昼のガスパール・オカブ日記

閑人オカブの日常、つらつら思ったことなど。語るもせんなき繰り言を俳句を交えて独吟。

花曇

2018-04-13 00:00:02 | 俳句

キリスト教の教えの中に、善き「行い」、"Good Working"という項目がある。
これは、もちろん貧者に施しをしたりなどの、世間一般の善行と軌を一にするものであり、宗教一般にも共通する徳目だ。
しかし、キリスト教のこの教えの中に「行わないことよりも、行う偽善が優れている」という考え方が含まれている。
いつから、こんな教えがキリスト教界に紛れ込んだのか、オカブは寡聞にして知らないが、「偽善」あるいは「欺瞞」というものはオカブの心を最も突き刺す悪である。
「偽善」を認めることにより、人の心がどれほど荒廃するか、キリスト教界は分かっていない。
また、「偽善」や「欺瞞」を排して、内面の精神的真実性を求めることが、信仰の本質を研ぎ澄ますことにつながることも分かっていない。
信仰とは、甘い道徳律や「べき論」ではなく、神=キリストを通しての内面の自分とのせめぎ合いの真剣勝負である。
端的に言ってしまえば「チャリティー」と信仰は別物であるということだ。
もし善行が信仰に踏み込める余地があるとすれば、それは自らの命を捨てて他者を救うといった、ぎりぎりの極限状態での場面しかありえないであろう。
もちろん、「外面的」というに関わらず、行いとしての善行は、社会的にも宗教的にも、また信仰的においてすら、それはそれで重要で尊ぶべきものではあるが、偽善、欺瞞という罠にからめ取られ、絶えず内面の信仰に対する背信と表裏一体になっていることに心しておかなければならない。
カルト問題で、信徒の「欺瞞」や「偽善」を目の当たりにして、苦しめられてきた、オカブの偽らざる信念である。

仔犬連れ娘のベレー花曇   素閑

興尽きて帰る道々花曇   素閑

宅配便過ぎて音無し花曇   素閑

掛け時計二時を告げたり花曇   素閑

田の脇の流れを覆ふ花曇   素閑

花曇雲の先ゆく鳥の羽   素閑

今日過ぎて明日はあるやら花曇   素閑

派手な服すすけて見えし花曇   素閑

由比ガ浜重き浜風花曇   素閑

なにか重く叫びとなりて花曇   素閑

花咲いて日の輪の翳り追ふすずめ   素閑

花集め曇れる村のしとねとす   素閑



俳句・短歌ランキング


春疾風

2018-04-12 00:00:52 | 俳句

新聞もほとんど読まないし、テレビに至っては、一週間に10分ほど家人がつけっ放しにしているのを眺めるくらいである。
それでも、さして困ることはない。
他人の書いたご高説を読むのや、くだらない笑えないお笑い番組を見るのは真っ平である。
こうして、頑なな、世を拗ねた老人が出来上がっていく。
まあ、仕方がない。
自分も世から好かれようとは思っていない。
一歩一歩、あの世に近づいていくのみである。

軒板の隙間の笛や春疾風   素閑

妻の呼ぶ声薄くして春疾風   素閑

寝覚め床春の嵐に二度寝して   素閑

書き物の春の嵐に倦むはなし   素閑

春嵐饂飩を茹でて吹きこぼれ   素閑

春疾風西に南に星の飛ぶ   素閑

笄も櫛も乱れむ春疾風   素閑

工事場の土くれ砕き春疾風   素閑

春疾風雀は森に飛びにけり   素閑

馬は駆け並木抜き去り春疾風   素閑

春疾風裸電球に逃げこもり   素閑



俳句・短歌ランキング


2018-04-11 00:18:45 | 俳句

沢庵という漬物がある。
ご飯のおかずに、酒の肴に、まことに好ましい食べ物である。
禅僧の沢庵宗彭が考案したというが、怪しいものである。
沢庵漬けは、沢庵和尚が生きた江戸時代よりもずっと以前からあった。
漱石の『吾輩は猫である』に、登場人物の「理の陶然」が禅寺で修行して沢庵漬け(万年漬け)を食ったから、腹膜炎で死んでしまったという記述が出てくる。
禅院の食事としては、簡素で食うのに手間がかからず保存も効くので、絶好のものだったろう。
オカブも沢庵が大好きである。
沢庵だけで、飯が三杯は食える。
先人の創作の恩恵と、伝統の尊さの恩恵に毎日、浴しているわけである。

