【享吾視点】
それは、ほとんど無意識の行動だった。
「黙れ!」
自分の怒鳴り声がどこか遠くから聞こえてきたのと同時に、ゴッと手に衝撃が走った。その瞬間、廊下の壁にぶつかった松浦暁生の姿が視界に入ってきて……
「うわ! 暁生! 大丈夫か?!」
「………っ」
そして、オレには見向きもせずに、松浦に駆け寄った村上哲成の姿を見て、心臓の奥の方が痛くなった。殴った手の痛みよりも、心臓が痛くて痛くて……オレはその場にしゃがみこんでしまった。
***
松浦暁生を殴ったことには、もちろん理由がある。先生にも親にも、そして、村上哲成にも問い詰められたけれど、オレも松浦も本当のことは言わなかった。言えるわけがない。
松浦を殴った前日……
オレは村上哲成に頼まれて、図書室で閉室時間まで一緒に自習をした。そして、かなり遠回りをしながら帰ってきたので、村上の家に着いたのは5時を過ぎていた。
この日の村上の行動はとにかくおかしかった。帰り道でも、陽気に歌を歌っていたかと思うと、「グリコで帰ろう!グリコ!」と言ってジャンケンをさせ、でも、オレが何回か勝って前に行きすぎると、「さみしいから置いていくなー!」と言って、追いかけてきて背中をバシバシ叩いてきて……
(……不安定、だな)
無理にはしゃいでいる感じがする。
変な行動を決定付けたのは、帰宅後、村上の部屋についてからだ。村上は、自分の部屋にもかかわらず、恐る恐る、といった感じに中に入っていき……、なぜかいきなり、腰が砕けたみたいに倒れそうになった。
「村上!?大丈夫か!?」
あわてて抱きとめたけれど、顔色は真っ青で……。
「ちょっと、とにかく、横に……」
「嫌だ!」
「?!」
ベッドに寝かせようとしたら、必死の叫び声と共にしがみつかれたので、そこで行動が止まってしまった。
(嫌って……)
だから、いったい、なんなんだよ?
訳も分からず、途方に暮れながら、頭を撫でてやると、村上はオレの腕の中で小さく、小さく言った。
「キョーゴ……ピアノ弾いて」
「…………」
本当に、なんだか分からない。けれども………
「………分かった」
そう、うなずくと、村上はギュウッと抱きついた腕に力を込めてきた。同じ強さで胸の奥の方がギュウッと温かくなる。だから、ギュウッと抱きしめ返してやった。
オレがピアノを弾く間、村上はいつもは壁に寄りかかって座っていることが多いのに、この日はやはり様子が違い、「ここ座ってていいか?」と、オレの隣に座ってきた。だから、なるべく左腕の動きが少ない曲を選んで、弾いてやる。と、
「暁生はさ、オレのヒーローなんだよ」
「…………」
ポツポツ、と村上が話し出した。
幼稚園の頃から、小さくて揶揄われやすかった村上は、松浦暁生にいつも助けてもらっていたそうだ。母親が亡くなった時も慰めてくれて、中学で野球部に入ってからも、優しくフォローしてくれて、大会最後の打席も譲ってくれて……
「だから、暁生の頼みは何でも聞きたかったけど……」
「…………」
「でも、無理って思って……」
「…………」
「でも、叶えるべきなのかな。オレが我慢すればいい話だもんな……」
「………?」
なんの話だ? と聞きたいけれども、村上は独り言を言っているだけで、答えを求めている様子はないので、黙ってピアノを弾き続ける。
「そうすれば、前の暁生に戻ってくれるかな……」
「…………」
左側から温もりが伝わってくる。でも、その近さの分だけ、心の遠さを感じて、心臓のあたりがチリチリと痛くなる。
こんなに近くにいるのに、村上の中にオレはいない……
***
翌日、村上哲成は学校にこなかった。
村上もオレと前後ろの順番で今日が三者面談なのに、どうするんだろう?と思っていたら、担任の国本先生から「面談の時間だけ来るって連絡があった」と聞かされ、ホッとした。学校に来られる元気はあるということだ。
オレは一度帰るのも面倒なので、昇降口近くの廊下のベンチに座って、母親が来るまで時間を潰すことにした。
帰宅の波が一段落して、運動部のかけ声と吹奏楽部の楽器の音が遠くの方から聞こえるだけの、静かな空間となった中で、
「よお」
「!」
ドンッと大きな音を立てて隣に座られた。松浦暁生だ。
「面談?」
「………うん」
「オレも」
「そっか」
「……………」
「……………」
気まずい雰囲気が流れる……。と、松浦が何でもないことのように言った。
「テツ、何で今日休んでんの?」
「………………。さあ?」
松浦のせいじゃないのか? という言葉を飲み込んで「知らない」と答えると、松浦はあの、嫌な笑いを浮かべた。
「知らねえのかよ? お前ら『仲良し』なんだろ?」
「は?」
思いきり眉を寄せてしまった。
「別に『仲良し』じゃない」
「毎日家に行ってんのに?」
「それは合唱大会の練習のためだ」
「ふーん?」
「…………」
なんだその馬鹿にした笑い……。ムカつく。
「………………。仲良しなのは、松浦だろ? 親友、なんだろ?」
「あー、そうそう。シンユウ、な」
「…………」
夏休みに話した時と同じで、松浦の「シンユウ」という言い方は冷たい。なんでそんなに冷たい言い方をするのだろうか。それに、詳細は知らないが、松浦は村上が「無理」と思うことを頼んでいるらしい。嫌がることをさせるなんて「親友」って言えるのか?
