ざっくばらん(パニックびとのつぶやき)

詩・将棋・病気・芸能・スポーツ・社会・短編小説などいろいろ気まぐれに。2009年「僕とパニック障害の20年戦争出版」

若い罪(40)

2020-11-12 13:38:52 | 小説
被害者である孝についても詳しく聞かれた。若い頃からの佐世子に対しての接し方、子供たちへの態度、特に正志との関係は幼少期から細かく問いかけてきた。しかし、佐世子には孝が正志に対して、一般家庭と比べて風変わりな教育をしてきたとは思えなかった。孝の平日は仕事で夜に疲れて帰宅するので、会話が少なくなるのは仕方がない。休日は男の子が孝一人だったのもあって、父子はよく外に出て、キャッチボールや虫捕りなどをして楽しんでいた印象だ。もっとも孝は現代っ子で虫は嫌いだったようだが。
勉強に関しても、孝は子供たちに押し付けるような父親ではなかった。しいて言えば、努力すれば報われるという意味合いの言葉を麻美や正志にはよく使っていた。それは孝の人生そのものだった気がする。正志は「古くせえ説教だな」と言っていたが、佐世子の感覚で正志はその古臭さをむしろ尊敬しているように捉えていた。

警察が強い関心を示したのは、夫婦が別室で寝るようになってから事件が起きるまでの5年間だった。この辺りから林田恵理との不倫関係が始まったと踏んでいるのかもしれない。刑事の質問に一つ一つ丁寧に答えた。刑事の視線が厳しさを増した。思えば佐世子自身が疑いの目を向けられるのは当然だった。もっとも恵理を恨んでいるのは佐世子と考えるのが自然である。自らは直接手を下していないだけで、共謀罪の疑いをかけられているのだろう。それは漠然と分かってはいても佐世子はもともと別の意味での共犯のように感じていた。
刑事とのやり取りは町田クリニックで話した内容に近かったので、比較的スムーズに話せた。要は「建前が多くなった.よそよそしくなった」という類の言葉を佐世子は並べた。
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若い罪(39)

2020-11-12 10:31:08 | 小説
孝の葬儀は近親者のみで行われた。参列したのは佐世子と麻美、彩乃の2人の娘。それに佐世子の年老いた両親のみだった。孝の両親はすでに亡くなり、彼の兄弟には連絡したものの怒りが強く、厄介ごとに巻き込まれたくない思いもあるのだろう。揃って「参列しない」との返事だった。佐世子はまだこの事態を受け入れられず、自分の殻に閉じこもっていた。それでも葬儀で耳に残った言葉はあった。
佐世子の父である良平が「正志とは縁を切る。もう孫ではない。あいつがすべてをぶち壊した。孝君の両親に合わせる顔がない」と涙ながらに話したこと。長女の麻美が「学校を退職した」とぽつりと言ったこと。父の気持ちには同情し、麻美の行く末は心配だったが、それ以上に佐世子の心は「もうどうでもいい。これ以上生きていても意味がない」という思いに支配されていた。

正志の供述は孝の司法解剖の結果や、恋人の林田恵理の証言とも一致していた。彼女は刑事に「犯人は私を狙っていたようです。彼がナイフを向けてこちらに走ってくるので逃げようとしましたが、恐怖で体が動かず、このまま殺されるんだと思った瞬間、孝さんが私の前に立ち、身代わりになったんです」と話した。
当然、川奈家にも警察は踏み込む。家宅捜査はすべての部屋で行われ、佐世子は事情聴取を刑事から受けた。加害者である正志の幼いころから最近の様子。どのように教育したか?正志と孝の関係。戸惑いながら応じたが、正志が孝の浮気相手の林田恵理を殺したいほど憎んでいたとは思いもよらなかった。
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若い罪(38)

