黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

内膳殿の内室は上州膳の城主因幡守の妹なり(桐生代々の事、付けたり、細川滅亡の事・その 5)

2024-10-04 21:28:42 | 桐生老談記の世界

雨の一日です

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、一日中おうち犬で過ごしました

ひめちゃんは完全室内犬を目指して、いろいろ考えているようです

明日は晴れ間がありそうだから、お外犬になろうね

おうち犬が居ると、掃除機がかけられないのです

怪獣に見えるようです。

 

4年前、2020年の10月の黒柴家族の画像を探すと、小次郎パパが結構あります。

ひめちゃんは、小次郎パパとも、よくお散歩していたようです

 

2006年生まれのパパは14歳でした。

群れのリーダは姉さん女房の七海ママで、穏やかなパパでした。

 

 

 

桐生代々の事、付けたり、細川滅亡の事・その 5(内膳殿の内室は上州膳の城主因幡守の妹なり)

 

桐生より度々所望致されしに、細川おしんで渡し給わず。

是を野心に思し召し、津布久常陸之介を大将として、天文十三年甲辰三月二日、細川を追い散らし名馬をうばいとり、新領家老有坂右京、一色修理というもの心変り、依って内膳殿夫婦自害におよび、修理は行方なく出奔す。

扨て内膳殿の内室は上州膳の城主因幡守の妹なり。

扨て右京は家の宝をうばいとり、上州竜舞村のしゅうとの里に退いて、土民となり、扨て、細川跡に津布久常陸之介差し置けり。

誠に応永十九年より天文十三年(1412~1544)迄五代の間、百三十三年にして亡びにけり。


 

あらすじです。

小雀がほしいと何度も桐生親綱から言われたけれど、細川内膳は惜しんで渡しませんでした。
親綱は、細川家には不相応だと、津布久常陸之介を大将にして、天文13年3月2日に攻撃し名馬小雀を奪いとりました
細川家臣の有坂右京、一色修理という者が裏切り、内膳夫妻は自害しました
修理の行方はわかりません。


内膳の妻は上州膳の城主因幡守の妹でした。
有坂右京は主家の宝を奪い取り、竜舞村で、帰農しました。


細川家領地・菱には、津布久常陸之介を置きました。
細川家は、応永19年より天文13年(1412~1544)迄五代の間、百三十三年で亡んだのです



八条殿からもらった馬・小雀が原因で、菱領主細川家は滅びました。
どうして、親綱はそんなに小雀をほしがったのでしょう?
それは、小雀がまさしく名馬だったからです

八条殿は、実は大変な有名人であるようです。
扇谷上杉朝顕(おおぎがやつうえすぎともあき)は、現在の埼玉県八潮市八条に館を構え、八条上杉氏を称したといいます
その曾孫が、八条近江守房繁(はちじょうおうみのかみふさしげ)です。
彼は馬術の達人として、独自の八条流をなしたそうです

八条殿は、永正5年(1508)に『糠部九ヶの部焼き印図』を著したといわれます。
青森から岩手にわたる南部地方に、かつて糠部(ぬかべ)郡がありました。
あまりの大郡であるため、9つの戸(へ)に分けたのだそうです
この地方は名馬の産地として有名で、どこの戸の産であるかを示すため、馬に焼き印を押したとそうです



残念ながら、『糠部九ヶの部焼き印図』の原本は失われたようですけど、『七戸町史』第2巻第六篇中世に、馬焼き印想像図があります。

IMG_5131 (2)

名馬小雀には、雀の焼印があったのです
八条殿から小雀を拝領した細川内膳も、馬術の達人だったのでしょう



初稿  2019.09.20  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」
改稿  2024.10.04

 

(つづく)

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内膳の時、都八条殿より小雀という名馬を拝領す(桐生代々の事、付けたり、細川滅亡の事・その 4)

2024-10-03 20:20:29 | 桐生老談記の世界

タバサねーちゃんは、16歳と3ヶ月になります。

酷暑の夏を、なんとか乗り切りました。

密生する毛質で、暑さとかゆさで、自分で引っ掻いてしまって、あちこちハゲを作ってしまいました

でも秋風が吹いたら、白い毛が生えてきています

まだまだ短いですけど、自己回復能力があったのです。

毛深いタバちゃんが復活するといいね

 

2020年の10月、ひめちゃんとタバサねーちゃんが一緒の写真を探しますけど、アップされてません。

一緒にお散歩することはあんまりなかったようです。

タバサねーちゃんは、小次郎パパや獅子丸とお散歩していたようです。

タバサねーちゃんが、リーダーシップとってる感じです

 

 

 

桐生代々の事、付けたり、細川滅亡の事・その 4(内膳の時、都八条殿より小雀という名馬を拝領す)

 

