白雲去来

蜷川正大の日々是口実

菊の節句か。

2021-09-17 10:46:23 | 日記

9月9日(木)雨。重陽の節句。

重陽と言えば、頭に浮かぶのが有名な王維の「九月九日山東の兄弟を憶う」という漢詩。これが王維17歳の時の作と言うのだからへぇー。と言う感じになる。この詩は、やはり王維の「元二の安西に使いするを送る」と並んで有名である。

独り異郷に在って異客と為り
佳節に逢う毎に倍ます親を思う
遥かに知る兄弟高きに登る処
遍く茱萸(しゅゆ)を挿して一人を少(か)くを

菊の節句といえども、朝から「菊酒」を飲む気にもなれずに、在宅で仕事中の子供と「塩ラーメン」、餃子。夜は、牛丼、アコウダイの西京漬け、ポークソーセージ。休肝日とした。寝しなに、久しぶりに宇垣纏の『戦藻録』下巻、昭和19年9月の項を読む。「本朝七時以降ダバオ方面三か所に敵艦上機二八〇機来襲す。すなわち七、八両日ヤップ、パラオ方面を攻撃せる敵機動部隊は転進してミンダナオに来襲せるものにして、午後索敵の結果判明せる所左のごとし。(中略)本攻撃はパラオ、ヤップ方面攻略の援護の目的に出でたるものと観測せらるるところ、我が飛行機の大部は回避しあり。局地防空のほか大なる抵抗なきに乗じ敵の跳梁は相当なりしを疑わず」。

この年の七月にはサイパン島が陥落。戦況はますます悪化の一途をたどる。宇垣の日記にも、「局地防空のほか大なる抵抗なきに乗じ敵の跳梁は相当なりしを疑わず」と危機感にあふれている。宇垣も重陽の節句を楽しむ余裕などなかったに違いあるまい。何もすることがない時、盟友が送ってくれたこの本を開く。いつも背筋の伸びる思いになる。

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北京の地下都市。

2021-09-17 10:46:23 | 日記

9月8日(水)曇り。

何時の頃からか、目の具合が悪い。朝起きると目がショボショボする。眼科に行って白内障や様々な検査をしたが、結局は「ドライアイ」と「加齢」いうことに落ち付いた。また明るい所から、暗い所に出ると目の両脇に光が走る。すぐに収まるのだが、やはり気になるので医者を変えてみようかと思っている。

朝食は、サバのみりん干し、かけうどん。昼は、眼科で目薬を貰いに行った帰りに「ココ壱番屋」で、スクランブルエッグ・カレー。夜は、カツオの刺身、豚肉の生姜焼き、鶏肉の煮物。お供は、「伊佐美」。酔狂亭にて独酌。

司馬遼太郎の『長安から北京』を読んでいて驚いたことがあった。「何だそんなことも知らなかったのか」と言われたら、返す言葉もないが、その本によれば、司馬さんが北京を訪れたのは1975年の5月のこと。もう46年も前だ。当時中国は、同じ社会主義の国とは言え「ソ連の重圧」に頭を悩めていた。世界最大と言われていたソ連の機械化兵団が中ソ国境に張り付いていた。司馬氏は、その状況を「かつて難渋し続けてきた北方騎馬民族からの重圧と少しも変わっていない」と解説している。

かつての北方騎馬民族に対しては万里の長城を築いたが、ソ連の重圧に対しては「深く坑(あな)を掘り、食料を蓄え、覇権を求めず」という毛語録を基に北京の下には北京の市民が、ほとんど瞬時に地下に入れるという施設があり、その一部の地下施設を司馬さんは実際に見たということが書いてあった。

軍事大国となった現在の中国が46年前のようにソ連(ロシア)の重圧に頭を悩ますこともないだろうが、その広大な地下施設が今もあるのだろうか。北京へ行った時に聞いてみればよかった。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする