白雲去来

蜷川正大の日々是口実

今は、「産経」一紙のみである。

2023-01-15 15:29:27 | 日記

1月9日(月)晴れ。成人の日とか。

遅い朝食は、正月に沖縄旅行へ行っていた仲良しさんからのお土産の「沖縄そば」に、やはりお土産の「ソーキ」を入れた。久しぶりの「沖縄そば」だったが、美味しかった。昼は抜いた。夜は、札幌の後輩が暮れに送ってくれた「タラバガニ」と、友人にお願いして買って貰った「マグロ」。まあ浪人には過ぎた贅沢だが、正月、それも最後の連休と言うことで家族サービス。しかし「タラバガニ」何ぞ食するのは、久しぶりの事だ。お供は「宮崎限定・日南発・ひなた」という芋焼酎。かなり美味しかった。

かつて新聞は、産経、読売、朝日の三紙を取っていたが、あっという間に「紙ごみ」が溜まるのと、ネットでニュースが見られるので、今は産経一紙のみである。まずは、「朝晴れエッセー」という読者からの投稿エッセイを読む。皆さん、とても文章が上手で、読んでいて感心する。面白いのは、3,4行も読むと、「ああ同輩だな」という事が分かる。同じ時代を生きてきた景色が文章の中にあるからだ。それから「産経抄」へ。また黒田勝弘さんの「から(韓)くに便り」も好きで、掲載されていると嬉しくなる。他は、土曜日のみに掲載される花田紀凱さんの「週刊誌ウォッチング」も中々辛辣、適切で面白い。「ニューズウィーク日本版」を読むようになったのは、花田さんのコラムを読んでからだ。しかし老眼がすすみ、新聞の文字が見えづらくなった。我慢しないで老眼鏡を誂えるか。


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若き大陸浪人来る。

2023-01-15 14:57:23 | 日記

1月8日(日)晴れ。

朝食は、成城石井で買った冷食の小籠包、やはり冷食の水餃子と味の素の「丸鶏ガラスープ」を使った、ほうれん草のスープ。昼は抜いた。夜は、かつては大陸浪人を自負しアジアを放浪し、現在は水産庁にお世話になっている静岡の杉山茂雄君が来訪して、西横浜の「オアジ」にて一献会を開催。

杉山君は、アジアを放浪している時は、必ず絵葉書を送ってくれる。全て取ってあるが、そういう律義さがある。「今度は何処へ行くの」と聞くと、「ビルマ(現ミャンマー)から「援蒋ルートをたどってみようと思っています」。それを一緒に聞いてたいた松本佳展君が、「そんなこと言って分かるのは、我々ぐらいだ」とあきれていた。ちなみに「援蒋ルート」とは、支那事変(日中戦争)における中華民国の蒋介石政権を軍事支援するため主に米・英・ソが用いた輸送路のことである。

そしてフラっと帰国しては、連絡をくれる。久しぶりの一献が大いに盛り上がったのは言うまでもない。


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「兵馬俑と古代中国」展へ。

2023-01-15 14:39:33 | 日記

1月7日(土)晴れ。

朝食は、バタートースト二枚とモンカフェのスペシャルブレンド。午前中の電車で東京行き。

以前からネットで予約しておいた、上野の森美術館にて開催されている「兵馬俑と古代中国」という展示会に愚妻を伴って行った。11時の時間帯を予約しておいたので比較的に空いていた。実際に兵馬俑を見ると、そのリアルさと歴史の流れに圧倒された。万里の長城も紫禁城へも行ったが、残念ながら兵馬俑を見ていなかったので、本場の物ではないが、嬉しかった。コロナが収まったなら西安に行って見たいと思っている。

帰りに大熊雄次さんと合流。「ライオン」でアイスバインで一杯やってから、アメ横の秘密基地「新東洋」へ転戦。横浜に戻りました。いい一日でした。


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『戦藻録』を読む。

2023-01-14 17:41:14 | 日記

1月6日(金)晴れ。

良い天気なり。朝食は、豚汁、赤ウインナー、目玉焼き。昼は、自宅近くの蕎麦屋で「かつ丼セット」。夜は、足柄のポークハム、湘南餃子、湯豆腐にキムチ。お供は、「さつのま司」。

大東亜戦争開戦から二年目の正月。すなわち昭和17年の1月1日、宇垣纏の従軍日記『戦藻録』にはこう書かれている。支那事変以来6年、大東亜戦争第二年目の新春を迎える。竹の園生(たけのそのう=親王。皇族。「たけのその」とも。▽中国の漢代、文帝の皇子の梁(りよう)の孝王が、庭園に竹を多く植えて、「修竹苑(しゆうちくえん)」と名付けた故事による)の弥栄と国運の画期的発展を祈ると共に、速やかに聖戦の目的貫徹を期す。開戦以来まだ二十五日に過ぎざるも、作戦の経過順調にして三月一杯をを俟たずして第一段作戦を終わるの望み充分なり」。そして宇垣は「年あらた総進軍の喇叭鳴り」という句を詠んだ。

しかし、その半年後の昭和17年7月6日、いわゆる「ミッドウェイ海戦」において、日本海軍は投入した空母4隻とその艦載機約290機の全て、および兵士ら3,057名を失うという惨敗を期す。この戦いがターニングポイントとなり、以後戦局は好転せず、敗戦につき進む。過去を学ぶことは、今を知ることにも繋がると思い、私にとって『戦藻録』は聖書のようなもので、常に傍らに置き読むようにしている。


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昭和の正月の風景などない。

2023-01-13 12:19:13 | 日記

1月5日(木)晴れ。

朝食は、鮭、いくら、ボタン海老の「頭」の味噌汁。昼は、トースト一枚に野菜スープ。夜は、ミスジ、キャベツのコールスロー、イタリアンドレッシング和え、結び白滝の炒め物、錦糸町のキムチ。この錦糸町「223」のキムチは絶品で、豚肉と炒めたり、鍋に入れたりしてあっと言う間に食べてしまう。そういえば民族革新会議の同人の中川明夫さんの奥さんは料理上手で、民革の忘年会などに以前は良く料理を作ってくれていた。その中で、「結び白滝」の炒め物が好きで、見よう見真似で作っているが、中川夫人の域には達しない。お供は「黒霧島」。酔狂亭にて独酌。

私が小学生の頃、昭和30年代。正月の風景と言えば、路地で独楽回し、羽根つき、横浜は三春台という所にある関東学院のグランドでの凧揚げと相場が決まっていた。今のようにファミレスやスーパーなどもなく、正月は、何処のどんな商売も5日ぐらいまでは休みだった。6日頃になると、「初荷」という札を貼ったトラックを良く見た。正月明けで世の中が動き出す息吹を子供ながらにも感じたものだ。そのころに貰う「お年玉」は、百円。本当に「お年『玉』」だった。それを持って近くの駄菓子屋に行くのが楽しみで普段は買えない値の貼るものを買った。今では、日本中、どこの町へ行ってもそんな遊びをしている子供はいないだろう。

俳人の中村草田男の有名な句に「降る雪や明治は遠くなりにけり」がある。彼が大学生の頃、自分が出た小学校の前を通った時、雪が降りだすとともに校庭に外套(がいとう=コート)を着た子供たちの現れるのを見て、着物に下駄だった自分の頃との隔たりを感じ、その思いを詠んだと言われている。雪など降らずとも、私の生まれた昭和がどんどん遠ざかり、その記憶も薄れつつある。

 


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