著名人の方が自殺すると、そのことを取り扱った記事では記事の最後に【命の電話】が紹介されていることが多いですね。
【命の電話】、「死にたい」と思うことも最近はないので(最近?)かけたことはありませんが、その電話でどんな話をするのか、カウンセラーの方がどんな言葉をかけてくれるのかは興味があります。
やっぱり、「生きてさえいればいいことがある」的な言葉ですかね?
「生きてさえいればいいことがある」というのは無責任で中身のない言葉だと思います。
経験上言わせてもらうと、生きているだけで、つまり、部屋に引きこもって誰とも会うことなく、ひたすらパソコンのキーボードを叩いているだけでは「いいこと」が向こうから転がり込んでくるなんてこと、ありえないですから。
相手のことを心から心配し、徹底的に面倒を見る覚悟があれば話は別ですが、その場しのぎに「生きてさえいればいいことがある」というのはどうかって思いますね。
それとも「残された人が悲しむからじ死んではいけない」的な言葉でしょうか。
申し訳ないですけど、この言葉が一番腹が立ちますね。
「残された人が悲しむから死んではいけない」というのは、言い換えれば「悲しむ人がいない人は死んでも構わない」ってことじゃないですか(自分にはそう聞こえます)。
見ず知らずの人に「死ね」と言われても特に思うことはありませんが、誰かが「残された人が貸しむから死んではいけない」と言っているのを聞くたびに、そうか、自分は生きていても仕方のない人間なのだなと気持ちがどんよりして生きる気力が削られます。
自分がもし「死にたい」という人に出会ったとしても自殺を止めるようなことはしないと思います。
その人も理由もなく死にたいわけではないでしょうからね。
ただ、その人の「死にたい」が本当の「死にたい」なのか、それとも一時的な気の迷いなのか、それを見極める必要はあるかと思っています。
ビルから飛び降りたはいいが、やべっ、ほんとに死にたいわけじゃなかった!と気づいても後の祭りですから。
自分がもし「死にたい」という人に出会ったら、「とりあえず山に登れ!」って言いますね。
山に登って頂上まで行け、と言います。
自分は「生きる」というのは単に「生きている」だけではダメだと思っています。
明日はこうしよう、将来はこうありたい、そういった希望を抱いて生きることが本当の「生きる」だと思うのです。
美味しいものを食べて美味しいと思い、本を読んだり、映画を観たりして感動する、涙を流し、喜び、時に怒り、悲しむ、それが「生きる」ってことなんじゃないでしょうか。
心が死んでいたら、生きていても仕方がないって思いますね。
だから前述の「山に登れ」は「本を読め」でも「映画を観ろ」でも構わないのですが、本や映画って駄作である確率も低くはないので(というか高い)、「死にたい」という人に薦めるのはちょっと怖いです。
その点登山は、頂上まで登って、遠くの景色を眺めたら、(高確率で)心が揺り動かされると思うのです。
もし心が揺り動かされるようであったら、その人の「死にたい」は本当の「死にたい」じゃない。
だったら生きればいいのに、って思います。
ちなみに自分は先日黒髪山に登った時、山頂ではあまりにきつすぎて、「きつい」しか感想はなかったですけどね。
自分も存外心が死んでいるのかもしれません。笑。
【命の電話】、「死にたい」と思うことも最近はないので(最近?)かけたことはありませんが、その電話でどんな話をするのか、カウンセラーの方がどんな言葉をかけてくれるのかは興味があります。
やっぱり、「生きてさえいればいいことがある」的な言葉ですかね?
「生きてさえいればいいことがある」というのは無責任で中身のない言葉だと思います。
経験上言わせてもらうと、生きているだけで、つまり、部屋に引きこもって誰とも会うことなく、ひたすらパソコンのキーボードを叩いているだけでは「いいこと」が向こうから転がり込んでくるなんてこと、ありえないですから。
相手のことを心から心配し、徹底的に面倒を見る覚悟があれば話は別ですが、その場しのぎに「生きてさえいればいいことがある」というのはどうかって思いますね。
それとも「残された人が悲しむからじ死んではいけない」的な言葉でしょうか。
申し訳ないですけど、この言葉が一番腹が立ちますね。
「残された人が悲しむから死んではいけない」というのは、言い換えれば「悲しむ人がいない人は死んでも構わない」ってことじゃないですか(自分にはそう聞こえます)。
見ず知らずの人に「死ね」と言われても特に思うことはありませんが、誰かが「残された人が貸しむから死んではいけない」と言っているのを聞くたびに、そうか、自分は生きていても仕方のない人間なのだなと気持ちがどんよりして生きる気力が削られます。
自分がもし「死にたい」という人に出会ったとしても自殺を止めるようなことはしないと思います。
その人も理由もなく死にたいわけではないでしょうからね。
ただ、その人の「死にたい」が本当の「死にたい」なのか、それとも一時的な気の迷いなのか、それを見極める必要はあるかと思っています。
ビルから飛び降りたはいいが、やべっ、ほんとに死にたいわけじゃなかった!と気づいても後の祭りですから。
自分がもし「死にたい」という人に出会ったら、「とりあえず山に登れ!」って言いますね。
山に登って頂上まで行け、と言います。
自分は「生きる」というのは単に「生きている」だけではダメだと思っています。
明日はこうしよう、将来はこうありたい、そういった希望を抱いて生きることが本当の「生きる」だと思うのです。
美味しいものを食べて美味しいと思い、本を読んだり、映画を観たりして感動する、涙を流し、喜び、時に怒り、悲しむ、それが「生きる」ってことなんじゃないでしょうか。
心が死んでいたら、生きていても仕方がないって思いますね。
だから前述の「山に登れ」は「本を読め」でも「映画を観ろ」でも構わないのですが、本や映画って駄作である確率も低くはないので(というか高い)、「死にたい」という人に薦めるのはちょっと怖いです。
その点登山は、頂上まで登って、遠くの景色を眺めたら、(高確率で)心が揺り動かされると思うのです。
もし心が揺り動かされるようであったら、その人の「死にたい」は本当の「死にたい」じゃない。
だったら生きればいいのに、って思います。
ちなみに自分は先日黒髪山に登った時、山頂ではあまりにきつすぎて、「きつい」しか感想はなかったですけどね。
自分も存外心が死んでいるのかもしれません。笑。
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