新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
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~「勝負論」と「上達論」~

2020-05-30 13:40:35 | 言葉・概念
~「勝負論」と「上達論」~


「武道の理論」に書かれている、
「勝負論」とは、言い換えるなら、「使い方の論理」であり、
「上達論」とは、言い換えるなら、「創り方の論理」
である。

今、ここで、この二つの論理を、
「文字・言葉の習得・修得」で考えてみよう。


ここでは、
文字は書くモノ、言葉は話すモノ、とするなら、

文字とは、自己の認識を、書いて、視覚的に他人に伝える為の手段・モノ・道具。
言葉とは、自己の認識を、音声で、聴覚的に他人に伝える手段・モノ・道具。

独り言は、あっても、独り書きはない。
それでも、日記がある・
日記は、独り書き?


文字は、継続的・残りえるモノ。
言葉は、瞬間的・消えるモノ。
でも、現代では録音して保存可能。


さてさて、

「勝負論」・「使い方の論理」では、
目的は、他人に伝わる・ように伝える事。

「上達論」・「創り方の論理」なら、
誰にでも、判読・判別可能なモノを創る事。


文字・言葉には、必ず決められた理想の視覚の型と音声があり、
それらを正しく習得する事が「上達論」の論理・目的。

「勝負論」では、それら自己の認識に合致する形での
書く・言う・表現の修得が目的・論理である。

よく言われる事に、

㈠  「言葉は、相手に伝わればいい!」
㈡  「文字は、相手が読めればいい!」


これらは、「勝負論」的な見地として正しい。
しかし、「上達論」的な見地として正しくない。


今、以下のような、具体的な場面で考えるなら

授業中でも、児童・生徒への先生の指導場面。


児童の年齢によって、
先生の指導目的によって、

同じ、児童・生徒の文字・言葉でも、
先生の具体的指導は、
「上達論」重視して指導と「勝負論」重視によって異なってくる。


児童の自己の意見・言葉には、発言なら、「勝負論」重視で、少々の違いは黙認。
朗読なら、極力理想的・正しいモノへの指導が不可欠必要。

でも…先生の指導方法に対して、
児童・生徒に反感を感じさせたら、
「勝負論」・「上達論」的には正しくても、
「指導論」・「教育論」的には、間違い失敗であろう…


人間関係においての「論理」的実践を考える時、
その実践に論理的判定を下す時、
対象が人間である以上、その根底には正しい「人間論」が不可欠である。


さてさて、以上の記事の論理的評価は?

「上達論」しては、
文字はパソコンであるから論外。
音声はないから、言葉としても論外。

それでも、認識の表現としての言葉なら?


思っている事・事実的場面を、
「勝負論」・「上達論」で考えようとして、
自分で読んで、自分である程度納得しているから、
認識・表現の「勝負論」としては合格。

また、具体的場面を思い・認識を止めながら、
「勝負論」・「上達論」的にみつめようと、しているから、
「上達論」としても、まあまあ合格だろう。


この場合の「上達」とは、
師範の「認識学」の再措定・過程での
取り組み内容の上達であるが…


もっも…
上記の判定・評価は、私が私へしたモノであるから、
これは、主観的・観念論的なモノであり、
唯物論世界観の再措定中の私としては、
「上達論」としては論外である。

それでも、
「主観的・観念論的…」と客観的に判断が、できているから、
結果的に、唯物論的に認識しているから「勝負論」として、合格!である。

でも、他人が読んで、上記の記述が理解可能かどうか不明であるから、
言葉としは、「勝負論」では、不合格である。


以上のように、論理には、多重構造が見て取れる(ありえる)。

これらの多重の論理を構造的に捉える事が必要。
この構造的には、
「自然の構造」的、「社会の構造」的、「精神の構造」的があり、

自己の目的達成の為には、
上記の構造を弁証法的に、
組み立て合わせる必要がある。








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