少数派でしょうが、私はこう思っています。才能>努力と。最近は傲慢な努力が天賦の才能を脅かしている気がします。
本来、才能のある人にはかなわないけれど、努力すればその人に近づける。自分が少しでも上手くなれる。そこに努力の美しさがあったように思います。しかし最近の努力ときたら謙虚さに欠けている。
たとえばスポーツ。薬物を使った努力で本来勝てないはずの相手に勝ってしまう。陸上競技に限らず、あらゆる種目に蔓延してしまっているようです。
たとえば将棋。将棋の勉強法といえば今も昔も棋譜を並べることが最も大切だとは思うのですが、そこにパソコンが入り込んできました。羽生善治が七冠を達成したとき、無冠の九段に転落した谷川浩司は不器用な手つきでパソコンを覚えようとしていました。そしてなんとこれからはネットで公式対局を行うというのです。原則、対局者は自宅でパソコンに向かいながら指すそうです。大丈夫なんでしょうか?
本来努力は美しく価値の高いものだと思います。科学も決して悪者ではない。ただそれが人の情念と結びつくと、時に努力と才能の関係をややこしくし、そして汚していく。確かに勝者は偉いかもしれない。しかしその勝利優先主義こそがこの問題の根本です。勝つ事より重要な何かを見出せない人間は、勝利の誘惑に簡単に負けてしまうのではないでしょうか。
本来、才能のある人にはかなわないけれど、努力すればその人に近づける。自分が少しでも上手くなれる。そこに努力の美しさがあったように思います。しかし最近の努力ときたら謙虚さに欠けている。
たとえばスポーツ。薬物を使った努力で本来勝てないはずの相手に勝ってしまう。陸上競技に限らず、あらゆる種目に蔓延してしまっているようです。
たとえば将棋。将棋の勉強法といえば今も昔も棋譜を並べることが最も大切だとは思うのですが、そこにパソコンが入り込んできました。羽生善治が七冠を達成したとき、無冠の九段に転落した谷川浩司は不器用な手つきでパソコンを覚えようとしていました。そしてなんとこれからはネットで公式対局を行うというのです。原則、対局者は自宅でパソコンに向かいながら指すそうです。大丈夫なんでしょうか?
本来努力は美しく価値の高いものだと思います。科学も決して悪者ではない。ただそれが人の情念と結びつくと、時に努力と才能の関係をややこしくし、そして汚していく。確かに勝者は偉いかもしれない。しかしその勝利優先主義こそがこの問題の根本です。勝つ事より重要な何かを見出せない人間は、勝利の誘惑に簡単に負けてしまうのではないでしょうか。