人間、死ぬ気になれば、何でもできる…
という言葉を聞いた事がある。
言葉だけ知っているなら知識である。
この言葉の通りに、「死ぬ気になって」…行動出来るなら論理となろう。
これは、言うは易く行うは難し、
または、知るは易く行うは難し、
言葉・知識としてなら、「死ぬ気」も「何でもできる」も簡単であるが…
論理としての「死ぬ気」も「何でもできる」も至難であろう。
そもそも…真に「死ぬ気になった」人間なら、
その行動は「死への行為」であろう。
ならば、その人間にできる行動は何でもではなく、
死へ向かうモノだけであろう。
ならば…この言葉は嘘なのだろうか?
師範の言葉に、「生即死」がある。
それは、武道の真剣勝負において、
眼前の相手に対して「自らの死」を覚悟して、
向かっていく事で、「生」への可能性が生じる。
と、いった意味である。
ここでの「死」とは、「生」を求める為のモノであり、
決して死ぬ為のモノではない。
ここから言える事は、
「死ぬ気になれば、人間なんでも出来る」は、
言い換えるなら、
生きる為に、死ぬ気になれれば、
人間どんな至難も乗り越えられる、
となろう。
ここまでは、容易な言葉・理解であるが…
それでも、ここには、多いなる矛盾がある
以下からは至難な論理である。
そもそも…
「生きい」と思っている人間が、「死ぬ気」になるのは矛盾。
生きる為に死ぬ気になるのも、当然に矛盾。
その理由は、「死」とは「生」の対極にある概念である。
その生命体である生ある人間にとって、死とは予想不能なモノ。
生命体が死を意識する事は、ほほ不可能である。
もっとも…
何度も死に直面した者、
何度もその死への瞬間を感覚・覚悟できた者、
そのような者達なら、生の為の死も可能であろう。
ここに、言葉の論理化への道がある。
「死」への意識とは、
過去に数回は、瞬間的に、
死を覚悟できた者だけが持ち得る
生命体にとっては、特異な意識であろう。
「生」ある生命体で
「死」を意識可能なのは、人類だけであろう。