黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

山名氏の記憶を訪ねて・山名八幡宮(前編)

2021-08-19 16:08:33 | 群馬県・西毛

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を北に出ます。

久しぶりに、赤城山がその姿を現しています。

ひめちゃんは、何故か浮かない顔です。

今にして思えば、予感がしたのかな?

堀之内の出口に、最近自販機があってガラスの破片がよくあります。

気を付けて通ったはずですけど、ひめちゃんは突然「痛いよ」と泣きじゃくります。

後ろの右足が付けません

3本足でなんとか、帰宅します。

 

動物病院の診療開始時間に合わせて、急行です。

幸いにして、切り傷はありませんでした。

痛み止めの注射を2本して、お薬をもらって帰ります。

よかったね。

笑顔が戻りました

もうあの道は通れないね

20年歩いたお散歩コースだけど、ひめちゃんたちは靴を履いていないんだものね

 

 

 

 

旧勢多郡新里村には、有名な「善昌寺縁起」があります。

ところが、安政三年(1774)に刊行された『上野国志』には、記載がありません

毛呂権蔵(もろごんぞう)は、「寺僧の云へるは舟田入道、此地に隠居せり、即こゝに死去せしと、然れども太平記に舟田入道は、建武二年正月十六日、京都の戦に細川耶律師定禅が為に討る、此に依て見れば無稽の語なり、」と書いてます。

善昌寺縁起を写していません。

たぶん、まだなかったのでしょう

毛呂権蔵は、実は(新田郡)世良田村の舟田善昌館跡に住んでいたのです

それは口に出さなかったと思いますけど、善昌寺の僧にとっては、新田のゆかりを信じていないことは伝わったことでしょう

 

奮起した善昌寺側は、「善昌寺縁起」を創作したと思われます。

実は、彼らは、西上州の新田の伝承を持っていたのです。

善昌寺側は、西上州から新田の伝承をもってやって来た人々だったのでしょう。

 

「善昌寺縁起」の〆の日付は、応仁二年(1468)三月三日です。

 

どうしてこの日付にしたのでしょう?

応仁と言えば、応仁の乱です。

そうだ、西軍の大将は、山名宗全(やまなそうぜん)だ。

山名氏は新田氏の支族で、西上州の山名が名字の地です

 

山名氏の記憶を訪ねて、山名(高崎市山名町)に行ってみよう

 

まず、ナビに従って、山名八幡宮を目指します。

「到着です。」のアナウンス

山の斜面の住宅密集地です。

うろうろして赤い鳥居を見付けて、やっと到着です

実はあの断崖絶壁の集落の向こう側でした。

ナビさん、しっかり。

 

 

駐車場の脇には踏切です。

上野三碑・山上碑(やまのうえひ)の案内もあります。

歩いて行けるのかな?

 

山名駅を見ながら線路を渡ります。

 

 

線路を渡って、脇から楼門をくぐります。

楼門には、左右に神馬と神将です。

 

 

赤い元気な二の鳥居です。

手水舎の所に、神社の由緒がありますけど、かすれて読めません。

御朱印と一緒に頂いたパンフレットからの引用です。

社殿によると山名八幡宮は源氏の一族新田氏の祖義重の子、義範が宇佐八幡宮を勧請したと伝わります。また後醍醐天皇の孫君長親王が当社において安産の祈願をし無事に良王君が生まれ、健やかに成長されてより安産と子育ての神として長きに渡り称えられてきました。

 

 

いきなり、右側に山名一族の神馬です

ここ山名は、山名氏の名字の地なのですね

 

 

階段脇には、いかめしいそうな狛犬です。

階段を登って、拝殿で参拝です

おや、カラフルな彫刻があります

 

 

社務所で御朱印をお願いします。

 

 

御朱印を頂いて、境内散策です

 

 

犬の親子ですね。

犬の親子と二股大根があります。

親子仲良くということかな?

あそうだ、犬はお産が軽いとか言います。

実際はそんなことはなく、それなりに大変です。

安産の祈願かな?

