日本のかつての大衆文芸は、凄まじいエネルギーを持っていたものと思う。
子母沢寛、大佛次郎、池波正太郎など、錚々たる人間山脈がそこにはある。
しかし、その中でも松本清張は抜きんでている。
かつて、ある評者が松本を日本のバルザックと称したことがある。
その、カバーする分野、筆量、執筆数、いずれをとっても並々ならぬエネルギーで、バルザックに比されるのは当然ともいえる。
しかし、松本自身は、必ず一日、八時間の睡眠をとり、深酒もせず、極めて節制した、規則正しい生活を送っていたという。
「怪物」とは、案外、抑制された、自己管理の行き届いた人物が称せられるのかもしれない。
それには、松本の前半生の不遇も十分、影響しているとは思うが・・・
神楽坂夕景映える夏どなり 素閑
まったくも動かぬ山稜夏近し 素閑
京伝といふも夏への隣ばへ 素閑
夕暮れて夏近き寺作務の僧 素閑
鉄塔の湾曲の列夏近し 素閑
鬼が棲む林に分け入り夏近し 素閑
単線の波濤の想ひ夏近し 素閑
船べりに釣り糸重く夏近し 素閑
母恋ひし鹿の子に聞けや夏近し 素閑
畔で捕る籠の小鳥や夏近し 素閑
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この前、暖房をつけていたと思ったら、昨日は暑い暑い。
家の中では、上半身、裸でいた。
今年の気候はちょっと変だ。
寒かったり、暑かったり・・・・
夏が猛暑でないといいのだが。
ひざまづきさて立ち上がり風光る 素閑
方便を奨める僧や風光る 素閑
西の茜東の闇や風光る 素閑
小田原を朝発ち箱根路風光る 素閑
大塔の宮風の光りて五輪塔 素閑
ちまたでは野球に湧いて風光る 素閑
恩師訪ひ亡き身と知れり風光る 素閑
ビルの間に風と光の茶房かな 素閑
暮れて瞼閉じ日の中のかぜひかる 素閑
壮途発つ朋輩送り風光る 素閑
坂道の垣の梢に風光る 素閑
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朝起きると頭が重い。
すっきりした目覚めが得られない。
歳だから、と言えば、それまでだが・・・
どうも、一時のように、快適な目覚めというものは無理のようだ。
春だから?
何か違うような気がする。
ただただ不平不満を言い散らかす毎日である。
青き踏む高楼仰ぐ広き庭 素閑
昼酒に酔ひつ踏青の夢見かな 素閑
遠き山青踏み霞に揺れにけり 素閑
踏青や蝶のはねにて及ぶまで 素閑
あくまでも足裏痒し踏青や 素閑
くさはらの花は踏まじと踏青や 素閑
浩しかな青踏みてにじむ春の汗 素閑
踏青や嫁がぬ娘に愚痴告げて 素閑
松の根にながむる原の踏青や 素閑
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4月も半ば過ぎ、春も去ろうとしている。
風と光の初夏が来るのに、物寂しいし、春を惜しむ心持が強い。
生が旺盛に突出した春との惜別の情だろうか?
オカブも、だんだん朽ち果ててきた。
ゆく春の花の梢のなま風や 素閑
生一本舐めて甘口ゆく春や 素閑
ゆける春かくてひととせ過ぎにけり 素閑
春あこがるゆきて法師の示寂かな 素閑
ゆく春や田の畔の辺に芹生ゆる 素閑
行く春に帆掛け船の帆畳みける 素閑
市の子も行ける春にて憂き売り声 素閑
ゆく春や大江の辺の土よもぎ 素閑
ゆく春や仁王の埃の千社札 素閑
ゆく春やほとけの苔も乾きけり 素閑
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昨日まで、肌寒い天気が続いている。
余寒とでも言うのだろうか?