友逝きてすみれ揺らせる風のやふ   素閑

菫草この家のあるじの好ましき   素閑

菫咲き六十路の今日を刻みける   素閑

垣に咲くすみれををとめ歌にして   素閑

永遠の無辺の天地菫草   素閑

窓あくも菫の花のなかりけり   素閑

佳き日かな猫もながむる菫草   素閑

みやこに咲けどすみれをおもふ山の里   素閑

いつか来た路振りかえり菫草   素閑




俳句・短歌ランキング


春の月

2018-04-10 00:00:29 | 俳句

人間、程度の差こそあれ、家族があり、友人があり、同僚があり、顧客があり、学友があり・・・・
人に囲まれ、生活している。
それが、広い意味での人間の「社会性」の基盤となっている。
しかし、一方で、人間は、そういった環境の中においても、孤独である。
リースマンの著書を出すまでもない。
ただ、その「孤独性」とは、社会や歴史的背景によって生じたものではなく、人間本来の現存によるものとオカブは考える。
当然、そこには弁証法や、実存主義的考え方が下地にあるのではあるが、オカブが見てきた、自分をもととする人間のあり様が、あくまでも「個別者」であり、「特殊者」であるからである。
別にキェルケゴールに習ったわけではない。
自分と周囲を見回してみれば、自然とそういう認識になる。
ただ独りで生まれ、ただ独りで去っていく。
この人間のあり様は、決して否定できるものではない。

ほろ酔ひの顔も照らされ春の月   素閑

嵐去り散り敷く葉光り春の月   素閑

春暮れて月待の宿のをんなかな   素閑

世を去ればながむるもなし春の月   素閑

春の闇空に一つ目月ぎろり   素閑

妻子得て棲む家も得て春の月   素閑

放蕩と堕落も佳きや春の月   素閑

月の出を茶屋にて待てり春の宵   素閑

舟来たり春の磯辺の月の出や   素閑



俳句・短歌ランキング


灌仏会

2018-04-09 00:00:15 | 俳句

時が巡る。
この前、春の声を聴いたと思ったら、もう花が散り、春たけなわである。
春が過ぎ、初夏が来て、オカブは歳を重ね、さらに老いていく。
昔は、こうした時の宿命を残酷なものだと思っていたが、最近では、その抗いがたい儚さを楽しんでいる。
老成といったものでない。
ただただ、老いぼれた故である。

灌仏会われは銅銭にぎりたり   素閑

仏生会陽も降り注ぐ留守居かな   素閑

ふすまあけ光の庭よ仏生会   素閑

仏生会余人に知らせぬ夫婦仲   素閑

川も雲もゆくかた同じ灌仏会   素閑

世慣れたる坊の主や灌仏会   素閑

灌仏会ひこふきぐもとうたふ歌   素閑

洪水のポールマルリー灌仏会   素閑

今日果てて明日は浄土か灌仏会   素閑

仏生会はるひのもとに呆けたる   素閑

灌仏会猫もおもひにふけりたり   素閑



俳句・短歌ランキング


放哉忌

2018-04-08 00:01:12 | 俳句

かーたんと目黒まで行ってきた。
なんという当てもない。
ただ、雅叙園で昼食を摂ってきた。
ブッフェである。
卑しいわれわれは鱈腹食った。
序に、雅叙園の豊かな装飾の館内も観て歩いた。
気ままな老人の春の一日だった。

いらくさの神をも恐れず放哉忌   素閑

いつの間に一人になりぬ放哉忌   素閑

放哉忌目黒の花は散り果てて   素閑

放哉忌やまひのおんなのそぞろ泣き   素閑

饂飩打ち食ふ者もなく放哉忌   素閑

病室の寝台冷たき放哉忌   素閑

親となり子を思ふとも放哉忌   素閑

風くだけ雲も妖しや放哉忌   素閑



俳句・短歌ランキング


四月

2018-04-07 00:01:45 | 俳句

先日、「終活」のことを書いた。
しかし、世間では、老人健康法だの、サプリだの、健康食品だの、これでもかという具合に、長く生きろと言っているような気がする。まぁ、これ以上、長く生きても、それが幸せかというと、甚だ疑問であるが・・・
一方で、終活はもとより、財産の処分や、葬儀、墓のことなど、死んだ後のことにまつわる要らざる心配に踊らされているのも事実だ。
しかし、結構、世人は「要らざる心配」をあっけらかんとこなしているようだ。
人間の死生観など、所詮はイージーなものなのかもしれない。