 

 

本殿は、カラフルな彫刻でいっぱいです

名のある彫刻師が、関わっていそうです

 

 

(つづく)

 

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弥勒寺音八の金色の竜・冠稲荷神社

2021-08-17 17:01:56 | 群馬県・東毛

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を西に出ます。

あれ、大きな鳥がいます。

お久しぶりのアオサギさんです

去年は、よくここら辺にいてくれました。

 

ひめちゃんたちは、蕨沢川を渡って、諏訪神社を目指します。

ちょうど通勤ラッシュの時間でした。

黄色い帽子の集団は来なかったけど、車がいっぱい来て渡るの大変だったね

 

神社には、珍しく白い百合が咲いていました。

今朝は2人とも、階段を登りたくなさそうです。

雨も降りそうだから帰りましょう。

境内には、何本か返り咲きのツツジが咲き始めました

帰宅直前に小雨が降り出しましたけど、なんとか濡れずに帰れました

 

 

 

(8月13日)

鳥山菅原神社の後、ナビに従って冠稲荷神社(太田市細谷町)に到着です。

 

おや、いつもの鳥居ではありません。

稲荷幼稚園の隣の鳥居です。

めだたなく鳥居の説明板があります。

タモリさんが一部を漆塗りした鳥居ですか

 

参道を進みます。

 

最初に出会った社殿です。

七福神おそろいです。

14度の拍手拝礼とあります。

やってみると、大変です

 

 

本殿と社務所が見えてきました

社務所で御朱印をお願いします。

今は書き置きしかやっていないそうです。

たくさんの種類がありました。

気に入った御朱印をいただきます。

 

 

神社の由緒があります。

冠稲荷神社は社伝に依れば、天治二年(1125)に源義国(新田義重の父)がその館(新田郡尾島町岩松)の鬼門にあたる細谷に一族の守り神として創建したと伝えられる古社で、日本七稲荷のひとつに数えられる。

~(中略)~

(本殿)外壁にはめこまれた彫刻は、「琴棋書画」を題材とした本殿背面の彫刻が明和四年(1767)上州花輪村(群馬県勢多郡東村)の彫物師前原藤次郎・小倉弥八等によるもの、「虎渓三笑」などを題材とした側面の彫刻が文化十二年(1815)の武州大里郡川原明戸村(埼玉県熊谷市)の彫物師飯田仙之助等によるものである。

聖天宮は境内に残る古墳上に建てられており、間口2.9m、奥行き3.9mの四方入母屋造り正面唐破風付きという形式の建物である。棟札によると安政四年(1857)の再築で、佐位郡下渕名(佐波郡境町)の宮大工棟梁弥勒寺音次郞(弥勒寺河内守照房)の手になる建物である。彫刻は音次郞の子音八による。

 

 

まず、弥勒寺音八(みろくじおとはち)の金色の竜がいる聖天宮に参拝です

確かに古墳の上です。

鈴を鳴らさずに、2礼2拍1礼です

みごとな彫刻がいっぱいです

 

天井の金色の竜を確認です。

元気をいただきます

 

 

拝殿で鈴を鳴らさずに参拝です。

 

本殿の彫刻も確認です。

雨のせいか、白狐が引き立って見えます

 

元気をいただくには、極彩色の元気な社殿に参拝ですね

 

たくさんの種類の御朱印がありました。

でも、やはり8月限定の御朱印をいただきました。

 

それから、最初にお参りした七福神の御朱印もいただきます。

 

明るく元気な社殿と楽しくかわいい御朱印で、元気回復できました

 

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クビアカツヤカミキリに苦戦中の天神様(鳥山菅原神社)

2021-08-16 16:28:49 | 群馬県・東毛

久しぶりに、雨の心配がない朝のお散歩です

二季咲きの紫陽花が、咲いています。

篠の葉っぱを食べてから、出発です

 

ひめちゃんと獅子丸は、岩神沼に到着です。

あれ、アオサギが飛び立って行きます。

カメラが間に合いません

行っちゃったね。

逢えるかも知れないから、上の沼まで行ってみようか

 

ひめちゃんと獅子丸は、少し足を延ばして、新沼に到着です。

あれ、誰もいません。

右奥の森が関の摩崖仏の森です。

 

隣の童沢貯水池も覗いてみます。

奥の高木にシラサギです

みんなは朝のパトロールにいってるのかな?

ミドリ沼が普通に戻り始まってます

 

ひめちゃんたちは、乳牛の子牛さんの前を通って帰ります。

 

 

 

 

最近、悪縁が多くて、ちょっとお疲れママです

良縁を求めて、久しぶりに冠稲荷神社(かんむりいなりじんじゃ 太田市細谷町)に行ってみよう

 

8月13日、雨の中、県道78号線(太田大間々道)をひたすら南に下ります。

薮塚を過ぎて、石橋十字路を過ぎて、おや墳丘状に神社がある

太田市鳥山上町で、ちょっと寄り道です。

鳥居に額がありません。

何神社だろう?

