二月十日(火)晴れ。
良い天気である。子供たちは学校、愚妻は仕事。一人残された私は、掃除に洗濯の後に、事務所に行き注文された書籍やDVDの発送。その後は、寒い事務所で原稿を二時まで。仕事を終えた愚妻と自宅近くの「永楽」という蕎麦屋で昼食。
午後から、「週刊新潮」のヨタ記事の早刷りが手に入ったという、知り合いの記者たちから、次々と電話が入り、昼食どころではなくなってしまった。早速、自宅に戻りFAXを確認。相変わらずヨタ記事を性懲りもなく掲載しているナァー、と呆れて読んだ。大体、野村先生のことを「ダンナ」なんて呼ぶ人を見たことも、聞いたこともない。また先生のことを「オヤジ」と呼ぶ、女性など絶対にいなかった。当時の野村事務所は、浜松町にあり、事務所の責任者は、先生の娘婿で現在は県会議員となっているT氏、それに編集長としてS氏がおり、女性事務員はOとSさんの二人がいて、資料整理にカオリではなく「ユカリ」チャンが在籍していた。秘書兼運転手は、Aという男から、Mという元タクシー運転手に、そして私の事件の後に、国会議事堂に火炎車で突入したSの三人が担当した。
その中の何人かを除いて現在も全員と連絡が取れる。一応確認してみたが、皆、一笑に付していた。そういえば、先生のことを「オヤジ」と呼ぶ人が二人いる。一人は、前述のT氏。この人にとって、先生は義父にあたのるで、「オヤジ」と呼んでおかしくない。もう一人は、「蒲田の姐さん」。しかし蒲田の姐さんはワープロなど打てないし、そんなことがあったなら、真っ先に私に連絡してくるだろう。
赤報隊事件の時は、私は、在獄中であり、もし先生が非合法の運動に関わるとしたら、間違いなく、現一水会の会長の木村三浩氏に依頼するに違いない。さらに先生は、とても慎重な人で、犯行声明文などを打たせるとしても、決して人前で指示をするようなことはしないと断言できる。大体、私を含めて、旧野村事務所に在籍していた人たちや門下生に聞いても、新潮に名乗り出た人を誰も知らないというのは、不自然ではないか。
「週刊文春」の記事も読んだが、こちらの方が、よほど信憑性がある。昭和五十一年から平成四年まで一緒に生活していたという元妻の証言。今回のドタバタは、この人の一言に尽きる。
夜は、「蜷川政経懇話会」を野毛の「弥平」にて開催。久し振りに、マーク氏も合流して、あんこうのシャブシャブに舌鼓を打った。四月に結婚式を挙げるという後輩に、酔いもあって、随分しつこく話していたらしい。ゴメンナサイね。その後、マークとサリーの店に寄ったら、何と満席で、珍しく、サリーパパのヒゲジイがカウンターを手伝っていた。社友の古谷喜久男氏を誘ったら、フラれてしまった。十二時近くに帰宅。