時代阿志土朝村愛用の二ッ石」ですって

 

 

拝殿の左・稲荷神社にも、狛狐3代です

 

 

左の3名様です。

やはり、作られた時代が違うようです。

 

右の方々です。

狛狐さんたちに見守られながら、2礼2拍1礼です

 

網戸神社の由緒があります。

当社の祭神田心姫命(水運の神)をいつの頃勧請したか未だ明らかでないが、社殿の再建は平城天皇の御代大同元年(西暦806)10月28日である。

後は、ちょっと読みにくい

 

 

社務所の方から声がかかります。

「御朱印ができあがりました。」

 

猫ちゃん、まだお手伝い中です

たくさんの御朱印の中から、今回いただいた御朱印です。

田心姫命、田と心で、思川の思になります

思川の名の由来という説もあるようですね

 

 

 

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女地頭・寒川尼の記憶

2021-05-16 15:43:56 | 下野国

今朝は、どんよりとした今にも泣き出しそうな空でした

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を北に出ます。

 

岩神沼には、いつものカモさんはいませんでした。

お客さんのカモさんです。

深く垂れ込めた雲に、赤城山は西の端をちょっとだけ見せています。

 

雨だと夕方の散歩が短くなるので、今のうちに足を延ばしておきます。

 

上の新沼(しんぬま)に到着です。

水位がずいぶん下がってます。

でも今朝も、アオサギとシラサギがいます

さてシャッターチャンスを狙いましょう

ところが、自転車のライダーズが4、5名ほどやって来ます。

ひめちゃん達が事故に遭わないように除けてるうちに、シャッターチャンスは去ってしまいました

 

ついでだから久しぶりに隣の童沢貯水池(どうざわちょすいち)も見ておきましょう。

やっぱり、カモさん少ないです。

赤城山には雲が垂れ込めています。

一級河川蕨沢川(わらびさわがわ)は、ここから流れ出しています。

ひめちゃんたちは、蕨沢川にかかる2番目の橋・くるみだはしを渡って帰ります。

 

橋のたもとの竹藪の中に、石宮があります。

秋葉宮、愛宕宮、水神宮とあります。

山火事があったり、蕨沢川が氾濫したことがあるのかな?

 

ひめちゃんの背中のハゲは、ほとんど目立たなくなってきました

早く帰ろうよ

そうだね、お腹すいたね

 

堀之内に戻って、巨大なポピーに元気をもらって帰りました。

 

 

 

 

乙女河岸跡から、乙女大橋を渡って、思川沿いに北上します。

 

石造物がまとまってます。

向こうの土手は、乙女河岸跡の対岸少し北の網戸(あじと)河岸跡辺りです。

延命地蔵です。

合掌

寿命延びるかな?

こちらは、文字が削られています

でも、見ざる・聞かざる・言わざる、かわいい

 

 

網戸神社の参道脇に、寒川尼(さむかわに)の墓です。

大きな石碑がありますけど、全くと言っていいほど、判読できません

真ん中の一番大きいのが寒川尼の墓標のようです。

当山開基の文字が見えます。

寒川尼は、この寺を開基したのでしょう。

 

ウィキペディアによれば、

宇都宮氏や小田氏の祖、八田宗綱の娘で京都で生まれたと思われる。女房として近衛天皇に仕えた経歴を持っていたという。頼朝の乳母の1人となり、やがて小山政光の後妻となったと考えられる。

治承4年(1180年)8月の頼朝による半葉池の挙兵時、大番役で当主政光が在京中であったため、寒川尼は10月に当寺14才の末子(朝光)を伴って武蔵国隅田宿の頼朝の宿所を訪れた。尼は頼朝と往時を語り、末子を側近として奉公させたいと願い、頼朝は自ら烏帽子親となって元服させ、末子は小山七郎宗朝と名乗った(のち朝光に改名)。夫の不在中は妻がその権限を取り仕切るのが慣習であり、この尼の行動によって下野最大の武士団小山氏が頼朝側についたことになり、このことは北関東の武士団の去就に決定的な影響を与えたと見られる。寿永2年(1183年)2月、小氏氏の参戦により、頼朝方は野木宮合戦で勝利する。

文治3年(1187年)12月、寒川尼は「女性たりといえども、大功あるによる也」として下野国寒川郡ならびに網戸郷の地頭職に任ぜられ、女地頭となった。

すごい女性だったんですね

 

野木宮合戦の勝敗に、大きな影響を与えたんですね。

彼らが戦った相手の中に、足利俊綱・忠綱父子がいたのです。

忠綱は、上野国山上に潜伏した後、山陰道に落ていったともいいます。

その忠綱が潜伏したのは、ひめちゃんちのある上野国山上の葛塚城(くずづかじょう)だとも言われています。

 

奇縁ですね

 

石造物は集められた感じもします

向こうに回ってみます。

 

新しいお地蔵様が2体有ります。

合掌

大きな忠魂碑です。

ムム、希典(まれすけ)書ですって

乃木希典さん、いろいろなところに筆跡残しています。

戦場で指揮するだけでなく、戦死者を弔う気持ちも、しっかりお持ちだったんですね

 

ここには、小さいながらも現役らしい堂于があります。

地図では、ここは称年寺とでます。

廃寺ではなく、どこかの寺が兼務しているのでしょう

 

すぐ裏の網戸神社を目指します

 

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思川舟運の拠点・乙女河岸跡

2021-05-15 16:35:34 | 下野国

ひめちゃんと獅子丸は、天神田(字天神の田んぼ)を廻って南の方から帰ります。

何気なく道ばたに、小さな祠です

 

ルピナスが成長しています

種を持ち始めた株もあります。

毎年こぼれ種が活躍してるのかな?