2020-11-11 15:16:48 | 小説
「いや、俺はいいよ。遠慮する」
孝は真顔で否定した。恵理はからかうように嫌がる孝の手を引っ張る。
「いいじゃない、行こうよ。この人が私の彼氏ですって紹介してあげるから」
恵理が笑うと、それにつられるように孝も少し笑った。その時だった。2人が若い男に気付いたのは。全身黒づくめで黒のニット帽を被った男は木々の中から飛び出すと、2人が座っているベンチの方向へ走り出す。一瞬のことでK公園でくつろぐ人々は、まだ皆穏やかな顔をしている。若い男は距離を縮めながら何かを叫び、恵理を目がけてナイフを向けた。恵理は逃げようとしてベンチから体を浮かしたが、もう間に合いそうにない。慌てて孝が男の前に飛び出した。ナイフが孝の腹部に突き刺さった。男は慌ただしくナイフを孝から抜き、足早にK公園から姿を消した。

公園内がにわかにざわつき始めた。白いシャツに真っ赤な血が広がっていく。恵理が声を枯らして「孝さん、孝さんと呼びかける。数分後、救急車が到着し、孝は近くの大学病院に運ばれた。虫の息の中、孝は「犯人の罪を軽くしてください」と言い残し、そのまま意識を失った。病院に到着した時には心肺停止しており、まもなく死亡が確認された。所持品から身元はすぐに判明した。川奈孝 53歳。病院は妻である佐世子に夫が殺人事件の被害者になった事を知らせた。佐世子は彩乃を連れて数十分後に病院へ到着した。慰安室に彩乃の泣き声が響き、佐世子は感情を失った顔で孝を見つめていた。死因は大量出血によるショック死だった。

事件から3時間が経過した午後8時過ぎ、犯人は都内の警察署へ自首した。名前は川奈正志。川奈孝の息子だった。
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若い罪(37)

2020-11-11 15:08:22 | 小説
夕食を終えると早々に正志は自室に閉じこもった。明かりをつけたままベッドに横たわり、何んとなしに子供の頃を思い出していた。初めて自転車に乗れるようになった日、初めて泳げるようになった日、どれも鮮明に覚えていた。そしてその映像の中には必ず孝がいた。
自転車の特訓では途中まで倒れないように支え、そっと手を離す。当然のように正志は右へ左へと何度も倒れる。その度に「痛い」「もう無理」と弱音を吐く正志に「はい立ち上がって」「もう1回」と耳が聞こえなくなったように、正志の体を心配するような言葉はかけてくれない。「もう止める」という諦めの声が出かかった。
どれぐらい転倒しただろうか?「その調子、その調子」と孝が言う。左右にぶれながらも、ペダルをこぎ続けている自分がいる。自然と笑っていた。孝に頭を撫でられ「よくやった。大したもんだな」と褒められ、有頂天になる正志。そんな光景が次々と浮かんだ。次第にそれは淡くなり、白くなり、歪んでいった。正志は浅い眠りに落ちた。

秋の土曜の午後、昔ながらの夕食を終えると早々に正志は自室に閉じこもった。明かりをつけたままベッドに横たわり、何んとなしに子供の頃を思い出していた。初めて自転車に乗れるようになった日、初めて泳げるようになった日、どれも鮮明に覚えていた。そしてその映像の中には必ず孝がいた。
自転車の特訓では途中まで倒れないように支え、そっと手を離す。当然のように正志は右へ左へと何度も倒れる。その度に「痛い」「もう無理」と弱音を吐く正志に「はい立ち上がって」「もう1回」と耳が聞こえなくなったように、正志の体を心配するような言葉はかけてくれない。「もう止める」という諦めの声が出かかった。
どれぐらい転倒しただろうか?「その調子、その調子」と孝が言う。左右にぶれながらも、ペダルをこぎ続けている自分がいる。自然と笑っていた。孝に頭を撫でられ「よくやった。大したもんだな」と褒められ、有頂天になる正志。そんな光景が次々と浮かんだ。次第にそれは淡くなり、白くなり、歪んでいった。正志は浅い眠りに落ちた。