家ではストーブなども炊いている始末だ。
今日から、からりと晴れ、晩春らしい陽気になるという。
木の芽時の鬱陶しさを、取り払ってほしいと願うのみである。
木の芽雨にわかなこだま暁がらす 素閑
着たきりの薄ジャンパーの木の芽時 素閑
ポケットに硬貨冷たき木の芽時 素閑
雲動きわずかな日降り木の芽時 素閑
かさこそと虫葉を鳴らす木の芽時 素閑
木の芽立ち草むらに入り濃き匂ひ 素閑
花散りて芽立つ野山や老ゆ時節 素閑
歓びも雨と砕けぬ木の芽時 素閑
この世去り地獄に芽立つ渡世かな 素閑
土壁に空拡がりて木の芽時 素閑
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寒い。
これまでの暑さは、どうしたものだろうか?
昼過ぎには雨まで降り出した。
とにかく天候が不順だ。
この肌寒さで、少し風邪気味だ。
しかし、自分にとっては暑過ぎるよりも快適だ。
勝手なものである。
春曇り艫綱とけり沖に出で 素閑
春陰にとかく小言のやまぬ妻 素閑
春陰の荒れた野道の油彩の画 素閑
春陰や荒磯の波も鎮まらず 素閑
春陰の山里の鐘時告げて 素閑
春陰の山躑躅ことなまめきて 素閑
春曇り草の繁みの生臭き 素閑
春曇り風体知れぬ山のやど 素閑
春陰や厨の煙りも籠りたる 素閑
春陰や煙突三本立てる町 素閑
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はっきりしない天候が続いている。
好天になって、春から暑い思いをするのも嫌だが、鬱陶しい天気の下にあるのも気が重い。
とはいえ、気温は高いのだ。
春暑しといってもいいのだが、日の照り返しがないのと風がそこそこ強いので、暑いというほどでもない。
日々是好日とはいえ、天気による気分の上げ下げは、春の風物でもある。
閑庭の箒目ただしつつじかな 素閑
つつじ咲き鷹揚な叔父酒給ふ 素閑
風已みてつつじの花の咲き時や 素閑
あるじ帰りつつじの家の衣桁かな 素閑
西日受け熟れたる町につつじ咲く 素閑
大悟せりなおかつ招くつつじ哉 素閑
老夫婦居る家のつつじ風みだれ 素閑
滝の音つつじに注ぐ渓の湯や 素閑
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大分前に、新聞も読まなければ、テレビも見ないと書いたが、新聞はさて置いて、テレビを見ないのには理由がある。
テレビでは、スポーツ実況、落語、音楽などを演っていて、オカブはそれらに興味がある。
しかし、もはや、それらをテレビで観ようなどとは思わない。
スポーツはテレビで見ては駄目だ。
オカブは、もともと点を取り合うスポーツが大嫌いで、だから登山などという、点とは関係のないことを趣味としてきたのだが、まぁ、野球くらいは昔はテレビ中継を見ていた。
しかし、10年ほど前に、実際の球場でプロ野球を観戦して、もはやその気が起こらなくなった。
実地で観る野球は凄い。迫力が全く違う。
昔から、運動音痴で、野球の技術や、攻守の戦略など、からきし分からないのだが、広い球場で、周りの熱い声援を聴きながら、ビールを飲んで観る野球はぞくぞくするほど興奮する。
また、野球でなくとも、大昔に陸上競技を国立競技場で観戦して感動したことがある。
眼前で展開する競技は、リレーや、棒高跳びや、走り幅跳びなど地味なもので、オカブは、それらの記録にも技術にもルールにも全く知識がないのだが、一流の選手が競技するのを、メディアを通さないで、自分の目で見る興奮は、野球に通じるものがある。
落語鑑賞は、もうテレビなど問題にならない。
噺家の噺の機微、そして噺し終えて高座を降り、袖に引き上げていく威風堂々とした様は椅子からのけぞるほど圧倒され、実際に寄席で観なければ分かるものではない。
オカブは寄席に行ったことはないが、落語鑑賞会を、区民センターで一回見たきりだった。
これは二つ目くらいの新進落語家の発表会のようなものだったが、それでも、その物凄い迫力に度肝を抜かれたものだ。
それ以来、落語をテレビで見ることはない。
金があったら、是非、寄席に行ってみたいものだ。毎日でも・・・
音楽に関しては、さらに輪をかけてテレビの出る幕はない。
そもそも、テレビでなくとも、オーディオを通しても、それは邪道だ。
クラシックにもポップスにも共通している。
ポップスファンなら、ライヴでの興奮を忘れることはないだろう。
クラシックに至っては、テレビ・オーディオを通しての、音色やニュアンスは、あれはまがい物である。
CDを買う金があれば、代わりにぜひ演奏会に行くべきだと思う。
偽らざる「本当の」音楽がそこにはある。
ニュースは・・・(これは実際に現場に立ち会うことは不可能だが)これは、もうテレビは問題外の存在だ。
ネットで様々な観点からの切り口を参照しながら、事実を解釈していく、核心をえぐり真実に迫るアプローチは、もはや現代ではテレビの一面的なセンセーショナルな煽りのやり口を凌駕してしまった。
テレビが不要とは言わないが、その「疑似」迫真性は、現在では逆に時代遅れのものとなった。
やはり、今のオカブにとって、テレビは無用の長物である。
非正規の職失いて春暑し 素閑
老駅員春の暑きに紺上着 素閑
潮騒の浜の観音春暑し 素閑
火と炎深山の修験春暑し 素閑
飛行機雲はやふ乱れて春暑き 素閑
京に来て葛切りさがし春暑し 素閑
晴れの日や襟もと濡れし春暑き 素閑
午後のバス詰襟生徒春暑し 素閑
春の宵暑きひとひの酒を乾す 素閑
老母連れ浅草まどひ春暑し 素閑
伝票のおほきを嘆き春暑し 素閑
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巷では、75歳以上でなければ高齢者と呼ばぬなどと騒がれている。
確かに、現代の70台っと言っても、矍鑠(かくしゃく)とした壮年然とした人が多い。
しかし、自分は、もう60で老境に入ったと思っている。
精神年齢が低いと、老化が早いという俗説がある。
しかし、これは肯ける。
幼稚化と老化は本質的に同じではないか?
自分も、箸にも棒にもかからない老童だと思っている。
多分、隣近所では、嫌な老人、と言われているのだろう。
天の配剤で何とかしてはくれぬものか?
ゆふぐれて馬酔木に涙拭かせたり 素閑
なきがらを弔ふあせぼのみなりか 素閑
けふおわり馬酔木に感謝するばかり 素閑
酔狂や物見に踏まるあしびかな 素閑
病みてなほ雨と馬酔木の飛鳥路や 素閑
子を捨てし独り母の眼馬酔木うつし 素閑
草枯れてあしびの原を恋ゆるなり 素閑
世を語り国を憂うも馬酔木なり 素閑
馬酔木咲く心にとめり風の庭 素閑
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昨晩の夕飯にカレーを食った。
2・3日前もカレーだった気がする。
というか、3日に一度はカレーを食っている。
特にカレーが好きだからというわけではない。
スーパーで買ってきたレトルトのカレーを電気釜で炊いた飯にかけるだけで、手間がかからないから、億劫を理由にカレーを食っているだけである。
ただ、インド人は毎日・毎食カレーである。
貧乏人のオカブが自らの境遇に文句を言う筋合いはない。
しかし、炊事をすることに横着を感じるようになったら、お終いである。
そろそろお迎えが来るのかもしれない。
春暁の宮殿の間に影ふたつ 素閑
鳥去るや春のあけぼの雲低し 素閑
春暁の筧のほかの音は無し 素閑
春暁やふと醒めわれをふりかへり 素閑
泣きくらし春暁に涙乾きけり 素閑
春暁の雨戸よりさす万華鏡 素閑
獄を出て春暁の道O氏行く 素閑
春あけぼのいつの間に降る細き雨 素閑
春暁や妻の嫁ぎし頃思ふ 素閑
春暁の香華まつわる座敷かな 素閑
物売りの我が身憐れむ春暁や 素閑
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