この世界の憂鬱と気紛れ

タイトルに深い意味はありません。スガシカオの歌に似たようなフレーズがあったかな。日々の雑事と趣味と偏見のブログです。

こんな人とは議論出来ない。

2018-10-16 22:48:49 | 戯言
 先日、議論をすることについて私見を述べました(こちら)。
 
 繰り返しになりますが、自分は議論をすることを悪いことだとは思っていません。
 なぜなら議論することでより真実に近づくことが出来ると考えているからです。

 とはいえ誰とでも議論が出来るかというとそういうこともありません。
 まず礼儀を守らない人とは議論をしたくはありませんね。
 コメント欄の名前とタイトルを未記入の人、言いたいことだけ言ってそれっきりな人、言葉が乱暴な人etc。
 そういう人たちって普段からそうなのかな?って思いますね。
 他人の家を訪れて、名前も用件も言わずにいきなり上り込んじゃうんですかね?
 まぁ礼儀を守らない人に対してはこちらも相応な態度で臨ませてもらいますが…。

 言っていることの意味がわかんない人もときたまいますね。
 とある小説の解釈についてある人とメールでやり取りをしたことがあるのですが、自分が○○はXXです。なぜなら△△は★★だから、みたいな説明をしたらその人は、深く考えたらそうかもしれないけど、浅く考えたらそうではありません、みたいなことを言いました。
 深く考えたときと浅く考えたときの答えが違ったら単純に浅く考えたときの答えが間違っているだけなのでは?と思いましたけど、相手をするのが面倒臭くなったので返信はしませんでした。

 料簡が狭い人とも議論はしたくないですね。
 これは少し前にマチュ・ピチュに行くことについて、とある映画ブログの管理人さんと議論になった時のこと。
 その管理人さんからこんなことを言われました。
>擁護するならせめて名前ちゃんと書け、マチュビチュって。
 自分がコメント欄でマチュ・ピチュを間違えてマチュビチュって書いたんですよね。

 一応言い訳をさせてもらうと、入力は正しかったんですけど、変換を間違えたのです。
 白々しい嘘をつくなよと思われるかもしれませんが、証拠はあります。


   

 ほら、「まちゅぴちゅ」と入力して、変換候補の第一番目に「マチュビチュ」があるでしょう。我ながらアホなパソコンだと思わないでもないです。

 ただ、「マチュピチュ」を「マチュビチュ」と間違えたからといって、それが何?とは思いますね。
 「マチュビチュ」から「マチュピチュ」以外のものを思い浮かべる人がいるとは思えませんから。

 どちらかというと問題なのはその管理人さんの「“擁護”するなら」というところじゃないでしょうか。
 だって自分はその管理人さんとのやり取りで誰かを擁護なんてしていないのですから。
 人の間違いを指摘する文章でどうしてそんないい加減な言葉を使えるのか、ちょっと不思議です。
 一応そのことを指摘するコメントはしたのですが、返信はありませんでした(それ以前にコメントが承認制で反映されなかった)。

 やっぱり、議論をすることって難しいですね。
 尊敬出来る相手と何かしら議論をするのって、すごく楽しいことだと思うんですけれど。
コメント (2)
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