花も咲き花も散るなり四月かな   素閑

沢筋の四月の草のあさみどり   素閑

水の辺にかふべたるるは四月の樹   素閑

深山のつぼみも固き四月かな   素閑

日に照りてはるかな四月の野道かな   素閑

水ひきて四月の田のぞむ鹿島槍   素閑

花あれど四月の雲の鈍き憂さ   素閑

杉箸を水くぐらせり四月かな   素閑



俳句・短歌ランキング


牧開

2018-04-05 23:55:23 | 俳句

一か月ほど前の新聞に、いわゆる「終活」をすべきかどうか、というテーマでコラムが載っていた。
それの筆者は、読者から、どうも終活をしなければいけないのではないか?という相談を受けたらしい。
それに対して、筆者は、自分なら終活などしない、自分の死んだ後など知ったことではない、後に残されたものに迷惑が掛かろうが、死んだ後は関知のしようがない、近年の流行のように巻き起こった終活ブームに左右されたくない、というような論だったと思う。
しかし、この回答者の女性エッセイストの筆致には「私は自由に生きるのよ。私は生を謳歌するの」という主張が見え隠れしている。
要は、人間誰もが直面する死というものに伴って、身辺を整理しておこうという、ごく自然の感覚に思い至っていない。
オカブはできれば終活をしたいと思う。しかし、おそらく確実に面倒臭くなって終活などしないだろう。
死というものは、精魂尽き果ててくたばった、というのがオカブの理想である。

まきびらきあしたの飯の当番か   素閑

くさはらを走り回りつまきびらき   素閑

遠きさと母よりたよりまきびらき   素閑

風はこぶあわき花びらまきびらき   素閑

草笛のふるえてなりつまきびらき   素閑

のうさぎも蛙もいでよまきびらき   素閑

川掬い冷やこい水やまきびらき   素閑

苦学してさとに帰りぬまきびらき   素閑

まきびらき昼の湯浴みのぬるきかな   素閑



俳句・短歌ランキング


秩父吟行2018年3月(その参)こでまり

2018-04-04 23:49:43 | 秩父旅行2018年3月

今朝は昨日の寝不足の反動か、8時近くまで目が覚めなかった。
蒲団から出て、すぐに朝食に行く。
朝食の内容は、昨日とさして変わらず。
しかし、今朝はビールを飲まなかった。

今日は、帰京の日、宿を出る日である。
なんとなく、けだるい気分と、寂しげな気分が混ざり合う。
昨日、かーたんと相談して、帰りは秩父鉄道で長瀞に寄り、東武東上線で帰京しようと決めていた。
朝食の後、最後の湯に飛び込んで、着替え、荷造りをして、チェックアウト。
幸い、9時半に宿のマイクロバスが、和銅黒谷駅まで送ってくれるという。
助かった。
あそこまで歩くことを考えて、いささか憂鬱になっていたところだった。

和銅黒谷から、羽生行の秩父鉄道に乗る。
この非常にローカルな駅ともお別れだ。
長瀞駅で降りて、早速、長瀞渓谷に向かう。
岩畳は見事だったが、見慣れてしまえば何ということはない。
観光名所として喧伝している割には、見ごたえのない風景だった。
しかし、春の陽光に照らされてゆったりと流れる荒川は、のどかだった。
川下りの舟や、ラフティングをしているグループが次々と川を下ってきた。
途中の四阿で、とっておきの缶ビールを空けた。
何も飲物を持ってこなかったかーたんは恨めしそうな顔をしていた。
岩畳の道端にこでまりの花が咲いていた。
咲き誇る姿は見事だった。
なべ穴も観た。
水が溜まっていて、底まで覗けなかった。