秋の土曜の午後、昔ながらの喫茶店から西日に照らされた中年の男女が出てきた。
「今日はいつもより美味しく感じた」
「10月に入ると、やっぱりホットコーヒーがうまくなるね」
孝と恵理の足取りに迷いは感じられない。ここから南へ数百メートル歩けばK公園だ。もう何度目になるのだろうか?二人のデートコースの締めとしてすっかり定着した。そこでしばらくくつろいでから、恵理は仕事場である居酒屋へ向かうのだ。孝は両手を天に向かって伸ばした。
「気分いいね。まだ日本にもこんな穏やかな日があるんだ」
恵理も真似して両手を伸ばした。
「ほんとだ。気持ちいい。たまにはここから一緒に店に行く?」
恵理がいたずらっぽく笑った。から西日に照らされた中年の男女が出てきた。
「今日はいつもより美味しく感じた」
「10月に入ると、やっぱりホットコーヒーがうまくなるね」
孝と恵理の足取りに迷いは感じられない。ここから南へ数百メートル歩けばK公園だ。もう何度目になるのだろうか?二人のデートコースの締めとしてすっかり定着した。そこでしばらくくつろいでから、恵理は仕事場である居酒屋へ向かうのだ。孝は両手を天に向かって伸ばした。
「気分いいね。まだ日本にもこんな穏やかな日があるんだ」
恵理も真似して両手を伸ばした。
「ほんとだ。気持ちいい。たまにはここから一緒に店に行く?」
恵理がいたずらっぽく笑った。
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若い罪(36)

2020-11-11 12:01:34 | 小説
「母さんは俺たち兄弟3人と親父を同じ理由で苦しんでいたと言ったけど、それは違うんじゃないの。10代の人間と40、50の人間をいっしょくたにするのは違うし、母子と夫婦を一緒にするのも違う。実際に若い女性と浮気しているわけではないんだし、妻が若いなら他人から見たら、羨ましいんじゃないの?その類の嫉妬は多少あるにしても」
確かに正志のほうが正論のようでもあるが、佐世子は何とか言葉を繋がなければならなかった。
「はっきりした事は分からないけど、私みたいな病的な若さより、現実的な中年女性を選んだのは事実なわけだし」
佐世子の表情に微かに悔しさが滲んだ。
「多分、長年積み重なった不平、不満からこんな行動に出たんじゃないかな。無口な人間ほどストレスをため込んで、一気に爆発する危険があるとはよく聞く話だけど、まさか自分たちの家族にそれが起きるとは思いもよらなかった。本音では何を考えていたんだろう、お父さん」
麻美がため息交じりに話した。

ずっと黙っていた彩乃が、彼女なりの提案をする。
「今日はこれぐらいにしといて、また次に4人で集まって結論を出せばいいんじゃないかな?」
彩乃の先送り案を佐世子は諭すように否定した。
「彩乃、4人で集まってこの話をするのは、今日が最初で最後だよ。一応、みんなの意見を聞いて、最終的に決めるのはお母さんだから。まだ答えが出てる訳ではないけどね」
彩乃は不満と安堵が入り混じった顔を浮かべた。
「じゃあ、解散ということで。といっても帰るのは姉ちゃんだけか」
正志が椅子から立ち上がりながら、炭酸が抜けたような声を出したことで、場が少し和んだ。麻美が「駅まで送っていく」という彩乃を連れて、玄関のドアを開けた。日は西に大きく傾き、街はすでに夕暮れだった。
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若い罪(35)

2020-11-10 22:32:49 | 小説
彩乃はその言葉を聞き終えたと同時に「お姉ちゃん」と言いながら、テーブルの上に突っ伏した。これらの反応が、佐世子の外見がいつまでも変わらない問題の大きさを物語っていた。しばらくは正志も目を閉じて沈黙していた。しかし、それは破られた。
「姉ちゃんの言ってることは分かるよ。俺も同じ思いをしてきたから。アヤはまだそこから抜け切れてないのかもしれない。でも親父はどうなんだ?母さんの外見が若い頃と変わらないからって、困ることなんてあるのか?」
麻美は返す言葉を探しているが、まだ見つからない。彩乃に至ってはようやく顔をテーブルから離したものの、首をうな垂れている状態だ。

