三月三日(火)曇りのち霙。経団連事件から三十二年。
寒い一日だった。天気予報では夜から雪になるといっていた。早いもので今日は、昭和五十二年に、財界の営利至上主義を撃つ、として野村先生らが経団連会館を襲撃占拠した、いわゆる「経団連事件」から三十二年。
あの日の衝撃は一生忘れられないだろう。自宅にいながら事件の一報を聞いた時の、あの衝撃を。その頃に偶然読んだ本が、城山三郎の「一歩の距離」だった。私が、そのわずかな「一歩の距離」を埋めるために、十年の歳月を必要とした。かつての私同様、「一歩の距離」を縮めたいと思っている若い人たちが沢山存在している。出撃するのも、迎撃に出るのもタイミングなのだ。背中を押されなければ、出撃できないこともあれば、自ら戦場を求めることもある。常にスタンバイし、常にファイティング・ポーズの心構えが大切なのだ。
夜は、以前から、「是非一献」と約束をしていた友人と、ようやくお互いのスケジュールが合い、下町の小料理屋で、鴨鍋を囲んだ。話題は当然「週刊新潮」のガセ記事のことになった。
友人氏いわく「売れれば、多少の嘘でも書いて構わない。という風潮が蔓延しているのでしょう。裁判を起こされても、判決が出る頃には、そんな事があったことさえ、忘れてしまうし、名誉毀損で多少のお金を払わされても、新潮社にしてみれば、屁でもない。実際に、五万部も増刷したそうじゃないですか。その利益から見たって、損害賠償のお金なんて微々たるものでしょう。五大新聞も、他の週刊誌も、全て、捏造と報道しているのに、全く恥じることがない。今後、『週刊新潮』の名刺を出して取材などできるのでしょうかね。これが、一般的な感想ではないでしょうか」。
逃がさないよ佐藤君!
雪が積もって帰れなくなるといけないので、早々とお開きにした。帰りの車中、タクシーのフロントガラスを霙が襲う。野村先生の若き日、恩師である三上卓先生と、このような日に車に乗っていたことの話を聞いたことがある。
ヘッドライトに浮かぶ霙を指差して「秋介、お前が歩もうとしている道は、この霙を照らす車のライトのように、まっすぐでなければいけない。たとえ弱い明かりであっても、霙や嵐の中を信念を曲げずに、まっすぐ行け」。翌年、野村先生は、河野一郎邸の焼き討ち、すなわち「炎の警鐘事件」に決起する。
私が、野村先生と初めてお会いするのは、その事件で千葉刑務所から出所した、昭和五十年の夏の事である。
雪が降るたびに、私は野村先生からお聞きしたこの話を思い出す。そして私も、若い門下生に、この話を伝えている。
俺に是非を説くな 激しき雪が好き
野村先生の代表句である。
布団に入っても、中々眠れず、久し振りに結跏趺坐し亡き師を思う。