岩畳を一巡りして、往還の土産物屋や飲食店の商店街を通って、長瀞の駅まで来た。
かーたんは宝登山に登りたそうで、ロープウェィで登ることを主張する。
山に登り慣れているオカブは、そんな丘のような山に登っても興が薄いのは判っているから、強硬に反対する。
まぁ、参道まで行ってみることにしようということになり、歩き出す。
そこで、かーたんはかき氷を食うことを主張する。
それを聞いて、オカブはわが耳を疑った。
確かに、今日は暑いが、なんで長瀞くんだりまで来て、かき氷風情を食わなければならないのかと・・・
しかし、今回の旅行はかーたんを労うことが目的なのと、さっき宝登山を諦めさせた手前、この、かーたんの、かき氷説には従わざるを得なかった。
次にオカブがもっと驚いたことがあった。
地図を見ながら、参道沿いのかき氷屋まで行ってみると、なんと行列ができていて、待合用のベンチまでしつらえてあるではないか?!
ここはかき氷専門店である。
かき氷を食うのに行列!?
他の店は閑散としているのに・・・
なんとも奇妙な光景を見たような気がした。
しかし、暫くして、考えは変わった。
行列を成しても食おうという、かき氷はさぞかしうまいものなのだろうと・・・
待つこと30分弱。
やっと店に入れた。
ここで、オカブはいままでの不明を恥じることになる。
オカブが頼んだのは、葡萄と桃とオレンジのシロップのかかったやつ。
どうせ瓶入りの毒々しいのがぶっかけられているのだろうと思ったが、そもそもここのシロップは注文ごとに絞る果実からの生絞りである。
しかも、そもそもシロップは「ぶっかけられて」いない。
ご自分でお好みで・・・というようにポットに入れられている。
子供の頃、「ぶっかけられて」いないポットに入ったライスカレーをどれ程、食いたいと思ったことか!
では早速、御味見を、と山もりの氷に、厳かに桃のシロップをかけて、丁重にスプーンで掬う。
そこで、さらにブッたまげた!
これが、あのかき氷か?!
綿菓子のようにソフトで、ふわっととろけて、クリーミーな・・・うんっ、もうっ、何と言っていいか分からない。
とにかく凄いものを食った気がした。
このかき氷は、秩父の天然氷を用いたもので、天然氷でなくてはあの食感と味は出せないらしい。
お値段1,200円にも納得。(かき氷が1,200円!!!などと驚かない)
かーたんは小豆に蜜がついた奴。
1,500円也。
大大満足の、かき氷であった。
これを食うためだけに、東京から長瀞まで来る価値がある!
お店は『阿佐美冷蔵』。こういうと変だが、かき氷屋らしからぬ店名である。
また来るで~。

かき氷のように淡くほのかな思いを胸に抱いて、店を出た。
参道はちょっとした桜並木になっていた。
七分咲きだった。

駅まで戻って、まだ時間はあるし、昼を食べるにはお腹が空いていないこともあり、帰りの途中、川越に寄っていくことにする。
とにかく寄居まで出て、東上線に乗り換える。
「川越市」の駅に着き、まず喜多院に行こうと歩き出してほどなく、蔵造の街の標識が出ていた。
かーたんは、まず、そちらに行くことを主張する。
まぁ、蔵造の街並みと喜多院はどちらも行くつもりだったから、かーたんの主張を受け容れる。


蔵造の街の街並みは思ったより見事だった。
かーたんも夢中。
川越の名物は?と聞くから適当に芋だろう、と答えておいた。
すると、俄かにお腹が空いてきた。
しかし、この街並みは飲食店がほとんどない。
もう2時を回り、ランチタイムのビジネスアワーのある店はそろそろ閉店の時間だろう。
途方に暮れていると、またまた行列の出来ている蕎麦屋が目に入った。
躊躇なく行列の後ろに並ぶ。
待つこと30分余り。やっと順番が回ってきた。『寿庵』(蔵のまち店)
ここも素晴らしい店だった。
頼んだ川越の銘酒のアテの板わさが絶品。タイやヒラメを材料にしているのではないかと思えるほど美味だった。
抹茶蕎麦の味も蕎麦好きのオカブを唸らせるものがあった。
かーたんは割子蕎麦三段重ね。
今日は大変、運がいい。


暑いので、蕎麦屋の後、涼むために向かいの団子屋に入った。
団子屋のつもりが、甘味処でもあり、軽い食事もできることが分かった。
『甘味茶房かすが』という店だ。
ビールがあったので、地ビールの『COEDO』ビール。『ベニアカ』を。芋で作ったビールだ。
かーたんは芋のパフェ。
ビールはシメイの瓶のようなもので出てきた。
確かに、説明にあるように、黒ビールのような味わいだ。
しかし、川越は本当に芋尽くしだ。



甘味処を出て、蔵造の街並みを行ったり来たりして、お土産を買い込む。
時の鐘を見て、喜多院に急ぐ。もう暮れかけている。



喜多院に着いた頃は、もう薄暗くなっていた。
夜の花見客が、境内で場所取りをしており、周りには焼き鳥や焼きそばの屋台が並んでいた。
もう、この時間では、お目当ての五百羅漢は見れないと、諦めていたが、門の柵の間から僅かばかりをのぞくことができた。

