「第三阿房列車」、百鬼園先生は、ヒマラヤ山系君と長崎、房総、四国、松江、興津、不知火へ。
長崎の旅、東京駅では、いつも見送りに来る「見送亭夢袋」さんがやって来て曰く「どうも、どうも」。それについて百鬼園先生は論じる。
『役所の彼の周囲の諸君は「どうも、どうも」と云う。・・・何の事だか解らないと云う程の事ではない。あな、ああ、おおなどの間投詞の代用であろう。しかし以前はこう云う風には云わなかった。矢張り人心弛緩の一つの証左かもしれない。』
確かに、小生も含め、「どうも」という言語を何気に発してしまっている。改めて考えてみると、「こんにちわ」とか、ある意味「毎度」という言葉もそれに合うのかもしれない。
房総では、面白いルート設定になっている。
『初めの日に千葉を通って成東へ出て銚子へ行き、次の日に銚子から成田を廻って千葉へ帰ってくるので、そっちの側に楕円を一つ描くことになる。・・・千葉から出て千葉に帰るもう一つの楕円を、東京湾沿いの内房州と太平洋岸の外房州とで描くから、楕円が二つ出来て、千葉を鼻柱とした鼻眼鏡の様な旅である。』まじまじと千葉の路線図を見ると、確かに、百鬼園先生が言う通り、楕円が二つできる。小生の大人の休日倶楽部フリーパスの旅、今回は、五井から「小湊鐵道」と「いすみ鉄道」経由で大原へ、その後、東金線・総武線経由の佐倉、こんな感じで、百鬼園先生とは違った楕円を描く旅である。そして、面白い一説、」ヒマラヤ山系君が「犬吠崎と云うことを知っていますか」、「歌を歌って調子が外れるのがいるでしょう」「そう云うのを犬吠崎というのです」。なるほど、犬吠崎は、銚子(調子)の(が)外れにある。いわゆる「音痴」である。これは受けた。
この本を読んでいると、昔懐かしい国鉄の仕草や駅名を知ることが出来る。小生が平駅のホームで観ていた光景、駅職員が大きく手を回して運転手か車掌から丸い輪っかを受け取る。それで、列車の発着などを確認して混乱がないようにしていた。「特別急行本来の速さになって、途中の駅を飛ばして走る。・・・・その遠ざかっていくホームの端に、駅長や助役の服装をした人の姿が、こっちを向いて起立し、足を揃えて通過した列車を見送っている。」いわゆる「指さし確認」なんだろう。でも、今は、知る限り、通過列車に駅職員はホームには立っていない。
興津の旅では、百鬼園先生が学生時代、郷里の岡山に帰る自分の思いで。「郷里の岡山に帰省する途中通った時分には、清水と云う駅は無かった様な気がする。・・・・清水は昔の江尻駅だそうで、・・・。その頃は東海道本線に横浜と云う駅はなく、今の横浜駅の在る所は平沼駅であった。・・・そんな事を云い出せば京都と云う駅もなかった。・・・今の京都駅の在る所は七條駅であった。大阪と云う駅もなく、梅田駅であった。」時の流れを感じる。生活に密着した地名が駅名になっていた様だ。そういえば、平駅もいわき駅になってしまった。小生の心の中では、未だ「平駅」である。
百鬼園先生の「阿房列車」を読んで、改めて、旅をしたくなってしまった。本を読みながら、パソコンのグーグルマップを眺め、どの様なルートで百鬼園先生が旅をしているか、ワクワクする。
長崎の旅、東京駅では、いつも見送りに来る「見送亭夢袋」さんがやって来て曰く「どうも、どうも」。それについて百鬼園先生は論じる。
『役所の彼の周囲の諸君は「どうも、どうも」と云う。・・・何の事だか解らないと云う程の事ではない。あな、ああ、おおなどの間投詞の代用であろう。しかし以前はこう云う風には云わなかった。矢張り人心弛緩の一つの証左かもしれない。』
確かに、小生も含め、「どうも」という言語を何気に発してしまっている。改めて考えてみると、「こんにちわ」とか、ある意味「毎度」という言葉もそれに合うのかもしれない。
房総では、面白いルート設定になっている。
『初めの日に千葉を通って成東へ出て銚子へ行き、次の日に銚子から成田を廻って千葉へ帰ってくるので、そっちの側に楕円を一つ描くことになる。・・・千葉から出て千葉に帰るもう一つの楕円を、東京湾沿いの内房州と太平洋岸の外房州とで描くから、楕円が二つ出来て、千葉を鼻柱とした鼻眼鏡の様な旅である。』まじまじと千葉の路線図を見ると、確かに、百鬼園先生が言う通り、楕円が二つできる。小生の大人の休日倶楽部フリーパスの旅、今回は、五井から「小湊鐵道」と「いすみ鉄道」経由で大原へ、その後、東金線・総武線経由の佐倉、こんな感じで、百鬼園先生とは違った楕円を描く旅である。そして、面白い一説、」ヒマラヤ山系君が「犬吠崎と云うことを知っていますか」、「歌を歌って調子が外れるのがいるでしょう」「そう云うのを犬吠崎というのです」。なるほど、犬吠崎は、銚子(調子)の(が)外れにある。いわゆる「音痴」である。これは受けた。
この本を読んでいると、昔懐かしい国鉄の仕草や駅名を知ることが出来る。小生が平駅のホームで観ていた光景、駅職員が大きく手を回して運転手か車掌から丸い輪っかを受け取る。それで、列車の発着などを確認して混乱がないようにしていた。「特別急行本来の速さになって、途中の駅を飛ばして走る。・・・・その遠ざかっていくホームの端に、駅長や助役の服装をした人の姿が、こっちを向いて起立し、足を揃えて通過した列車を見送っている。」いわゆる「指さし確認」なんだろう。でも、今は、知る限り、通過列車に駅職員はホームには立っていない。
興津の旅では、百鬼園先生が学生時代、郷里の岡山に帰る自分の思いで。「郷里の岡山に帰省する途中通った時分には、清水と云う駅は無かった様な気がする。・・・・清水は昔の江尻駅だそうで、・・・。その頃は東海道本線に横浜と云う駅はなく、今の横浜駅の在る所は平沼駅であった。・・・そんな事を云い出せば京都と云う駅もなかった。・・・今の京都駅の在る所は七條駅であった。大阪と云う駅もなく、梅田駅であった。」時の流れを感じる。生活に密着した地名が駅名になっていた様だ。そういえば、平駅もいわき駅になってしまった。小生の心の中では、未だ「平駅」である。
百鬼園先生の「阿房列車」を読んで、改めて、旅をしたくなってしまった。本を読みながら、パソコンのグーグルマップを眺め、どの様なルートで百鬼園先生が旅をしているか、ワクワクする。