2006年8月
【慶視点】
浩介が一足先に日本を離れてから4か月たった。
連絡が取れにくいので、この4か月で電話で話せたのも数回しかないけれど、音信不通だった3年間に比べたら雲泥の差だ。
正直、職場での風当たりはきついし、語学を含め、新たに勉強しないといけないことが山のようにあるしで、凹みそうになることもある。でも、これから待ち受ける浩介と共に生きる時間を思ったら、どんなことでも乗り越えられる。
「たーだいまーっと………」
誰もいない部屋に帰る。4か月前までは、孤独に押し潰されそうになっていたけれど………
「………はいはい。わかってるよ」
冷蔵庫に張られた浩介の手書きの文字を見て、温かい気持ちに包まれる。
『ご飯は一杯まで。とにかく、ちゃんと野菜も食べること』
「食べる食べる」
トマト買ってきた。カレーの残りもある。
『カレーの温め直しはよく混ぜてね』
「混ぜる混ぜる」
昨日、大量に作ったカレーをぐるぐる混ぜる。
『ちゃんと噛むこと。忙しくても早食いしないでね』
「たく、うるせーなー。子供じゃねーっつの」
張り紙を見るたびに、くくくと笑ってしまう。浩介がいる。この部屋には浩介がいる……。
4か月前……浩介出発の朝。
おれは仕事だったので、朝7時過ぎにうちを出なくてはならなかった。
「じゃ、色々作って冷凍庫に入れておくからね?」
「んー、サンキュー」
離れ離れになる前と同じやり取り。あの頃も浩介はうちに来ると作りだめをしてくれていた。それを当然のことのように甘えて受け入れていた当時のおれ……。
3年前の、浩介が出国する日には、冷凍庫のおかずはすべて無くなっていた。おそらくこの日までに全部食べ終わるように計算して作っていたのだろう。
『おれのことなんか、忘れていいよ』
あの時、浩介はそう言っていた。忘れさせるために、自分の痕跡を全て消し去っていったのだ。歯ブラシもマグカップも、浩介のものは全て無くなっていた。
そのことに気がついた時の絶望感は、今、思い出しても震えがくる。
「鍵、持っていくね?」
「ん」
3年前、唯一残されたのはこの合鍵……。でも今度は取り残されない。お前と一緒に行く。
「じゃ、お仕事頑張ってね」
「お前も気をつけてな」
「うん」
玄関先で、ぎゅーっ、ぎゅーっ、ぎゅーーーっと抱きしめあう。
浩介が日本にいた5日間、出来る限り一緒にいた。仕事もなるべく早めに上がらせてもらった。それでも足りない。足りないけど………
「じゃあな」
「うん」
きりがないから、無理矢理に体を離した。
「行ってくる」
「いってらっしゃい」
コツンとおでこをくっつける。
「いってこい」
「行ってきます」
触れるようなキスをする。
「じゃあ……」
「ん」
そして、もう一度だけ、ぎゅっと抱きしめあってから、振りきるように勢いよくドアから出た。
「痛え………」
胸が、痛い。痛いけれど、半年後からはずっと一緒にいられるんだ。と、なんとか気持ちを持ち直す。
たった半年の辛抱だ。3年に比べたら全然短い。すぐに過ぎる。
そう思いながらも、さすがにこの日は何となく落ち込み気味に一日を過ごし、深夜に誰もいない部屋に帰ったのだけれども………
「……………何だこれ」
冷蔵庫に張ってある、浩介手書きのメモ紙に気がついて、笑いだしてしまった。
『おかえりなさい』
『2週間分は作ってあるけど、あとは頑張って自分で作ってね』
『休みの日にカレーの作り置きをするのもおすすめだよ』
『カレーの温め直しはよく混ぜてね』
『あと、ちゃんと噛むこと。忙しくても早食いしないでね』
『ご飯は一杯まで。とにかく、ちゃんと野菜も食べること』
『お弁当買うのもいいけど、ちゃんと野菜も入ってるものを選んでね』
「…………浩介」
3年前は自分の存在を消して出ていった浩介。でも、今回はこんなにもはっきりと温もりを残してくれている。
「ちゃんと野菜、ちゃんと野菜」
浩介の声が聞こえてくるようだ。3年前もいつも口うるさく言っていた。「ちゃんと野菜」って。
「浩介………」
そっと、その綺麗な文字を指で辿る。
「早く会いたい」
だから頑張る。だから頑張ろう。
お前と共に生きる未来のために。
***
出発まであと2か月を切り、東南アジアでの仕事の打ち合わせも、より具体的なものになってきた。
つい立てに囲まれた応接スペースで、事務局長と話していたところ、
「あ~、あかね先生、こんにちは。浩介先生どうだった?」
事務の大学生・リカちゃんが、あかねさんに問いかけている声が耳に入ってきて、思わずそちらを振り返ってしまった。
「うん。大丈夫そうだったよ」
「そう、良かった。びっくりしましたよ~」
二人の会話に心がザワザワする。浩介、何かあったのか? 「どうだった?」「大丈夫そう」って、それは、あかねさん、最近浩介に会いにいったってことか……?