鳥居の左下に目立たなく、村社菅原神社とあります。

もともとは天満宮で、明治期に近隣の神社を合併して改名したのかな?

 

 

おや、見慣れないモノがあります

桜の幹に巻き付けてあります。

特定外来生物クビアカツヤカミキリに注意ですって

クビアカツヤカミキリって何だ?

 

ウィキペディアによれば、

体長22 - 38mm。体全体は光沢のある黒色で赤色の前胸が目立つ。黒色の触覚は体長と同等かそれ以上の長さになる。日本では2012年(平成24年)に愛知県で初めて発見されて以降、分布を拡げており、他地域でも見つかっている。

繁殖力は大変強く、1匹の雌が100 - 300個もの卵を産む。日本では孵化して2年後の6月中旬 - 7月下旬に成虫となり、幹から脱出して交尾した後に産卵するというサイクルを経て、個体数を増やす。別名に「麝香」とつくように、成虫は芳香を分泌する。これとは別に、雄はフェロモンによって雌を誘引する。

公園や市街地の街路樹に生息し、サクラ、ウメ、モノなどのバラ科樹木に寄生する。

~(中略)~

駆除・防除には薬剤が使われるほか、産卵管を通さない0.4mmメッシュのネットも開発されている。

 

青いのは、産卵管を通さない0.4mmメッシュのネットですね

青いネットが何枚も巻かれています。

ここは、そうとう被害を受けたのかな?

 

天神様、特定外来生物クビアカツヤカミキリに苦戦中です

 

踏みつぶせとありますけど、今日は姿が見えないようです。

 

 

社殿も墳丘上にあるようです。

階段を登って参拝です

額はやはり天満宮です

後ろに円墳のような墳丘があり、ここもそれなりの高さなので、もしかしたら前方後円墳?

説明板等は見当たりません

 

 

社殿の東側から、墳丘上に登れるようです。

雨で足場が悪いけれど、傘を杖代わりに登ってみましょう

 

登り口に、たくさんの石宮様です。

麗夫尊神って

初めて聞く神様の名前です

大正6年に何かあったのかな?

 

墳丘の上には何もありませんでした。

青いメッシュネットを巻いた桜の木が見えます。

 

八坂神社前の桜の大木にも、メッシュネットです。

天神様、クビアカツヤカミキリに負けないで

また桜の季節にうかがいます

 

 

 

 

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10年も前に盗まれちゃってねえ(江田山最勝寺)

2021-08-15 15:38:25 | 群馬県・東毛

今日も冷たい雨です

みんな貧乏カッパでお散歩です。

 

獅子丸が実家に帰ってから、2年と2ヶ月あまり経ちました。

たいしたトラブルもなく、実家に溶け込んでます。

でも、順位はどうなのかな?

赤ちゃんの頃の、ひめちゃんと獅子丸です。

下にいるのが獅子丸です。

琥珀丸と獅子丸です。

こちらも下が獅子丸です。

きょうだいで、獅子丸だけが白足袋をはいていました(足の先が白かったのです)。

獅子丸は、おっとりした優しい子だったようです。

7年間の養子生活でも、その気質は消えなかったようです

 

ケンくんや小太郎などのよその雄犬に対しては、「僕の方が強いんだぞ」とやるので、要注意ですけど。

雄犬同士は順位が付けばやらなくなると言いますけど、まさか戦わせる訳にはいかず、要注意です

小次郎パパにたいしては、先住犬として、対決を避けています。

 

実家に帰った時、生みの母・七海ママがいたことも実家に馴染むのにとても好かったことです。

高齢ではあっても、群れのリーダーはママでしたから。

獅子くん、帰る実家があってよかったね

 

 

 

矢抜神社から東に走ります。

お寺があります。

ちょっと寄って行きましょう

天台宗江田山最勝寺(太田市新田下江田町)です。

 

まず大きなお地蔵様です。

こんにちは

 

水桶の数からすると、檀家は少ないかな?

