3年前か。
機会があって、こういう話をした。
時間を頂いて話をすることになりました。依頼されたテーマには「伝えたいこと」とありました。それを見て思いました。「伝える=コミュニケーション」これは実のところ相互の関係です。例えば、私が伝えたいと思っても、受け手が聞きたくないと思う場合、関係は成立しません。一方で、こういう場面で、ですが寝ていたから聞くことができなかったという場合も関係は成立しません。ただこれらは、どちらも相互の関係以前の問題があります。今回の場合、この時間、皆さんは聞くことが仕事になります。
もちろん、受け手の側できこえないからきくことができなかった(声が小さくて聞き取れなかったみたいなことです)というのは次元が違う問題で、依頼する企画する側が解決すべき問題です(難聴である私は以前はこういう時に放っておかれることが少なからずありました)。
で、ききたくなくてもきかなければならないみなさんに「聞け」というほどの話ができるかといえばそうではないです。私も強制されるのは嫌いです。ただ与えられた仕事として、最低限、みなさんが受け取った上で解釈を加えていただける材料を提供する必要はあります。
私は、仕事を始めて22年目になります。もうすぐ大学卒業までと卒業してからの年数が同じになります。この職種で採用され、ほとんどこの「畑」で仕事をしてきました。そもそもこの職種は希望ではなく、いろいろな偶然やらタイミングやらもあって現在に至っていると思います。話をきく場合、講師が何を云うかよりも、講師がどんな人かの方が断然興味を持つものです。まだ、振り返る年齢ではないですが、やはり振り返りながら、自分の考えを述べさせていただくのがいいかと思っています。自分の中で結論が出ていない話もあります。後は受け手である皆さんに委ねます。
私がこの分野の仕事を志向したのは、大学3年の「インターンシップ」の時に、部署内で他の方がやり取りしている声が聞こえなかったことについて、担当者に「それではこの仕事は無理である」と云われたことがきっかけです。この音声でのやり取りの必要性が比較的少ない分野での仕事を探し、現在のポジションにたどり着きました。今なら「きこえんのが無理とかいうの、そんなんおまえに言われたない(決められたくない)わ」とはっきりいえるんですが、当時はそこで妙に納得してしまいました。
小さい頃から自身の「聞こえなさ(きこえなくさ)」を自覚していながらも、気付かれることはとても嫌でした。そして、不安でした。気付かれても決してそれを認めませんでした。当時は、きこえにくいという「障害」のある人が今ほど自由に大学に行ったり仕事を決めたりできる環境にはなかったわけです(本当です)。認めてしまうとアウトなので、必死でごまかしていました。難聴者のカテゴリーに入りたくない、ということまでは思ってなかったのですが、可能性を限定されるのはとても苦痛でした。聞こえにくいことは言わなくても言っても損、みたいな気持ちは今でもあります。誤解も多いです。
補聴器をするようになったのは、採用後1年が過ぎてからです。学生でいる時は、自分が損するだけでも、仕事になると周囲に迷惑がかかるなあと感じるようになったからです(ということを一応理由にしています)。でも本当は、1年の「条件付き雇用」が終了し、かんたんにクビになることはなくなった、ということです(それぐらい、難聴であることの不利益は大きかったです)。
私が、仕事を通して一貫して持ち続けたのは、自分がしたいとかしたくないという仕事の中身は別にして「仕事としてしなければならないこと」をまじめに取り組むこと、その時その時の与えられた役割をきちんと果たすということです。これは、よく聞かれる「クライエントを第一に」というフレーズのより以前の段階で、社会人として基本中の基本です。 一つ一つのことを丁寧に取り組むことが結果として微々たるものではあっても、その積み重ねが当事者であるクライエントに還元されるのかなあと最近思います。
クライエントへの直接的な対応は、どちらかといえば苦手意識があり、器械を相手にしている方が何時間でもできるというのが正直なところです。ただ、若いときは、そういう部署には当然のことながら配属されず、10年ほどは、直接クライエントに対応する部署で仕事に励みました。 そのクライエントへの対応では、自分の至らなさを感じることが多かったです。相手にしてみれば、大学出たての兄ちゃんに何が分かる、みたいな感じだったのだろうと思います。いろいろなことばの使い方や、コミュニケーションのすれ違いなどがたまったのでしょうか、ある日あるクライエントから「もう結構です」と殴り書きのメモを突きつけられました。その日は、それこそ生まれて初めてショックで食事ができなかったことを覚えています。それは、単に反省ではなく、どうして、という気持ちでした。
当時は、残念ながらそれが見えませんでした。
