事実とは、実際に起こった事、起こっている事、である。
それは、五感で直接に感覚・認識可能な事。
では、論理とは?
う~ん…これは難しい!
時の経過は、事実か論理か?
時間は、事実か論理か?
人の死は事実か論理か?
言葉で表現されたモノは事実か論理か?
言葉は事実か論理か?
そもそも五感で感覚可能とは?
「問題」というモノは、事実か論理か?
現代社会では、時計の針が時を刻み、暦の数字がが月日を表している。
時計の計も暦もの数字も五感で感覚可能だから、
時・月日は事実である?
否!
時計を五感で感覚可能なのは、
視て、針と数字…、
触って、冷たい鉄・プラスチック…等の物質感触、
舐めて、何とも言えない味、
聞いて、チックタック…コチコチ…等の機械音、
嗅いで、汗臭い?香り、
それらのどこに、
時・月日を感じさせるモノがあるだろうか?!
「死」にしても、同様であり、
目の前にある猫の(死?)体から感覚するモノは、
熱を感じない冷たく固い体。
聞こえない「ニャー」という鳴き声、
舐めたいとは思えない姿、
何とも言えない香り、
全く動きが見えない体…
それらの事実的な感覚・認識は「死」ではない。
正確には、「死」を知らない人にとって、「死」ではない。
以上の記述は、事実ではなく、事実を言葉で表現したモノである。
事実は、直接に事実として表現できない。
事実は、言葉・絵画・動作・態度・表情…等を
用いて・媒介として、初めて表現可能である。
言葉とは何か?
言葉とは、認識の表現、
言葉とは、人間が創造したモノ、
言葉とは、記号である。
言葉とは、論理である、と言える。
正確には、言葉を使った事実の表現の為には、
先ずは、その事実を論理的に解釈・理解する必要がある。
「人が走っている」は、事実か?
「人」という事実はない。
あるのは、私の知っている「○○さん」とか…。
「走っている」事実もない。
それは、足を速く動かして、体が宙に浮かぶように、前へ前へと動いている。
しかし「動いている」事実もない。
それは、今は真ん前にいた、と想ったら、
次の瞬間は、横にいた…といった事実である。
時計を見て時刻・時間を感覚するのは、
その針の位置・初めと終わりの針の変化を
時刻・時間として、
人間が、その人の認識内で変換している、からであろう。
このような「ある事実」の認識内での変換を
論理的把握・理解、というのでは?
そして、その変換能力を論理能力というのでは?
学校では、言葉・国語を知識・事実として教える。
「ある事実」から言葉・国語への変換も教える。
それでも、その「ある事実」から言葉・国語への
変換過程を直接教える事は、殆どないのだろう。
「事実と論理の区別なく…」とは、
南郷師範の御著書での言葉であるが…
そこでは、
論理を論理として教えられず、
論理を知識として教えてしまっている…と
現代の教育の大いなる弊害を説いている。
それは、五感で直接に感覚・認識可能な事。
では、論理とは?
う~ん…これは難しい!
時の経過は、事実か論理か?
時間は、事実か論理か?
人の死は事実か論理か?
言葉で表現されたモノは事実か論理か?
言葉は事実か論理か?
そもそも五感で感覚可能とは?
「問題」というモノは、事実か論理か?
現代社会では、時計の針が時を刻み、暦の数字がが月日を表している。
時計の計も暦もの数字も五感で感覚可能だから、
時・月日は事実である?
否!
時計を五感で感覚可能なのは、
視て、針と数字…、
触って、冷たい鉄・プラスチック…等の物質感触、
舐めて、何とも言えない味、
聞いて、チックタック…コチコチ…等の機械音、
嗅いで、汗臭い?香り、
それらのどこに、
時・月日を感じさせるモノがあるだろうか?!
「死」にしても、同様であり、
目の前にある猫の(死?)体から感覚するモノは、
熱を感じない冷たく固い体。
聞こえない「ニャー」という鳴き声、
舐めたいとは思えない姿、
何とも言えない香り、
全く動きが見えない体…
それらの事実的な感覚・認識は「死」ではない。
正確には、「死」を知らない人にとって、「死」ではない。
以上の記述は、事実ではなく、事実を言葉で表現したモノである。
事実は、直接に事実として表現できない。
事実は、言葉・絵画・動作・態度・表情…等を
用いて・媒介として、初めて表現可能である。
言葉とは何か?
言葉とは、認識の表現、
言葉とは、人間が創造したモノ、
言葉とは、記号である。
言葉とは、論理である、と言える。
正確には、言葉を使った事実の表現の為には、
先ずは、その事実を論理的に解釈・理解する必要がある。
「人が走っている」は、事実か?
「人」という事実はない。
あるのは、私の知っている「○○さん」とか…。
「走っている」事実もない。
それは、足を速く動かして、体が宙に浮かぶように、前へ前へと動いている。
しかし「動いている」事実もない。
それは、今は真ん前にいた、と想ったら、
次の瞬間は、横にいた…といった事実である。
時計を見て時刻・時間を感覚するのは、
その針の位置・初めと終わりの針の変化を
時刻・時間として、
人間が、その人の認識内で変換している、からであろう。
このような「ある事実」の認識内での変換を
論理的把握・理解、というのでは?
そして、その変換能力を論理能力というのでは?
学校では、言葉・国語を知識・事実として教える。
「ある事実」から言葉・国語への変換も教える。
それでも、その「ある事実」から言葉・国語への
変換過程を直接教える事は、殆どないのだろう。
「事実と論理の区別なく…」とは、
南郷師範の御著書での言葉であるが…
そこでは、
論理を論理として教えられず、
論理を知識として教えてしまっている…と
現代の教育の大いなる弊害を説いている。