 

石造物も整理されています。

個性的な青面金剛です。

腰の辺りに2鶏がいます。

 

本堂で参拝です。

ちょっと近づきがたい感じです。

少し離れた所で、合掌

 

 

『群馬のお寺 天台宗Ⅰ』(平成11年 上毛新聞社)によれば、

(『木崎町郷土史』に)最勝寺の前身は南北朝時代、南朝の天皇であった長慶天皇の乳母が、天皇の崩御を聞いて当地に草庵を結んだのが「西勝印」であるとし、天文年中(1532~1555)に慶尊法印が開山した寺であるという。ただし、慶尊については不詳としている。

長慶天皇の悲運な逸話や伝説は各地にあるが、最勝寺の西方にある矢抜神社を祀る前方後円墳や下江田集落のまん中辺にある下江田御門と呼ばれる墓地の凝灰岩製層塔が長慶天皇の墓といわれている。~(中略)~

最勝寺には、乳母が天皇追善供養の為に造立したと伝えられる地蔵堂がある。これは光珠院と称する御堂で、中に地蔵菩薩が安置されている。

 

 

おや、軽トラックでおじさんがやって来ます

髪の毛があるので、和尚さんではなさそう。

でも、ここの人みたい

 

「こんにちは あのう、地蔵堂にすばらしい仏様があるとかいうことですよね。」

「それは、盗まれちゃったんだよ もう10年も前さね。扉を開けたら無かったんだ それから盗難届を出したんだ。墨書で最勝寺とあるから、出てくれば分かるんだけどね。」

「そうなんですか。いったい誰が持って行ったんでしょうね 本堂のお隣はご住職さんのお住まいですか?」

「倅のさね。」

息子さんが住職みたいです

「御朱印やってますか?」

「うちはやってないよ。」

「ぜひ始めて下さい。そのうちにまた御朱印いただきに来ます

おじさんは、新しい家屋の方に消えて行きました。

 

 

主のいない地蔵堂に参拝です

あの厨子の中にあったのかな?

天井絵があったかな?

 

境内の整備など新しい時代が、始まっているようです。

またそのうちに、御朱印をいただきにうかがってみましょう

 

 

 

 

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前方後円墳に鎮座・矢抜神社(新田下江田町)

2021-08-14 20:55:23 | 群馬県・東毛

ひめちゃんと獅子丸は、は、今日も貧乏カッパでお散歩です

最近は、ピンクの水玉ビニール風呂敷を売ってません

ひめちゃんは、朝顔柄の貧乏カッパでお散歩です。

 

稲穂がおおきくなった田んぼには、案山子(かかし)が出現です。

 

おや、野菜畑にも、何やら防鳥グッズのようなものがみえます。

かなり手の込んだ造りです

効果あるといいね

 

 

 

先日、お盆には少し早めに、実家の墓参に出かけました。

実家も既になく、墓参だけのお盆です。

国道17号線(上武道路)の信号・尾島工業団地で左折、石田川の北から回り込みます。

おや、赤い大きな鳥居です。

村社矢抜神社です。

村社の文字だけ朱がありません

 

桜の古木が目立ちます。

桜の季節に再訪できるといいな

拝殿で参拝です。

 

右手に矢抜神社傳導板があります。

万治一年(1658年)中江田、下江田に分社され、太田市新田下江田町本郷甲500番地に鎮座する。

 

そういえば、すぐ北の中江田にも矢抜神社がありました。

ここは下江田の矢抜神社です。

たくさんの神様が祀られています

 

社殿の後ろには、矢抜神社の山椿の説明板です。

神社が祀られているところは、二ツ塚古墳と呼ばれる前方後円墳で、すでに原形は失われていますが、周濠を思わせる痕跡もあり、埴輪片や土器も出土しています。

このあたりは中世新田氏の一族江田氏の所領で、江田郷と称した地でした。その後、南北朝の争乱で新田氏が敗れたため足利氏の支配に移り江田郷も分割され、当寺中江田森下にまつられていた矢抜神社を分社し、中江田と下江田の現在地へ勧請してまつったと伝えられています。

 

ここは前方後円墳だったのですか

今、前方後円墳の上にいます

中江田森下にあった矢抜神社は分社して移転、中江田の矢抜神社と下江田の矢抜神社になったのですね

 

それにしても、前方後円墳ですって

古代には、この近くにかなりの実力者がいたと言うことです

 

墳丘上に、たくさんの神様がおいでです。

 

お手長様、さっき火伏せの神とありました。

どんなお姿なのでしょう

 

伊佐須美様、稲作の神です。

 

椿の丘に、みなさま鎮守です

種から新しい子が生まれています

 

おしら様、養蚕の神様です。

昔、養蚕農家では蚕のことをこう呼んだとか。

 

秋葉様(あきばさま)、防火・火難よけの神様です。

 

諏訪様(すわさま)、さっき当地開拓の神とありました。

お諏訪様は、軍神の面だけでなく、開拓の神様の面もあったのですね

 

みなさんに2礼2拍1礼です

 

 

桜の古木に心惹かれながら、さようならです。

桜の季節に再訪しましょう

むこうに青い赤城山が見えます

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