浩介の友人である一之瀬あかねさんは、大学時代は舞台女優をしていた、ものすごい美人だ。今は都立高校の英語教師をしている。
教師という職業や、趣味が読書という共通点もあったりして、浩介とあかねさんは仲が良い。恋人のふりをしているせいもあって、余計に仲が良い。
あかねさんの恋愛対象は女性なので、浩介とどうこうなる心配はないのだけれども、そうはいっても、ここまでの美人だとヤキモキしてしまうし、二人がすごく仲が良いことも知っているので、モヤモヤしっぱなしで……
浩介がケニアに滞在していた間も、おれは1回しか会いに行っていないのに(しかも一泊しかしていない)、あかねさんは3回も行っていて、しかも何泊もしたらしい。それにもモヤモヤしている心が狭いおれ……。
二人もおれが良く思っていないことに気が付いているからか、普段は「あかね」「浩介」と呼び合っているくせに、おれの前では「あかねサン」「浩介センセー」と呼び合う。それが余計にムカつくんだけど、かといって、それをやめさせるのも違う気がするので、そのままになっている。
「あの……」
「ああ、ごめんなさいね。2人とも、その話はここだけの話って言ったでしょ?」
「え、だからここだけなんじゃないですかー」
リカちゃんが悪びれずもせず、ねえ?とあかねさんに言い、あかねさんは、つい立て先のおれの姿が目に入っていなかったようで、おれと目が合うと、大きな目をますます大きくして「あ」と口元に手を当てた。
なんだ……なんなんだよっ。
眉間にシワを寄せたまま事務局長を振り返ると、事務局長は苦笑して答えてくれた。
「浩介先生からは、慶君に言うと心配するから黙っててって言われてたんだけど……、浩介先生、倒れたのよ」
「え!?」
思わず立ち上がってしまった。た、倒れたって……っ
「でも、もう大丈夫だって。イザベラ先生からも、とりあえず大丈夫って連絡はきてるの」
「…………」
すとん、とまた座る。
イザベラ先生、は名前だけ知っている。現地にいるアメリカ人の精神科医のはずだ。
「慶君も知ってるのよね? 浩介先生の『発作』のこと」
「……………」
やっぱり、発作、か………。
「…………。昔よりはだいぶ出なくなったと思ってたんですけど」
浩介は過換気症候群の発作を起こすことがある。でも、就職してからはずいぶんよくなっていた。
「そうみたいね。ケニアでも何度かあったみたいだけど、頻繁ではなかったらしいわね」
「……………」
ああ、どうしておれはそんな時にお前と一緒にいられないんだ。発作を起こしても、おれに抱きしめられると、すぐに良くなるって、浩介は昔よく言っていたのに………
「でも、あと2ヶ月で慶君と合流できるから安心だって、浩介センセー言ってました」
穏やかに、あかねさんが言う。
「そうね、お医者様と一緒に住むから安心よね」
事務局長もうんうんとうなずいている。
浩介とは「ルームシェア」することになっている。今、浩介は老夫婦とルームシェアしているそうで、その夫婦が今月いっぱいで出ていくので、おれはその後に入ることになっている。ちょうど良い物件を上手いこと見つけたもんだ……。
その後の打ち合わせは、気が入らなくて、早々に切り上げさせてもらった。
何となく気持ちがクサクサしたまま事務局を出たところで、
「慶君」
「え」
良く通る声に呼び止められた。
「ちょっと飲みにいかない?」
「………………」
振り返ると、あかねさんの大きなアーモンド型の瞳がこちらをジッと見つめていて……
「……………はい。喜んで」
何となく………何となく、受けて立つ!って気持ちで見つめ返すと、あかねさんに苦笑いをされてしまった。
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お読みくださりありがとうございました!
慶とあかねの話は以前から、書こうかなあ、でもつまんないから書くのもなあ、とずっと躊躇していた話でして……。次回チラリと書ければいいな、と思っております。
次回火曜日。後日談4.2。どうぞよろしくお願いいたします。
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