喜多院を出て西武線の本川越駅に向かい、駅周辺で夕飯を食べて帰宅するつもりだった。
しかし、道を間違え、あっちをうろうろこっちをうろうろ。
国道に出て、本川越行きのバス停があったのでバスを待ったが、来たバスは満車で乗れない。
仕方がないので、真っ暗の国道をとぼとぼ歩く。
歩いた歩いた。
1時間半近く歩いて出てきたのは、東上線の川越駅。
かーたんもオカブもヘトヘトだった。まるで足が棒のよう。疲れた~!
駅前のビルに食堂街があったので、行ってみる。
あまり重いものは食べたくないので、結局、入ったのは『築地玉寿司』
オカブは平目の造りでビールを飲んで、小肌と紋甲烏賊をつまんだだけだったが、かーたんは一貫づつとは言え、海老、勘八、雲丹、イクラ、雲丹・イクラ手巻き、中トロ、大トロとガンガン食う。
満足して店を出、東上線、副都心線回り、渋谷経由で帰宅した。
よく呑んでよく食ってよく歩いた旅だった。
お疲れ様でした~。

こでまりの群れ越え鳩の降り来たる   素閑

こでまりを揺らす微風はながる川   素閑

はてさてもこでまり摘んで何に挿す   素閑

古き塚仔細に供なゆこでまりや   素閑

こでまりの園におさなご毬遊び   素閑

岩の間にこでまり日に群れ白と咲き   素閑

こでまりや妻とはるひの川遊び   素閑

花は散りこでまり白く咲きにけり   素閑

燦燦の昼のこでまり岩畳   素閑

こでまりや佳人の忌日に陽のそそぐ   素閑

こでまりの宿を流るる横瀬川   素閑

長瀞のこでまり都で思ひたり   素閑



俳句・短歌ランキング


秩父吟行2018年3月(その弐)霞

2018-04-03 23:53:31 | 秩父旅行2018年3月

28日の朝。
昨晩は、昼間の寺巡りで、疲れすぎていたのかよく眠れなかった。
未明に風呂に入りに行き、また寝て、7時過ぎに目が覚めた。
すぐに朝食。
ビールを1本飲んだ。
かーたんは何も言わなかった。
さすがに、もう諦めているのであろう。
朝食は、素朴だが充実していた。

朝食のビールが効いたのか、また眠くなって9時くらいまで眠った。
よほど昨晩の寝不足と、昨日の疲れが身に応えたと見える。
かーたんと相談して、今日は、宿でのんびり過ごそうということになった。
目覚ましに、ラウンジで珈琲を飲む。
ブルーマウンテン。
美味かった。


珈琲を飲んで、また風呂に行く。
この好天の日に昼風呂は心地の良いものだ。
誰もいない湯で、旅心地を満喫した。



ただ、宿でぐだぐだしていてもつまらない、とかーたんが言うので、宿の近くを散策することにする。
まずは、昼飯。
『湯の宿和どう』の直営の和菓子処『栗助』の食堂に行ってみることにする。
国道を渡って、すぐの『栗助』でお土産を物色したりして、食堂に入ると、もうご膳類のメニューは品切れで、蕎麦しか出せないという。
蕎麦で結構なので、と申して、席に着く。
秩父の蕎麦粉を使ったという蕎麦は、もちもちしていて美味かった。



『栗助』を出て、和同開珎の遺跡と、その麓の聖神社に行ってみることにする。
車の疾駆する国道を、和銅黒谷駅のそばにある、聖神社までひたすら歩く。
聖神社は和同開珎の所縁の神社ということで、金運向上のご利益があるらしく、宝くじに当たりますようにとか、時流を映して仮想通貨で一儲けできますようにとか、書かれた絵馬が奉納されていた。



しかし、今日は昨日に増して暑い。
暑さにやられて、かーたんには申し訳ないが、和同開珎の銅の掘削遺跡の見物はパスさせてもらって、来た道を戻る。
のどかな田園風景と言いたいところだが、車の往来が激しくて、散歩を寛げなかった。
しかし田舎の佇まいは都会では味わえないものであるのは確かだ。



宿に帰り、また風呂に入って、ビールなどを飲んでいるうちに夕食の時間となった。

霞たちおらが野良みちどろ畑   素閑

里山の芽も萌えなむと草霞   素閑

野地霞む観世音の吐く息や   素閑

小天使土より昇り霞たつ   素閑

せせらぎの光よりたつ霞みかな   素閑

永き恋叶ひもしよふ春霞   素閑

山里の苦き思ひや霞たつ   素閑

蓬髪の寒山霞の空蝉か   素閑

野の家の垣の千種や霞かな   素閑

こつじきの僧もひねもす霞かな   素閑

まふまふと霞にまがふ薬師の湯   素閑

すねものといふ肩書や霞たつ   素閑


夕食は吟味された会席。
尤も、我々のような細民が泊まれるような宿はたかが知れているが、コストを考慮して、これだけ洗練された料理を出す経営努力には敬意を表したい。
さんざん食って、さんざん飲んで、食休みをして、また風呂に入り寝てしまった。



俳句・短歌ランキング