スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

デヴォーニア&共通の知人

2015-06-13 19:28:03 | 血統
 安田記念を勝ったモーリスの母系を遡っていくと,1925年にアメリカで産まれ,社台牧場に輸入されたデヴォーニアという馬に辿りつきます。Devoniaはテネシー州の地名のようです。ファミリーナンバー10-d
                         
 古い牝系ですから,いくつかの血筋が残っていますが,最も繁栄しているのはデヴォーニアからみて4代子孫になる,1963年に産まれたメジロボサツを基点とする系統。この馬自身,牝馬ながら朝日杯3歳ステークスを勝っています。メジロ牧場はオーナーブリーダーで,牝馬の大半が牧場に戻って繁殖牝馬になりますから,このような活躍馬が出ると分枝が広がります。
 メジロボサツ系から出た代表馬は,JRA賞で1996年に最優秀2歳牝馬,1997年に最優秀3歳牝馬と最優秀父内国産馬,1998年と1999年には最優秀4歳以上牝馬と,2歳から5歳まで毎年大レースを勝ち,代表馬にも選出されたメジロドーベルでしょう。昨年の青葉賞を勝った現役のショウナンラグーンはメジロドーベルの孫で,1999年に中山グランドジャンプを勝ったメジロファラオは,メジロドーベルの従兄です。
 モーリスもメジロボサツ系ですが,メジロボサツ系の中ではメジロドーベルとは異なった分枝なので,メジロボサツでようやく同一祖先が一致します。モーリスの祖母のメジロモントレーは活躍馬で,重賞を4勝しました。
 デヴォーニアを祖にもつメジロボサツ系以外で,僕の競馬キャリアの中で大レースを勝った馬としては,1987年の安田記念を,ほとんどラチ沿いといっていいくらいの大外を追い込んで勝ったフレッシュボイスがいます。まだ本格化する前だったかもしれませんが,このときに5着だったのがダイナアクトレスで,モーリスの父のスクリーンヒーローの祖母。また,8着だったセントシーザーという馬は,やはりデヴォーニアを祖にもつ非メジロボサツ系の馬で,この年に阪急杯とCBC賞を勝っています。
 どちらかといえば勢いは薄れている系統。メジロ牧場が消滅したこともあり,牝系としてどの程度まで生き残っていかれるか,やや不安なところもあるのではないでしょうか。

 スピノザとレンブラントの間に共通の知人が存在したということは,すでにこのブログで明らかにしています。日本語版の『スピノザの生涯と精神』に抜粋して収録されている「レンブラントの生涯と時代」を著したファン・ローンJoanis van Loonです。レンブラントを敬愛していたローンは,レンブラントの死に大きなショックを受け,精神的にひどく落ち込みました。その精神的ショックから立ち直る契機となったのが,スピノザからのアドバイスであったのです。
 このアドバイスがあった場面に関して,ローンは興味深い記述をしています。これはローンから求めたものではなく,会話の中でスピノザが巧みにレンブラントの話題に移すことによってなされたのだそうです。そのときスピノザは,レンブラントの死を知ってスピノザ自身も衝撃を受けたこと,そしてレンブラントの作品,とりわけエッチングに感嘆していたことを話したといっています。
 スピノザがユダヤ人共同体から破門された1656年に,レンブラントは破産しています。そして1660年にはアムステルダムを去っています。レンブラントの生涯が恵まれていたものであったかどうかは分かりませんが,少なくともこのアドバイスがあった時点では,絵画の巨匠としての評価は確立していたといえるのでしょう。ローンのこの部分の記述は,スピノザとレンブラントが知り合いであったと確定できるものではないので,レンブラントはスピノザが知っているくらいの著名な画家だったと読解しなければならないと僕は思います。
 このときのローンがスピノザに会いに行ったのは,助言を受ける目的ではありませんでした。スピノザの方からレンブラントに話を移し,結果的にアドバイスされることになったのには,ローンが仕えていたコンスタンティン・ホイヘンスConstantijin Huygensが,ローンの苦悩を事前にスピノザに伝えていたからかもしれないとローンは書いています。このコンスタンティン・ホイヘンスというのは,外交官だそうですが,ハーグの近くの村のホーフウェイクに別荘をもっていました。また,土星の衛星であるタイタンを発見したことでも有名なクリスティアーン・ホイヘンスChristiaan Huygensの父です。
コメント
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