「やっぱりお父さんにも困ることはあったんだと思う」
佐世子が重々しく口を開いた。
「例えば?」
正志が冷淡に聞く。
「あなたたちと同じじゃないの。この家にも何人もの職場の同僚が来ているし、そうした噂がすぐに広がるのは想像がつくでしょう」
佐世子はなぜ孝の弁護側に立たなければならないのか、よく分からなかった。しかし、自分が正志と一緒になって孝を叩き始めれば、事態は一気に離婚へと向かってしまう。それが怖かった。
「それにしても、お父さんが浮気して家を出るなんて。私が知る限りでは、一番そうしたことから遠い人だと思ってた」
麻美が微かに笑みさえ浮かべながら、孝をからかうような調子で話した。佐世子は麻美も社会に出て、すっかり大人になったという感慨があった。しかし、正志は佐世子の説明にも納得がいかなかった。
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若い罪(34)

2020-11-10 14:08:53 | 小説
「私がパパやママに冷たい態度を取ってたからだよ」
彩乃はすっかり泣き声だった。
「もう分かったからアヤは黙って聞いてろ」
テーブル越しに向き合った兄の正志が諭すように言った。しかし、一転してトーンが変わった。
「それにしても見損なった。悪いのは親父だ。それと浮気相手の女」
「まあ、その通りなんだけどね。お母さんはどう思ってる?」
麻美はいつになく攻撃的な弟に目をやり、そのまま正志の左に座る佐世子に視線を滑らせた。
「正志の言う通り、お父さんが悪い。無責任な行動だと思う。あと浮気相手の女性は彩乃から話を聞かされただけだから何とも。でも、もし直接会えば、怒りは沸くだろうね。ただ、悪いのはお父さんだけじゃなく、自分も悪い」
佐世子は正直に胸の内をさらけ出した。

「何で母さんが悪いの?俺には全然、意味が分からない」
相変わらず、今日の正志は攻撃的だ。
「それは何というか。年々、夫婦としての距離が遠くなってきた気がしてたんだけど、お父さんもお母さんも修復する努力をあまりしてこなかった」
子供たちにとって分かりにくい説明になっているのは重々承知していた。正志が何か言いたげに佐世子に視線を向ける。
「小学校の教師になって、子供には本当にそれぞれの個性があるなあと改めて思った。だから、お母さんが何十歳も若く見えるのも特別な個性で、本当は尊重されなくちゃいけない。ただ私は、多分、正志も彩乃も同じ経験をしてきたはずだけど、その若さを時に鬱陶しく感じてしまった時期がある。でもそれは私が間違っていた。むしろ母が姉のように若々しいことに胸を張るべきだったと今は思うよ」
麻美は母の代弁者となった。佐世子の目は潤んでいた。
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若い罪(33)

2020-11-10 10:31:39 | 小説
「本当かなあ?若く見えすぎるのが旦那の浮気や、ましてや離婚を決意させるほどまで大きくなるのかなあ?」
和枝が信じられないのも無理からぬところだ。女性にとって若さは本来、最大の武器のはずなのだから。それゆえに和枝が羨ましいとは言えなかった。
「それだけが原因ではないと思うけど、大きな理由なのは自分でも認めざるを得ないと思ってる」
和枝の困惑がわずかな沈黙から伝わってくる。
「まあ、孝さんをあんまり責めないほうがいいと思うよ。とにかく穏便にね」
「ありがとう」
そう言い残し、佐世子は電話を切った。和枝が迷惑に思っているのがよく分かったからだ。和枝が佐世子を心配しているのは確かではあるけれど、彼女には彼女の生活がある。余計なことに巻き込まれたくない。それが和枝の本音だろう。

麻美が実家に帰ってきたのはどれぐらい振りだろう。今年の正月以来になりそうだ。神奈川県内の小学校教師として働いている。仕事が忙しいのか、1時間半あれば十分帰れる実家にもすっかり顔を出さなくなった。
「麻美、元気でやってる?」
佐世子は少し心配顔で尋ねた。
「うん、私は元気。まだ副担任だからね。担任を持つようになったら大変だと思うけど。それよりどうしたのお父さん」
麻美が孝のことを口にした時、端正な顔が一瞬、愁いを帯びた。
「どうしたんだろうね」
佐世子がため息交じりに返す。
「お姉ちゃん、私のせいだよ」
麻美の右隣から、彩乃が切迫感を含んだ声で訴える。
「何で?お父さんは彩乃のことをいちばん可愛がってたんだよ」
麻美は彩乃の肩まで伸びた髪を軽く撫でた。
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若い罪(32)

