「ある」には、
そのモノ自体がある。
そのモノがある場所・状態にある。
例えば、犬が吠えている。
これは、ある特定の「犬」が、
「吠えている」状態にある。
「犬」という言葉・概念は「ある」。
しかし「犬」という事実は「ない」。
それでも、「犬という言葉がある」という事実が「ある」。
犬は「ある」が、犬は存在し「ない」…と言える。
これは、論理と事実の区別と連関であろう…
「ある」と「ない」はコインの裏表。
「ある」を見れば「ない」は見えない。
「ない」を見れば「ある」は見えない。
「ない」が「ない」なら…コインはないから「ある」もない。
それでも…「コインがない」状態がある。
私の存在があるから、世界がある。
私がいなくなっても、私のいない世界はある。
全ては、あると同時にない。
全ては、無限定・無条件なら「ある」モノ。
しかし、限定・条件しだいでは「ない」モノ。
ある視点なら「ある」モノでも…
別の視点なら「ない」モノになる。
俯瞰してみれば「ある」。
俯瞰してみても「ない」。
それでも、更なる「俯瞰」なら「あり得る」。
ここに、コメントを寄越す「お宅」は、たぶん「お宅の視点・観点・俯瞰」から「ない」との否定である。
それは「お宅は」には、お宅の「視点・観点・俯瞰」が全てで正しい…と信じ切っているからのだろう。
「全ては疑いうる」とは、
己の信じるモノも「疑いうるなら、
己の信じないモノも「疑いうる」であろう。
「現象論・構造論・本質論」から、
個々の「本質」はまちまち。
全ての「本質」は一つである。
個々の構造はまちまち。
全ての構造は一つである。
個々の現象はまちまち。
全ては一つの現象として現れている。
一つ一つもあれば、まとめて一つもある。
普通でない人の普通は、普通の人にとっては普通ではない。
普通の人の普通は、普通でない人にとっては普通である。
異常者の異常は、正常者の正常。
正常者の異常は、異常者の正常。
これは、条件・状況しだい…であるが…