『世界』を読む会

寅さんの博も読んでいる『世界』を読んで、話し合おう。

是枝監督に学ぶ!

2016-05-04 18:58:59 | 日記

是枝監督に教えられた「歴史修正主義」
                                                             
須山敦行

                                                                                          
是枝監督という人物は、なかなかな人物である。

国谷裕子さんがテレビについて、是枝監督が書いていることを取り上げていたが、『世界』の金平茂紀さんの論考でも、「メディア、報道機関の社会的な役割と、放送法の歴史的な成立過程、放送法の精神、政府による解釈上の変転などをめぐる解説では、是枝裕和氏が三月一一日に公表した『「歴史修正主義」に抗するために~放送と公権力の関係についての私見③』にまさるものはないと思う。」と紹介している。

ネット上に公開されている、その論考を読ませて頂いたが、驚いた。多忙な映画監督が実によく資料を当たって、論を積み重ねている。敬服するしかない。

これまで、私の中で「歴史修正主義」とは、「南京事件はなかった」とか「ホロコーストはなかった」という狂気じみた極端に反動的な主張のことと思っていたが、それとはまた違った位相の、そして重大な「歴史修正主義」を教えられた。

是枝監督の言葉では、こう定義している。
〈個人的なことですが『海街diary』の受賞式や新作の映画『海よりもまだ深く』(5月21日公開です)のキャンペーンで忙しい合間をぬって、このような作業に取り組む気持ちになったその原動力ははっきり申し上げると「怒り」以外の何ものでもありません。
 怒りの矛先はこれもはっきりしています。
 「歴史修正主義」です。
 詭弁を弄して法律の条文に手を加え、舌の根も乾かぬうちにそれを生来手にしている既得権益であるかのように振る舞い始め、それでも変えようのない歴史については自分の都合の良いように解釈を変え、無かったことにする―――そのような態度に対してです。〉

悲惨な戦争を実行してしまった日本の体制、戦前的な日本のあり方の反省、そこからの改革が戦後の出発点である。
言論の自由は、その要の一つであり、「放送法」、「放送行政」も、権力からの報道の自立、権力から報道の自由を守ることが、その中心にある。
それを、ないものにしようとする反動的な圧力が絶えず加えられる戦後史の中で、時々の当事者達の発言によって、「言論の自由」、「放送の自由」が、法理論的にも積み重ねられていく。
ところが、一九九三年の椿発言事件から、政府が「公平な放送」を求めるというような逆転が生じてくる。
それ以後は、それまでの歴史はなかったかのように、事態は進められる。
それを、是枝氏は、怒りを込めて、「歴史修正主義」として、論難しているのである。

私には、憲法を巡る、憲法九条を巡る、また集団的自衛権を巡る、戦後の歴史の歩みそのものとピッタリ重なる推移として、この見方を学ばせていただいた気がする。

何を眼目として戦後を出発したのか、それは、どのように覆されようとし、どのように守られてきたのか。その中で、「歴史修正主義」的な対応はどんな顔つきであるのか。
教育基本法、教科書採択、国旗国歌問題、道徳教育の教科化、大学改革など、教育を巡っては、「歴史修正主義」は、あまりにもあからさまである。

私は、「歴史修正主義」と対する、「戦後民主主義」派であることを、肝に銘ずる論考であった。

※ 是枝氏の文章は
http://www.kore-eda.com/message/20160311.html
で見ることが出来る。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 東久留米の例会は、12日に... | トップ | 東久留米の5月例会、8名で... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事