六月二日(火)晴れ。開港記念日。
横浜の人しか知らない横浜の歌がある。それは「横浜市歌」である。一九〇九年(明治四十二年)七月一日に横浜港の新港埠頭で行われた「開港五十年記念大祝賀会式典」の席で、初めて披露された。以来、市民に広く歌い継がれている。作詞は森林太郎(森鴎外)、作曲は東京音楽学校教師の南能衛(よしえ)。この曲は、横浜市が東京音楽学校に仲介を委託し、南が作った旋律の上に、森が歌詞を作り、完成させたものである。森に対する作詞謝礼は百円、南に対する作曲謝礼は五十円だった。(横浜市広報)
横浜の市立の小、中、高校などの入学式や卒業式で歌われ、今日の開港記念日は、休校日となる。下の子供が通っているは県立高校なので休みではない。我が家では、私を含めて子供たちは横浜生まれなので、皆歌えるが、愚妻は青森の出身なので、その歌を当然ながら知らない。
横浜市歌
わが日の本は島国よ
朝日かがよう海に
連りそばだつ島々なれば
あらゆる国より舟こそ通え
されば港の数多かれど
この横浜にまさるあらめや
むかし思えば とま屋の煙
ちらりほらりと立てりしところ
今はもも舟もも千舟
泊るところぞ見よや
果なく栄えて行くらんみ代を
飾る宝も入りくる港
様々な所に旅をして、港のある街に行き着くことがある。するといつも頭に浮かぶのが、「されば港の数多かれど、この横浜にまさるあらめや」との横浜市歌の一節である。
更に、浜っ子なら、子供の頃には必ずと言って良いほどやった遊びがある。京急の「上大岡」と言う駅には「お」がいくつあるか、と同じ京急の「金沢文庫」の駅名を言うのに、両手の小指を口の両端に入れて、左右に引っ張って「金沢文庫」という言葉遊び。他愛もないものだが、浜っ子ならではの遊びである。
その開港記念日に、開港祭がおこなわれる。みなとみらい地区で、恒例の花火大会を松本佳展君と彼の友人のお世話で、社友や町内の仲良しさんたちと見学。暗くなるまでは、海風に吹かれながら宴会。花火の時間は三十分と短いのだが、レーザ光線や音楽とコラボした花火は幻想的かつ圧巻である。花火のBGMは「横浜市歌」と「赤い靴」。横浜らしくて良い。
終了後は、町内の仲良しさんと「やまと」に転戦。早めに帰宅。
横浜の人しか知らない横浜の歌がある。それは「横浜市歌」である。一九〇九年(明治四十二年)七月一日に横浜港の新港埠頭で行われた「開港五十年記念大祝賀会式典」の席で、初めて披露された。以来、市民に広く歌い継がれている。作詞は森林太郎(森鴎外)、作曲は東京音楽学校教師の南能衛(よしえ)。この曲は、横浜市が東京音楽学校に仲介を委託し、南が作った旋律の上に、森が歌詞を作り、完成させたものである。森に対する作詞謝礼は百円、南に対する作曲謝礼は五十円だった。(横浜市広報)
横浜の市立の小、中、高校などの入学式や卒業式で歌われ、今日の開港記念日は、休校日となる。下の子供が通っているは県立高校なので休みではない。我が家では、私を含めて子供たちは横浜生まれなので、皆歌えるが、愚妻は青森の出身なので、その歌を当然ながら知らない。
横浜市歌
わが日の本は島国よ
朝日かがよう海に
連りそばだつ島々なれば
あらゆる国より舟こそ通え
されば港の数多かれど
この横浜にまさるあらめや
むかし思えば とま屋の煙
ちらりほらりと立てりしところ
今はもも舟もも千舟
泊るところぞ見よや
果なく栄えて行くらんみ代を
飾る宝も入りくる港
様々な所に旅をして、港のある街に行き着くことがある。するといつも頭に浮かぶのが、「されば港の数多かれど、この横浜にまさるあらめや」との横浜市歌の一節である。
更に、浜っ子なら、子供の頃には必ずと言って良いほどやった遊びがある。京急の「上大岡」と言う駅には「お」がいくつあるか、と同じ京急の「金沢文庫」の駅名を言うのに、両手の小指を口の両端に入れて、左右に引っ張って「金沢文庫」という言葉遊び。他愛もないものだが、浜っ子ならではの遊びである。
その開港記念日に、開港祭がおこなわれる。みなとみらい地区で、恒例の花火大会を松本佳展君と彼の友人のお世話で、社友や町内の仲良しさんたちと見学。暗くなるまでは、海風に吹かれながら宴会。花火の時間は三十分と短いのだが、レーザ光線や音楽とコラボした花火は幻想的かつ圧巻である。花火のBGMは「横浜市歌」と「赤い靴」。横浜らしくて良い。
終了後は、町内の仲良しさんと「やまと」に転戦。早めに帰宅。