2020-11-09 18:13:29 | 小説
当然、彼女にも浮気された悔しさはある。しかし、心のどこかにまだ余裕があった。若い女性と浮気したというなら、短絡的な怒りも大きかったはずだ。しかし、あくまで彩乃の見た印象とはいえ、50歳前後の中年女性。佐世子にも負けるはずがないというプライドがあった。だからこそ戸惑う。戸惑いながら離婚を真剣に考えてみる。しかし、あまりに急な話で決断はできそうにない。離婚する、しない。どちらを選んでも間違っているような気がするのだ。
そして佐世子は人を頼った。町田朋子に経緯を話し、相談した。町田の意見は「まず佐世子さん自身がどう考えているのか整理し、そして3人の子供にも意見を聞いたほうがいい。互いの意見をぶつけ合って出した結論ならどういう形であれ、これからの人生を前向きに考えられるのではないか」というものだった。

もう1人、旧友の牧野和枝にも相談した。和枝は2人の子育てをほぼ終え、最近は夫と2人で年に1度は泊りがけの旅行に出かけているらしい。外から見れば、おしどり夫婦の部類だろう。孝が家から出て行ったことは伝えてあった。
「随分、急な話だね。離婚だなんて」
和枝は沈んだ口調ながらも、どこか遠い国の話を聞いている様子だった。佐世子は皮肉にも和枝夫婦の仲睦まじさを垣間見た気がした。
「彩乃ちゃんは高校3年だっけ」
和枝が唐突に尋ねてきた。
「うん、あと4、5か月で大学受験」
「大きくなったね」
この時ばかりは和枝も感慨深げだった。
「確かに夫がいなくなってから、彩乃も少し大人になったような気がする」
「長い反抗期も終わりだね」
「それは私にも半分、いやそれ以上、原因があることだから。今回、夫をここまで追い詰めたのも」
佐世子の偽らざる本音だった。
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若い罪(31)

2020-11-09 15:07:59 | 小説
「実は50を過ぎた辺りから、役所を辞めようと思ってたんだ。50代半ばで。それで50代後半から何するんだって。いろいろ想像してみたけど、これまで30年、公務員一筋でやってきて、多趣味でもない自分に何ができるか?なかなか思いつかなかった」
「そんなに商売は甘いもんじゃない。孝さんには定年まで公務員を勤め上げるのが似合ってるよ。うん、それが似合ってる」
恵理は缶ビールと小鉢に盛った枝豆を孝の前に置いた。
「そうだね。うん、その通りだ。ただ離婚は成立させる」
孝はビールを二口、三口飲むと、枝豆に手を伸ばした。

「いくら孝さんが決断しても、こればっかしは相手があることだからねえ。さて上手くいきますか?」
「うん、納得してくれると思うよ。これまでの財産はすべて向こうのものになるし、末娘が大学へ入学したら、当然、入学金も授業料も払うわけだし」
孝はそうは言いながらも、自分の意志だけを一方的に伝えて、すぐさま元の自宅を後にした行動に一抹の不安を覚えていた。そんな彼の希望的観測や正当化は聞き飽きたとばかりに、恵理は「さあ、今日も仕事だ」と席を立った。

9月下旬、川奈家に4人の家族がテーブルを囲んで座っている。佐世子と麻美、正志、彩乃の3人の子供たちである。孝が久しぶりに自宅に戻り、離婚届を持参してから1週間以上が経過している。
佐世子は孝が置いていった紙を眺めながら2、3日は一人で考えた。しかし、それまで離婚は現実の問題として受け止めていなかった彼女にとっては、意表を突かれた思いだった。孝が家を出ていき、浮気をしていることが分かった後でさえ、子供たちが独立した後は孝と二人で暮らしていきたいというのが、佐世子の本音だった。
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