スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

女流王位戦&ライプニッツの欲望

2015-03-18 19:18:07 | 将棋
 昨日の第26期女流王位戦挑戦者決定戦。対戦成績は里見香奈女流名人が20勝,清水市代女流六段が不戦勝の1勝を含めて11勝。
 振駒で里見名人の先手になり角道オープン向飛車。清水六段が銀冠穴熊を目指そうとしたのですが,うまく動かれ阻止されてしまい,その時点で少し苦しくしていたのではないかと思います。
                         
 5六の歩を力強く払った局面。持ち歩と玉型の関係が悪いので,後手は攻めていくほかなさそうです。となれば△6五銀はこの一手だったといえそう。▲同金の方が普通かもしれませんが,▲4七銀とここも力強い指し手。△5六銀▲同銀は一本道でしょう。
 すぐに角を切っても後続がないので△2六金と打ってその準備。▲2七銀が最も普通と感じられますが,▲4七銀と持駒を温存して受けました。
 これですと角を切って△2七銀が成立するのですが,反撃されて後手が勝てないそうです。なので△3三桂と跳ねたのですが,▲3八金と上がられては後手の攻めが続かなくなってしまいました。
                         
 手順中の△3三桂はいかにも遅きに失したと感があります。感想にあるように,第1図より前に跳ねておかなければならなかったということでしょう。
 里見名人が挑戦者に第24期に失冠したタイトルを2期ぶりに獲りにいくことになりました。第一局は来月22日です。

 スピノザを表象したときに含まれるライプニッツの意志作用は肯定的であることと,この表象によってライプニッツの完全性がより小なる完全性からより大なる完全性への移行を伴うことを,同列に扱ってもよいのではないかというのが,僕がライプニッツの思惟作用のダイナミズムを説明する際の最大の主張内容になります。ライプニッツがスピノザの哲学に,賛同するか反発するかは別に,興味を有していたことは間違いありません。ですからその思想の内容を別に,単独でスピノザを表象することは,ライプニッツにとって,厭わなければならない表象ではなかったと推定できます。少なくともライプニッツの精神の完全性を,大なる完全性から小なる完全性へと移行させるような表象ではなかった筈だと思うのです。いい換えれば,ライプニッツはスピノザを愛することはあっても,憎むことはなかっただろうと思うのです。少なくとも,実際にスピノザを訪問するまでは,この推定が成立すると考えます。
 スピノザを訪問することをライプニッツが想像し,その表象像を肯定するということ,そしておそらくその表象像がライプニッツにとっての喜びであったこと,これを仮定するなら,ライプニッツの精神のうちには,実際に訪問するという欲望が生じます。第三部諸感情の定義一は,このような意味においてその欲望が,受動的である限りのライプニッツの現実的本性であると規定しているからです。もっとも,こうしたことは,経験的に考えた方が自然に理解できるでしょう。ある事柄が自身にとって喜びであると感じることと,その事柄が現実化してほしいと思うことは,大抵の場合は分けて考えることが困難なほど,人間の精神のうちでは同時に存在するであろうからです。
 これがライプニッツの意志作用が,スピノザを訪問する場合の十全な原因の一部を構成し得るということの一例です。もちろん実際にそれがライプニッツに生じたというのではありません。また,これ以外の仕方でも説明できるでしょう。しかしどんな場合でも確実性は担保できません。ただ一般に,これがすべての人間の思惟作用にも妥当し得るということは,間違いない筈です。
コメント
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