それを一つ一つ理由を説明しても届かない。それは違うことだと私が言っても頑として受け入れない。それぞれものごとの理由があり関係があり背景があるのだと言うことを説明しようとするのですが、なかなか納得してもらえない。クライエントと信頼関係を作るというのは、なかなか難しいです。正直に言えば、この年になっても答えは未だにはっきりしません。スキルとかマニュアル的なものでは解決しない気もします。とはいえ、この年にいろいろな難しさを経験できたことで、以後の実践のベースができた気はしています。
研修についてはそれなりに課題意識を持って取り組みました。自分の興味関心に関係なく、その時に担当していることをテーマにして、掘り下げて考えました。その時に、自分の興味がある分野を切り口として、少し違った視点から仮説を立て、研究レポートにまとめました。この時は、単にレポートを書くために研修をするのではなく、この機会をとらえて資料にあたり、仮説を立て、実践し、振り返り、再び実践するというプロセスを経て、自分のものにすることができたと考えています。その他の研修にしても、私の場合、既存の書式や様式ではなく、自分自身が考えた様式でレポートを書き、それを含めて批評してしてもらいました。
既存のフォーマットから逸脱していたこともあり、こんなのレポートじゃないと職場の先輩に怒られることもありました。
初任地から転勤後、少し経って、希望する補聴器調整等々を中心とした今の部署に配属されることになりました。といっても、今まで全くしたことがないので、毎日遅くまで測定器と向き合いました。今、同僚から「教えて」と言われる立場になっていますが、そのたびに「どこまでこの人は自分でやったんだろう」と思いながら話に応じています。自分に必要なことは、聞いてすませるだけではダメです。最低限、問題点を具体的に持っていないと人は教えてくれません。問題点を具体的にするということは、自分である程度は勉強しておかなければ話ができないし聞けないということであると思います。また、この時に、ST(言語聴覚士)の資格をとり、これとは別に合格率10数%という難関の資格試験にも合格しました。私は、大学受験より採用試験より、この時の試験勉強が人生で一番勉強した気がします。資格という目に見えるものを加えて、とりあえず相談にやってくるクライエントに安心される存在でありたいと思いました。
私の好きなことばの一つに「質より量」というフレーズがあります。「量より質」ではありません。とりあえず量をこなして質に近づけるしかないなというのが現実ではないかと思います。
13年後、一旦専門外の別の分野の職場に転勤になりました。ここに来られるクライエントの困り感、想いは、これまで担当していた方々のものとは違うと思いました。再び、直接クライエントと向き合うポジションに入り、試行錯誤しながら取り組みました。後で人づてに、そのときのクライエントが、これまでしてもらえなかったことをしてくれてありがたい、感謝していると言っていたことを聞きました。その内容は、私が専門でやってきた分野の延長で考えた内容で、その分野では的はずれなことなのかもしれないなと思っていたことだったのですが、クライエントの言葉から、結果として、それはそれで十分アリなんだろうと思いました。今までの蓄積も、いくつかは専門外の所でも、活かさせるのかなと思ったりもしました。
4年前、再び今の職場に戻り、これまでより高い年齢層をクライエントに持つことになりました。自分自身の「きこえにくさに折り合いを付ける過程」を思い出しながら、向き合いました。話を聞いてくれるクライエント、拒否して絶対に目を合わせないクライエント、いろいろでした。それはそれでいいと思いました。直接の担当を離れてからようやく話しかけてくれるようになった方もいました。
見えにくい難聴という障害は特にそうだと思うのですが、改善というのは正常化、つまり治るということではなく、あくまでQOLの改善です。ですから、聞こえないことと一生つきあう以上、どこかでその状態と折り合いを付け、周囲にも見えるものにしていく必要があるのは確かです。しかし、自身の経験からすれば、障害を周囲にカミングアウトするには環境が整っていないと孤立するのは変わりません。不利益を受けるだけと言うことも多いです。これらのことが、今、うまく説明できないかと四苦八苦しています。ここ数年、いろいろなところで聴覚障害についての話をする機会をいただくようになりましたが、まだまだうまく説明できないでいます。分かると言うことと説明できることのギャップを感じます。
まとめです。私が考えるのは、すべてのことは単に仕事であるということです。目の前のことをやるだけです。言葉足らずな点がありますが、ここから先は受け手に委ねます。発信者である私もまた今日のことを自分に還しつつ反省しつつ前に進みます。ありがとうごさいました。
で。
まだ満開前の桜。先がまだあるこれぐらいの状態で頑張ろうと思ったりする。