中日などで選手、監督として活躍した星野仙一さんが亡くなりました。ずいぶん急でしたね。
僕が子どもの頃、星野さんは現役でしたが、すでにピークを過ぎていました。当時は30才を超えると、投手は急激に衰える時代でした。だから、スピードでは、チームメイトの小松辰夫や鈴木孝政には遠く及ばない。同世代の大洋の平松やヤクルトの松岡同様、「5回を3点で抑えてくれればいい」とアンチ巨人の僕は思っていました。昭和50年代というのは空前の打高投低の時代。巨人を完封することなど夢のまた夢でした。それでも気迫を前面に押し出すという点では、ナンバーワンだったのではないでしょうか。
打倒巨人への想いは現役を引退しても全く衰えることなく、1988年に悲願のリーグ優勝。王監督を退任に追い込みました。優勝につながったのは、就任直後に行った大型トレード。ロッテの落合と中日の4選手。しかし、4人の中の中心人物、牛島投手がトレード拒否、引退も考えていたようです。最後には牛島が折れ、トレードが成立。名古屋駅で牛島さんを見送る星野さんの姿は忘れられません。
監督としての手腕もさることながら、スピーチの名手でもありました。ナゴヤ球場最後の試合と巨人優勝が重なった日のスピーチで「巨人ファンの皆さん、優勝おめでとうございます」という言葉も印象的です。
2003年には、あの知将・野村克也でも立て直せなかった阪神を18年ぶりに優勝させました。そして楽天に移り、巨人を倒し初の日本一。仙台で一番になる。まさに名は体を表すの典型でした。
70歳。今の時代としては、人生の長さはさほど長い方ではないかもしれません。しかし、中身は非常に濃密だったのではないでしょうか。今頃、先立たれた奥さんと参謀の島野コーチと再会し、「久しぶりだな」と張りのある声が、天国に響いているのではないでしょうか。星野さん、お疲れさまでした。
僕が子どもの頃、星野さんは現役でしたが、すでにピークを過ぎていました。当時は30才を超えると、投手は急激に衰える時代でした。だから、スピードでは、チームメイトの小松辰夫や鈴木孝政には遠く及ばない。同世代の大洋の平松やヤクルトの松岡同様、「5回を3点で抑えてくれればいい」とアンチ巨人の僕は思っていました。昭和50年代というのは空前の打高投低の時代。巨人を完封することなど夢のまた夢でした。それでも気迫を前面に押し出すという点では、ナンバーワンだったのではないでしょうか。
打倒巨人への想いは現役を引退しても全く衰えることなく、1988年に悲願のリーグ優勝。王監督を退任に追い込みました。優勝につながったのは、就任直後に行った大型トレード。ロッテの落合と中日の4選手。しかし、4人の中の中心人物、牛島投手がトレード拒否、引退も考えていたようです。最後には牛島が折れ、トレードが成立。名古屋駅で牛島さんを見送る星野さんの姿は忘れられません。
監督としての手腕もさることながら、スピーチの名手でもありました。ナゴヤ球場最後の試合と巨人優勝が重なった日のスピーチで「巨人ファンの皆さん、優勝おめでとうございます」という言葉も印象的です。
2003年には、あの知将・野村克也でも立て直せなかった阪神を18年ぶりに優勝させました。そして楽天に移り、巨人を倒し初の日本一。仙台で一番になる。まさに名は体を表すの典型でした。
70歳。今の時代としては、人生の長さはさほど長い方ではないかもしれません。しかし、中身は非常に濃密だったのではないでしょうか。今頃、先立たれた奥さんと参謀の島野コーチと再会し、「久しぶりだな」と張りのある声が、天国に響いているのではないでしょうか。星野さん、お疲れさまでした。