 

庚申塚古墳を通ります。

スッキリ晴れないね

早く帰って、朝ご飯にしましょう

 

 

 

思川の乙女河岸(おとめがし)に寄って帰ります

実は、来るときにも通っています。

でも、広くはない駐車場はなんと満杯でした

密でした

帰りに寄ろうと諦めてきました。

さて、どうかな?

 

よかった、誰もいません

説明板と船の模型があります。

乙女河岸の起源は戦国時代にまで遡るとされますが、注目されるようになるのは慶長5年(1600)7月25日の小山評定からです。この時、徳川家康は会津の上杉景勝を討つべく小山に進軍しましたが、その際武器や兵糧を乙女河岸から陸揚げしたとされています。

帰路は大雨によって渡良瀬川筋の栗橋の舟橋が押し流されていたため、8月4日乙女河岸から乗船し、武蔵国西火災に下船したことが「徳川実紀」に記されています。

 

そうなんですか

 

高瀬舟です。

こういう舟だったんですか

船底が平らなのですね

博物館でいただいた「乙女河岸跡」のパンフレットによれば、

中講積替河岸としての乙女河岸

江戸時代の舟運は年貢米が中心であったが、水深や水勢・川幅などにより利用できる船が制限された。水深の浅い上流では小型の船しか航行できないが、下流では大きな帆船で多量の仏師を運搬することが可能となる。思川は乙女や網戸付近を境に川の様相が変わり、ここから上流へは大型船の航行が出来なかった。

そのため、高瀬舟などの大型船はお止め河岸で荷を一旦下し、小型の都賀船などへと積み替える必要があったのである。乙女河岸は荷の積み替え拠点・中請積替河岸=中次河岸として繁栄した。

そうだったのですか

この高瀬舟は、大型船なのですね

 

付近の案内板があります。

遠くの山々も描かれています

赤城山は、中央の向こうに遙かに見える山です。

乙女河岸からも見えるんだ

 

不思議なものがあります

黒田長政が日光東照宮に寄進した鳥居の一部で、高瀬舟で運ばれたものが落下したといわれてきました。

高瀬舟はこんな大きな重いものも、運んだのですね

 

思川の方に降りてみます

上流の流れです。

かつては、豊かな水量を誇っていたのですね。

向こう岸に渡るにも舟が必要だったのでしょうね。

下流の流れです。

下流の方が、水量が多いかな?

 

川岸を少し散策して、公園に戻ります。

 

レトロな建物は、トイレです。

向こうに、日光に運ばれる予定だった石柱が見えます。

黄色い掲示板には、「イノシシ出没注意」です

 

一番左に見えるのは浅間山、その隣が赤城山ですね。

もう一ヶ所寄り道をして、赤城山の麓の村に帰ります

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乙女の瓦窯跡

2021-05-14 22:08:04 | 下野国

ひめちゃんは獅子丸と、岩神沼に到着です。

沼には、いつもいる黒いカモさんです。

 

更に上の新沼まで足を延ばします。

おや、アオサギとシラサギだ

かなりの距離を置いて立ってます、

サギさんたちは、歩いています

 

まもなく、アオサギが飛び出していきました

向こうに、関の摩崖仏の森が見えます

 

 

 

4月28日、日光裏街道近くの住民は、小山市博物館の企画展「日光山と小山」が気になって、出かけました。

以前に訪問したことはありますけど、あまり記憶が定かではありません。

到着したとき、ちょうど小学生の一行がバスで去る時でした。

よかった、密ではありません

写真撮影禁止だったので画像がありません。

入り口にある、この埴輪変わっています。

顔は人間のようであるし、初めて会いました

 

 

今回は、隣の史跡乙女不動原瓦窯跡(おとめふどうはらかわらがまあと)に寄ます

前回は隣にこんな史跡があるなんて全く気づきませんでした。

下野薬師寺や国分寺の文字が見えます。

ここで焼いた瓦が運ばれていったのです

 

建物も復元されています

 

この辺りは土の広場です。

粘土の保管から調合・熟成を経て、生瓦の形成までの作業空間のようです。

 

こちらは、粘土採掘坑跡ですね。

粘土溜跡、工房跡もあります。

屋根の付いた建物は、工房跡だったのです。

 

更に奥は、瓦集積場跡です。

 

丘の下に、屋根が見えます。

炎の広場です。

焼き上がった瓦は、労役に駆り出された人々の手により、一路下野薬師寺や国分寺へと運ばれます。

そうだったんですか

 

1基だけ、平釜構造模型があります。

2基には屋根が付いています。

 

 

奥の2基は屋根がありません。

往時には、ちゃんとあったのでしょう。

4基全体の遠景です。

瓦を焼く煙が立ち上っていたんですね

 

国指定史跡。乙女不動原瓦窯跡の碑です。

本瓦窯跡は奈良時代に下野薬師寺を始として当地域の重要な寺院に瓦を供給した製造所であります。

本窯跡は昭和五十二年の確認調査から四基の窯跡、灰原、工房跡、住居址が発見されています。平成元年の発掘調査により窯は平窯(ロストル窯)で瓦専門の窯であることが分かりました。

 

瓦専門の窯だったんですね

それにしても、乙女という素敵な地名の由来が気になります

 

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