新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

死ぬ気になれれば…

2020-06-21 10:54:10 | 認識論


人間、死ぬ気になれば、何でもできる…
という言葉を聞いた事がある。

言葉だけ知っているなら知識である。
この言葉の通りに、「死ぬ気になって」…行動出来るなら論理となろう。


これは、言うは易く行うは難し、
または、知るは易く行うは難し、

言葉・知識としてなら、「死ぬ気」も「何でもできる」も簡単であるが…
論理としての「死ぬ気」も「何でもできる」も至難であろう。



そもそも…真に「死ぬ気になった」人間なら、
その行動は「死への行為」であろう。

ならば、その人間にできる行動は何でもではなく、
死へ向かうモノだけであろう。

ならば…この言葉は嘘なのだろうか?


師範の言葉に、「生即死」がある。
それは、武道の真剣勝負において、
眼前の相手に対して「自らの死」を覚悟して、
向かっていく事で、「生」への可能性が生じる。
と、いった意味である。


ここでの「死」とは、「生」を求める為のモノであり、
決して死ぬ為のモノではない。

ここから言える事は、

「死ぬ気になれば、人間なんでも出来る」は、
言い換えるなら、

生きる為に、死ぬ気になれれば、
人間どんな至難も乗り越えられる、

となろう。

ここまでは、容易な言葉・理解であるが…
それでも、ここには、多いなる矛盾がある

以下からは至難な論理である。


そもそも…
「生きい」と思っている人間が、「死ぬ気」になるのは矛盾。
生きる為に死ぬ気になるのも、当然に矛盾。


その理由は、「死」とは「生」の対極にある概念である。
その生命体である生ある人間にとって、死とは予想不能なモノ。
生命体が死を意識する事は、ほほ不可能である。

もっとも…
何度も死に直面した者、
何度もその死への瞬間を感覚・覚悟できた者、
そのような者達なら、生の為の死も可能であろう。

ここに、言葉の論理化への道がある。


「死」への意識とは、
過去に数回は、瞬間的に、
死を覚悟できた者だけが持ち得る
生命体にとっては、特異な意識であろう。

「生」ある生命体で
「死」を意識可能なのは、人類だけであろう。























コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 発達障害についての仮説 | トップ | 夢について… »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

認識論」カテゴリの最新記事