そう思ったら、するりと言葉が出てしまっていた。
「松浦にとって、親友って何なんだ?」
「は?」
松浦は思いきり眉を寄せた。
「何って?」
「なんか……松浦のいう『親友』と村上のいう『親友』って違うから」
「………。テツが何か言ってたのか?」
「別に何も」
「…………」
「…………」
またしても気まずい沈黙。長い長い沈黙……。吹奏楽部の音がやけに大きく聞こえる……、と、
「あーああっ」
「……っ」
いきなり松浦が叫んで立ち上がったので、ビクッとしてしまった。でも、そんなオレには構わず、松浦は、大きく伸びをして、それから、ふううううっと大きく息を吐きだして……くるり、とこちらをむいた。
「!」
今までみたことのないような、卑屈な笑顔に、息を飲んでしまう。別人みたいだ……
「オレにとっての『シンユウ』はさ」
「…………」
にやりとした松浦。
「雑用引き受けてくれる便利屋?」
「………っ」
何……っ
「しかも、テツはチビで運動できなくて、オレのちょうどいい引き立て役なんだよ」
引き立て役……?
「庇ってやるとオレの株が上がるしな」
「株って……」
そんな……っ
昨晩の村上の言葉を思い出す。
『暁生はさ、オレのヒーローなんだよ』
ヒーローだって……ヒーローだって村上は言ってたのに……
「でも、大事な試合で、打席を変わってくれたって……」
思わず言ってしまうと、松浦は「アハハハハハ」とわざとらしい笑い声をあげた。
「あれは押しつけただけだし」
「え……」
なにを……
「相手ピッチャー、市選抜のエースピッチャーでさ。しかもあの日メチャメチャ調子よくて、第二打席にヒット出たのが奇跡なくらいで」
松浦は両手を挙げて「降参」のポーズとした。
「第一打席は三振だったから、これで勝負はタイ。次、打てなかったら対戦成績負けになるだろ?」
「…………」
「しかも最後のバッターになるのも嫌だったしな。だからテツに押し付けたんだよ」
「…………」
「なのに、テツも監督もみんなも『美談』みたいに話してて、マジで笑える」
「松浦………」
この話を誇らしげにしていた村上の顔がちらついて胸が痛くなる。
「あーああ、テツはオレの一番の『シンユウ』なのに、最近おかしいんだよなあ」
松浦はわざとらしくため息をついた。
「オレに意見しやがって……今までどんだけ世話してやったと思ってんだよ……って、まあオレも世話になってるけどさ」
軽く笑ってから、スッとこちらに目を向けた松浦。冷たい、目……
「お前の影響か?」
「………………え」
オレの影響?
「なんでオレの……」
「そもそも、オレはテツに享吾と仲良くするなって言ったんだよ。なのに、あいつそれも守らなかった。生意気すぎる」
「……………」
松浦……いつもの松浦とはまるで別人だ。
「松浦……」
「あ、あれテツだな」
「え」
言われて外をみると、遠くの方に、村上らしき人影がこちらに歩いてきているのが見える。
「テツがオレのいうこと聞かないなら、もう『シンユウ』やる意味ないんだよなあ」
「え………」
松浦は村上から目を離さず、独り言のように言葉を継いだ。
「もう。やめるか。面倒くせえし」
「何を………」
「あーでも、そうすると、家借りられなくなるか。それは困るなあ。毎回ラブホテルじゃ、小遣いいくらあっても足んねえし」
「ラ………!?」
何を言ってる………、といいかけて、昨日の村上の様子を思い出した。自分の部屋で倒れそうになった村上。ベッドに寝ようとしなかったのは、そういうことか……?
『でも、無理って思って……でも、叶えるべきなのかな。オレが我慢すればいい話だもんな……』
苦しそうに言っていた村上。そんな……そんなの……
「やっぱり、シンユウ続行だなー。まだまだオレの役に立ってもらわないと」
「…………松浦」
どうしようもない怒りが込み上げてくる。何がシンユウ………何が、シンユウ、だ。それなのに、村上は松浦のことを本当に慕っていて、オレと一緒にいたって松浦のことで頭がいっぱいで………こんな奴なのに。こんな奴なのに……
「おーい、テツー」
ニヤニヤしながら、松浦が昇降口の入口についた村上に向かって手を振っている。
「明日また家借りたいんだけどー」
「……………っ」
松浦……っ
「いいよなー?」
「松浦………っ」
村上は、『無理』って言ってた。言ってたんだよ!
「なあ、テツ……」
「黙れ!」
気が付いたら松浦のことを殴っていた。人を殴るなんて生まれて初めてだ。
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