天文十一年(壬寅1542)頃という、爰にまた野州足利郡下菱の領主細川内膳と申すは、元来摂津の細川分流として、京都に籠もり居る細川丹後という者なり。

其の頃野州小俣の郷主渋川の名跡に丹後をけい約して、応永十一年に野州小俣下り、時に家中外腹の隠し子を取り立て、名跡丹後をそしり、違変して知行に入らず。

細川力及ばず、関東公方足利持氏公へ訴え、彼の少地を拝領して、其の秋より下菱に住居す。

其の子修理裕、其の子丹後、其の子主膳、其の子内膳、五代繁栄と云えども、内膳の時、都八条殿より小雀という名馬を拝領す。

 

あらすじです。

天文十三年(1542)頃のことだといいます。
下野の国足利郷下菱の領主細川内膳の初代は、摂津の細川氏の分流で、京都にいた細川丹後という者です。
小俣領主渋川氏の名跡を継ぐ約束で、応永11年(1404)に下向しました。
ところが、家中は外腹の隠し子を領主に取り立て、約束を破り、彼に名跡を継がせませんでした
細川丹後は力及ばず、関東公方足利持氏に訴え、少しばかりの領地をもらって、その秋から下菱に住んだのです
その子修理裕、その子丹後、その子主膳、その子内膳、五代繁栄しました。
そして5代目内膳の時、都の八条殿より小雀という名馬を拝領したのです。

 

菱はかつては下野国、今ではなぜか桐生市菱町です
菱(桐生市菱町)の細川氏についての史料は、ほとんどないようです

けれども、細川丹後が登場する菱カルタが2枚あります

 

菱には、細川内膳の屋敷門があり、小雀観音もあります。

5代目内膳の時に、運命の名馬小雀を拝領したのです。

細川内膳の物語・総集編(『桐生老談記』にみる細川内膳)


小雀については、後ほど詳しく

 

 

初稿  2019.09.16  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.10.03

 

 

(つづく)

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大炊之介祐綱かくしつ風にてむなしくなりて(桐生代々の事、付けたり、細川滅亡の事・その 3)

2024-10-01 22:33:17 | 桐生老談記の世界

ひめちゃんは、いくらか秋めいたので、延び延びになっていたワクチン接種に行ってきました。

帰りには、動物病院の近くに、ひまわり畑→の表示を見つけて、ちょっとだけ寄り道してきました

そういえば、ここのひまわり畑は、ちょっと遅めの今頃です。

入れ替わり立ち替わり、けっこう訪問者がいました

 

3年前(2021年)は、タバサねーちゃんが、ここのひまわり畑(みどり市笠懸町吹上)を散策してます。

 

 

 

 

桐生代々の事、付けたり、細川滅亡の事・その 3(大炊之介祐綱かくしつ風にてむなしくなりて)

子息三郎義綱、其の子太郎正綱舎弟左衛門の尉通俊其の子六郎親安、其の子靱負尉繁綱、其の子大炊之介祐綱かくしつ風にてむなしくなりて、人前に出る事叶わず、依って入道して天心と云う。

野州壬生の城主の婿なり。

此の人自然に兵法の術を得て、一足にはしる事飛鳥の如くなり。

去れども世続なくして、佐野又次郎親綱、六歳の時、養子に乞い請けるなり。



あらすじです。

(桐生家の当主は豊綱の後)その子三郎義綱、次はその子の太郎正綱、その次は正綱の弟通俊、次はその子親安、次はその子繁綱、次は大炊之介祐綱(すけつな)です。
祐綱は、かくしつ風になって、人前に出ることができなくなり、出家して天心といいました。
彼は下野の壬生城主の婿でした。
彼は自然に兵法の術を習得して、飛ぶ鳥のように早く走ることができました。
けれども世継ぎがいなくて、佐野又次郎親綱(ちかつな)が6歳の時に養子に迎えました。



桐生家の当主が、歴代順に記されています。

前回では、桐生家の祖は綱元で、桐生小太郎と号しました。
その末裔国綱が柄杓山城を築き、西方寺を開基しました。
嗣子がなくて、佐野家から豊綱を養子に迎えました。

続く世代が述べられていきます。

特に大炊之介祐綱はかくしつふう(鶴膝風)にかかって、人前に出られなくなり出家したといいます。
鶴膝風とは、字の如く、足が鶴のように痩せ細って歩けなくなる病気だそうです
天心と号したといいます。
彼は下野の壬生城主の婿だったとあります。
壬生に行ったのではなく、桐生にいたと思われますから、壬生城主の娘が嫁に来たということでしょう。
その次の記述が不可解です
歩けなくなったはずなのに、自然に兵法の術を習得して、飛ぶ鳥のように早く走ることができたといいます
不可解でーす

「兵法と天心」を検索すると、「天心流兵法(てんしんりゅうひょうほう)」がありました
新陰流支流の古流武術で、技法の主軸は柳生宗矩の工夫によるそうです。
天心流兵法は、剣術、抜刀術、槍術、十文字槍術、薙刀術、鎖鎌術、柔術を含む兵法とあります。
なんとなく、天心の号が連想されてしまいます


桐生氏に関しては、軍記物の世界と中世の資料から浮かび上がる姿とは、かなり違うようです

 

 

初稿  2019.09.14   FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.10.01

 

(つづく)

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